▼Notes 2000.1
 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#31
1/31 【山形浩生】
山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社)を読んでみた。こういう本は長編小説とかよりも風呂で読みやすいからけっこう重宝する。

いつだって、伝えるべきなのは、その教養そのものじゃない。その教養のもつ力であり、おもしろさだ。(P40)

との基本理念もうなずけて、じつは内容よりむしろ語り口とかスタンスに刺激される点が多かった。個人的にはやっぱり書評とかに目がいってしまうのだけど、こういう方向もありなんだな、というアプローチもいくつかあって新鮮。『死の迷路』あとがきのフィリップ・K・ディック=ジゴロ説もそうだし(しかもちゃんと構造批評になっている)、R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』で反民主主義論を語る文章は、個人的に法哲学を軸にした文芸批評ってできないもんかなあとひそかに考えていたものに路線が近く、ちょっと参考になる。(でも選挙権の売買を認めると金持ちが当選するだけのような気も……)
■あとで読んどこうかなと思った本は、ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』、キャシー・アッカー『血みどろ臓物ハイスクール』とか。(しかし後者はすげえあほな題名。『フィルス』の翻訳者・渡辺佐智江ってただ者じゃなさそう、とか思ってたらこのへんのゲテモノ文学を訳してた人なのね)


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#30
1/30 【いまさらながら】
■いまさら
『ハサミ男』の評を載せてみたのは、なんとなく読み返す機会があったから。
■で、やっぱり物語の手さばきは冴えているし伏線には感心しきりだけれど、やっぱりそれだけという印象は変わらず。真相はどうも面白味に欠けるし、解明のあざやかさもいまいちだと思う。改めて読んでみたら僕は真犯人が誰かすらじつは憶えていなかったのだ。はじめて読んでから半年もたっていないのに。それだけどうでもよかったということなのだろうか。
■ミステリという物語形式では、いちど語られた物語がなんらかの形でひっくりかえされることになる。一見そう思えたけれどじつはこういうことでした、というふうに。そうした「意味の読みかえ」の演出する驚きがミステリの大きな醍醐味だと思うのだけれど、それは同時に、作者がじつはこんなことをやってましたすごいでしょ、というメタ次元の種明かしすれすれのしわざでもある。そういった解明のメタ化を回避して物語的な意味を与えるため伝統的に採用されてきたのが、作者にかわって解説を担ってくれる「名探偵の推理」という物語的装置だったのではないだろうか。
■だから特定の解明役を置かないミステリでは、どんでん返しを物語次元の驚きに結びつけるためのなんらかの意図的演出がとりわけ必要になるような気がする。『ハサミ男』が個人的に不満だったのはそのあたりの意識を感じられなかったせいだと思う。これはおそらく、僕が純粋な「本格ミステリ」をたぶん本気では好きでないことと対応しているのだろう。(ミステリという物語形式を利用してなにをするか、のほうにより興味を感じる)
■と、ここで記してみたことは、以前『ハサミ男』のミステリ観と題してだらだら書いた文章とほぼ同趣旨のつもりですが、なんかまた同じようなことを書いてしまった。ついでに手を広げてみると、例の北村薫関連の話題に対応して上田さんの提示された、

・物語の面白さには、大きく分けると「ストーリー世界に没入する面白さ」と「ストーリーからテーマやメッセージなどを発見する面白さ」と2つあるのではないか
・この2つの面白さでは、物語世界との距離の取り方(感情移入のしやすさ、リアリティの有無など)に違いがあるのではないか

というような論点とも微妙につながってなくもないかな、と愚考するのだった。すぐれた物語というのはこのふたつの読みかたを同時に充たしてくれるのじゃないかと思うのだけど、とりわけミステリはそのあたりのことをかなり自覚したうえで書かれざるをえない物語形式、といえるのかもしれない。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#27
1/27 【立ち読みですいません】
■「ミステリマガジン」3月号は毎年恒例の〈私のベスト3〉アンケートをはじめ年間回顧の特集。これは資料価値もそれなりに高いので、僕にはめずらしくたいてい購入することにしているのだけれど(ふと昔のを読み返したりすると案外楽しめたりする)、今回はなんとなく意欲が湧かず、結局立ち読みですませてしまった。投票者の何人か、それに座談会でもふれていた翻訳ミステリ界の寒さと、ひょっとしたら関係あるのかもしれない。アンケートについては、誰とはいわないけど頭の弱そうな作家さんに恥をかかせるのは気の毒だなとか、読んでない人のはそろそろ掲載しないでおくことにしたらとか(まあ毎年のことなんだけども、今回はとくにひどかった気がする)。未読作品で気になったのは『魔術師の物語』『スコッチに涙を託して』と風間賢二の評論『オルタナティヴ・フィクション』あたり。
■話かわって「群像」2月号の東浩紀×阿部和重対談は、ふたりして傷を舐め合うようないじけかたと、アニメの天然王子さまみたいな阿部の変な喋りかた(二人称の「君」って公の場で使うなよ……)を気にしなければそれなりに興味深かった。要はふたりとも内輪の文学ごっこはもううんざりだと言ってるのだけど、そういう意味ではわりと書きたいものを書ける(ように見える)ミステリ作家などは恵まれている、ということになるだろうか。阿部は『アメリカの夜』で評論家受けを狙いまくり、『インディヴィジュアル・プロジェクション』ではサブカル色を前面に押し出してそういう文学ごっこからあえて逸脱をはかった(が無視された)らしい。苦労してるなという気もするけど、でもまあ阿部和重ってそういう自意識過剰な演出じたいが作風の一部ってところもあるからな。
■東浩紀の『日蝕』=『ベルセルク』説はいまさらだけど僕もそうだろうと思う。両方読んだ人はみんなそう思ってるよね。あと、あの擬古文って京極夏彦あたりの影響もあるような気がするんだけど、どうなんでしょう。しかし東浩紀はこの対談のなかでもさかんにミステリ布教を遂行していて、意外とミステリ評論とか書いてみたら面白いかもと思ってしまった。どこかの雑誌で載せてみてくれないだろうか(「鳩よ!」とか?)。異業種からの参入といえば、仏文学者の中条省平なんていま一番面白いミステリ評者のひとりだと思うし。まあ、小難しい現代思想系の評論家は法月綸太郎ひとりで充分、といわれたらそれまでだけど。


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1/19 【対談ふたつ】
■「小説すばる」2月号で笠井潔×野崎六助の「闘士」対談。意外に初顔合わせらしい。内容はだいたい、笠井がいつも「ミネルヴァ」で書いてるような自説を展開しようとするのを野崎がたしなめる、といったすれちがったかんじに終始していた気がする。『ハサミ男』は感動がなかったという野崎の発言には同感。あと同号には、もうひとつ綾辻行人×皆川博子の対談も載っていたのだけど、こちらはなんとなく東山紀之×森光子のやりとりを思わせる(ってそんなの読んだことないけど)微妙な雰囲気だったような。『悪童日記』をふたりとも絶賛していたのは良い。ちなみに綾辻行人が『悪童日記』の叙述に魅力を感じるのは当然だろうな、と思う。あの文体は「意思を隠す」一種の叙述トリックだから。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#12
1/12 【再読ラッシュ】
■最近なにやら、自分で見てもなんでいまさらというかんじの中途半端に古い作品を次々ととりあげているけれど、実はさる事情からだらだら再読したりしていたのでした。ただし載せた書評では評点も含めて、初読のときの印象をなるたけ優先しながら書いてます。そうでないとフェアなものにならないような気がしたので。
■というわけで、再読時の印象のほうもこちらになんとなく記しておきます。ちなみにこのうちいくつかは飛ばし読みで済ませてしまったので、改めて書評とかはたぶん書きません。

『パズル崩壊』法月綸太郎
遊び心のあるものが多くてわりと楽しめた。「トランスミッション」にちりばめられた村上春樹ネタを見つけてにやりとし、「ロス・マク〜」の変な伏線に驚愕。

『探偵はバーにいる』東直己
結構つらかった。奔放に見えてスタイルだけは確立されている気がしたのだけど、なんか未熟で遊び心も足りない印象。続編のほうがはるかに良かった気がする。

『B・D・T』大沢在昌
これもちょっときつかったかな。展開の安っぽさとおざなりな女性描写が鼻につく。たんに僕がこういう方向性への興味を失ったということかもしれないけど。

『池袋ウエストゲートパーク』石田衣良
初読のときより楽しめたかも。ミステリ的展開はどうにも弱いのだけど、再読ゆえ逆にそのあたりは気にならなかった。次作以降で描かれるモチーフはすでにほとんどこの作品に登場している。要は引き出しが少ないってことか……。

『猿の証言』北川歩実
あとで読むと辻褄の合わなそうな点も結構あるのだけど、まあもともとそういう話だから。

『人格転移の殺人』西澤保彦
米国留学経験のある人はかなり身につまされるらしい。解明部分が思ったよりもだらだらしてた気もするけれど、これはやはり再読ゆえ衝撃が少ないからかも。

■『時計館の殺人』綾辻行人
一発ものゆえつい飛ばし読みしてしまったけれど、この作品自体はやっぱり綾辻行人の最高傑作だと思う。「館」そのものを異世界として切りとる試みは、『霧越邸殺人事件』でも見せているけれど、そこに幻想味だけでなく大仕掛けなトリックの論理性が加わっているのが強み(『霧越邸』はそのあたりがないため不成功に終わっている気がする)。ちなみに〈時間操作ネタ〉を出してしまうとその最終兵器性ゆえインパクトは強烈だけれどもそのあと行きづまってしまう、という意味では、「ジョジョの奇妙な冒険」を思い出さないでもない。(ってそんなのおれだけか)

■『パラサイト・イヴ』瀬名秀明
これもいわば一発ものですな。べつに嫌いじゃないのだけど、なんであんなに売れちゃったのかはいまだに謎。まあ僕は『レフトハンド』みたいに異常な話のほうが好きなひねくれ者なので。

『魍魎の匣』京極夏彦
これは文句なく傑作でしょう。あの穴だらけな『姑獲女の夏』をいまも京極夏彦の最高作に挙げる人が多いのは、やはり京極の作風そのものが当初とても衝撃的だったせいだろうと思うけれど、僕はこの第2作を先に読んだので、その初読の驚きをこちらで味わうことができたのだった。再読して気になったのは作中の新興宗教がやたらちゃちなこと、作品内のメタ的言及がしつこいくらいに多いことかな。大胆な伏線もひそかに結構ある。あとこれを言うのは野暮かもしれないけれど、オウム事件を連想させる(本作の発表は95年1月で、例の地下鉄事件よりも少し早い)現代的な主題も注目に値する。逆にいえばそのために、作者は『鉄鼠の檻』で邪教を必要以上に糾弾しなければならなかったんじゃないかな。ちなみにこの作品に関しては、海野十三の影を指摘した宮澤さんの論考がたいへん興味深い。

■『水晶のピラミッド』島田荘司
ううむ、どうも大した意味もなく分厚かったような印象があってきちんと読む気が起こらず飛ばし読み。

■以上10タイトル。ふう疲れた。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#11
1/11 【市場原理】
■郷原宏『このミステリーを読め! 日本編』(王様文庫)を立ち読みしてみたら、ガイドブックとかいいつつほとんど本の粗筋とか著者の経歴とかをだらだら書いてるだけ。そんなのは本の背表紙とかを見れば誰でも書けるだろう。やけに字が大きいのは版元の都合としても、無内容にもほどがあるなあ。期待してたわけでは全然ないんだけど、それにしてもちょっとひどい気がしたので。
■しかしこの郷原宏ってどういう経緯でいまの地位を築いたのかよく知らないんだけど、いつも同じことばかり書いてるし評論能力もほぼ皆無、どうみても手抜きとしか思えない記事もあまた。なんで市場原理で淘汰されないんだろうか。あと個人的には長谷部史親あたりもその部類かな。かれらを一体どんな人が支えているのか、というのはちょっと知りたいかも。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#10
1/10 【まだ北村薫】
ヒラノマドカさんも言及されているようなので、少し続けてみます。
■北村薫のやりたいのは、結局いつでも<私>シリーズの構図じゃないかと思います。あの連作では「円紫師匠=教師/私=生徒」という教室的な図式が非常に見えやすくなっているから、教えたい主題があってそのための例が語られる、という物語形式を、読むほうもわりと抵抗なく受けとめられるようになっている気がします。で、北村薫ってそういう特殊なお話を書く作家なのね、という流れをそこで予習(麻痺?)してない人がいきなりほかの『スキップ』みたいなのを読んじゃうと、なんじゃこりゃとなってしまうのもたしかに無理はないのかもしれない。
■『スキップ』の主人公がなんでむりやり中年の歳にスキップさせられちゃうかというと、つまりそれも「学ぶため」なんだろうと僕は思います。たぶん特定の「教師役」を設定せずに、「生徒役」がみずから試行錯誤しながら答えを見つけていく話(なぜなら自分が「教師役」にならなければいけない)を書いてみたかったんでしょう。中年教師のままならべつに必死こいて学ぶ必要ないもんな。あの主人公をそういうフラットな「生徒役」の装置として読む心の準備がないと、きつい小説なのかもしれないなとは思います。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#09
1/9 【北村薫と東野圭吾】
■また
wimさんとこの話に反応。
■東野圭吾も北村薫と似たような読みかたをする、というのは僕もそうですね。東野圭吾については先月も書きましたが、どれを読んでも東野印の登場人物がそれぞれ物語上の役を演じさせられているような印象で、そのあたりが、ひとつの大傑作を書きえないかわりに次々と傾向の違う小傑作を量産できる(悪い意味ではない)理由ではないかなと思ってます。そんなかんじだから読むほうも物語世界にそのまま没入するのではなく、一歩距離を置いたような読みかたを要求される(というかそうしないと楽しめない)気がする。
■北村薫の教条主義、については僕もたまにひっかかることはあります。〈私〉シリーズは基本的に謎解きのなかで主人公が世間の厳しさとかをいろいろ見せつけられつつ精神的に成長していく、つまりミステリとビルドゥングス・ロマンとの高次の融合をたくらんだ作品なので、多少の教条主義には目をつぶるべきかなとか思うんですが、なんかほかの作品でもそれをひきずってるような気もしますね。でも教師だからしょうがねえか、なんて思ったり。個人的には『冬のオペラ』で男尊女卑思想を糾弾するところなんて結構寒かったかな(ちなみに『冬のオペラ』自体はなかなかよくできたメタ風味のミステリで僕は好きです。ノンシリーズなんであんまり読まれてないみたいだけど)。

 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_01.html#06
1/6 【北村薫関連】
wim@GROUND ZEROさんの[monologe]1/5付、「北村薫の小説に出てくる人物はどれも基本的にはフラットだ」との指摘にうなずきながら考えたこと。
■北村薫は僕にとって良くも悪くも特別な作家で、それは重要度うんぬんという意味よりも、特殊な読みかたを要求される、というのに近い。北村薫の評論やエッセイを読むと、何かを説明するときにわかりやすく例を引いてくる、その例示が異常なほどうまいことに気づくのだけど(きっと名教師だったろうなと想像する)、小説のほうもそのような「例示」の思想でつくられているような気がする。何か表現したいこと(主題)があって、それを説明するための例を引いてくる。その「例」が「物語」のかたちをとるだけなので、登場人物はある意味で説明のための駒にすぎない、というような。僕はいくつかの作品で北村の巧妙な手さばきに感心させられたけれど、極端なことをいえば登場人物は全員どうでもいいし、だからたとえば女性描写に現実味がなかったりしてもあまり気にならない。最初から例示の駒として機能していればいいと思ってるから。でもご存じ「私」をキャラとして支持する人は結構いるみたいなので、こういう読みかたをしているのは僕くらいなのかもしれないけど。
■ちなみに本題の『盤上の敵』に関しては、まず強盗犯の存在が万事にむりやりすぎるのと、陳腐な過去の事件を持ち出して被害者としての特権性を主張する構図(『永遠の仔』に似てるかも)が気に入らなかったのだけど、確かに「白の女王」の意志を描いてないから救出ドラマがそこで断線する、というのはあったかもしれない。でも実はもうよく憶えてなかったりするのだった。


【1999年12月】(投票と永遠の仔/トリック論/東野圭吾/モルグ街)
【1999年11月】(周辺書3連発=名探偵の世紀/鳩よ/ユリイカ)
【1999年10月】(このミス/星の数/日本人/停滞)