▼Book Review 1999.12

『パズル崩壊』 法月綸太郎
『quarter mo@n』 中井拓志
『どんどん橋、落ちた』 綾辻行人
『クリスマスに少女は還る』 キャロル・オコンネル
『エンジェル』 石田衣良
『リリアンと悪党ども』 トニー・ケンリック

※(ごく主観的な)評価は★5つで満点。

『パズル崩壊』 ★★★★
法月綸太郎/集英社文庫(1996)

だから僕が書いている小説は、一種のファンタジーに近い。僕の本にいくらかでも長所があるとすれば、ある種のファンタジー小説に見られる律義さというものを、僕が非常に重視しているからだろうと思う。(p.115)

■この人に関しては「悩みすぎてドツボにはまってる作家」というのがだいたい一般的な認識じゃなかろうか。天然なのか役づくりなのかはともかく、そんな苦悩ぶりをきちんと物語に活かせているのが第一作の『密閉教室』だと思うので、個人的にはいまのところ『密閉教室』をベスト作品に推している。他はどうも悩みぐあいが裏目に出がちのことが多いような気がする。第一短編集『法月綸太郎の冒険』では意外な軽妙さも披露してくれたけれど、同名探偵から離れたこのふたつめの作品集では長編以上かもしれない重度の自縄自縛状態を見せている。何を書いても結局自分のことに戻ってしまう。
■最初の「重ねて二つ」は新本格風の素直なパズラーで(ただし犯人に刑事が浴びせる言葉は作者の自嘲のようにも読めた)、続く「懐中電灯」は倒叙、「黒のマリア」は怪談がかってはいるものの、それなりに佳作といった印象。作中にミステリ作家が登場してくる「トランスミッション」あたりから様相が変わってくる。ポール・オースターの『シティ・オヴ・グラス』+村上春樹風(別れた妻の名が「クミコ」だったりと、確信犯的になぞっている)に展開する物語のなかで自分の居場所が奇妙にねじれていくさまは、作者の迷える立場をそのまま象徴しているようでもあるし、次の「シャドウ・プレイ」はまた推理作家が出てきて(しかも作家は自分の作品に同名人物を登場させる)、友人に創作の相談をする変則的な小説。
■崩壊(あるいは自己言及)はさらに進む。続く「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか?」ではそのまま探偵論と読むしかなさそうな異様なパロディが披露され、濃密な抽象美術論を主題に据えた渾身の力作「カット・アウト」は、遂にミステリの形式からもはみ出して、ほとんど自身の創作をめぐる切実な内的独白のようでもある。そして燃え尽きたように最後を飾るのは、自己言及しまくったあげくに先が続かなくなった長編の序章。これはまさに自分の身を削るような作業、いわば「私小説ミステリ」の極北といえるだろう。
■このような苦闘と自己言及は作者自身も「あとがき」で触れているように、たぶん「作家と評論家の一人二役」の内的分裂からきたある程度必然的なものなのだろう。書きながら、あるいは書くまえからもう評論してしまうというような。そもそもみずから「あとがき」ですでにそんなことを分析・暴露してしまうこと自体が、そのジレンマを端的に示しているともいえる。
■それにしても「探偵・法月綸太郎」成立以前の『密閉教室』と、あえて探偵から離れたこの『パズル崩壊』とが、むしろもっとも身を削った私小説に接近している観があるのは、要するに「同名探偵」が作家の自己言及をとどめるクッションとして機能していたということなのだろうか。
(1999.12.28)

『quarter mo@n』 ★★★
中井拓志/角川ホラー文庫(1999)

本心を声に出して誰かに伝えるのが、本物の会話? だとしたらこの世に本物の会話なんてありゃしない。(p.260)

■作中にも少し言及されているけれど、これは現代版「ハメルンの笛吹き」と言ってしまっていいだろうか。ただし学校的日常に飽いた子供たちの行き先は「電脳ネットワーク」ということになる。
■前作『レフトハンド』のドライでひねくれた人物描写、ブラック・コメディ風の人を食った展開が個人的にかなり好きだったので、この新作も読んでみた。で、評価だけど……ううむ、どうもひねくれ度が足りないかな。と、そんな基準で読んでしまうのも何だろうけど。でももっと頭のおかしな人たちが次々と出てきて、話がどこへ行ってしまうのかわからないような展開を期待していたんだよねえ……。ただし、ネットを主題にした娯楽小説としては悪くないと思う。
■まあ、勝手な期待をして2作目がいまいちに感じられてしまうのはよくあること。というか新作がとんと出ないからもう辞めちゃったのだろうかと心配していたので、読めただけでも満足とするべきだろうか。
(1999.12.22)

『どんどん橋、落ちた』 ★★★
綾辻行人/講談社(1999)

考えるうち、だんだんと腹立ちが強くなってくる。
要するに、僕はこう批判したわけだ。
人間が描けていない! ――そうだ、まさにこれだ。
(p.44)

■綾辻行人のタイムカプセルにしていわばセルフ・パロディ集。ある意味この人くらいにしか許されないアプローチともいえる。
■登場当時は「マニアによるマニアのための」作風なんて揶揄されたそうだけれども、綾辻行人に驚いてから国内ミステリを見直して読みはじめたという人は結構多いようだ。実をいえば、他ならぬ僕もそのひとりだったりする。綾辻ミステリにそうして初心者にも強く訴えるものがあったのは、「どんでん返し」至上主義をむねとして他の要素を削ぎ落とした、わかりやすくてインパクトある作風のためだったと思っている。要はびっくりさせりゃあなんでもいいじゃん、てなかんじ。
■収録された作品群はその路線をさらに先鋭化させたもの、というよりむしろその原型なのだろう。最初の二編は特に「館シリーズ」のとりわけ『十角館』を思わせる。ただしその醜いパロディとして。驚かせるというのは「読者の裏をかく」ことと表裏一体のわけだけれど、それを極限まで追究した結果生まれたのは、「ふふんちゃんとこう書いてあるもんねー」みたいな屁理屈もどきにすぎなかった。確かに犯人は当てられないけれど、これはたしかに「袋小路への道標」(ちなみにこのコメントは当時の法月綸太郎のものらしい)だろうね。
■そんなわけで作品自体がどうのというより、実践的本格ミステリ論として興味深く読める。読みおえて思ったのは、『十角館』とかにびっくりしていたころの昔の自分ならこの作品をどう読むのだろうか、ということだった。確かめようがないけれど。
(1999.12.21)

『クリスマスに少女は還る』 ★★★
キャロル・オコンネル/務台夏子訳/創元推理文庫
Judas Child/Carol O'connell(1998)

「ひとつのホラー映画を本当の傑作にする要素が何かわかる? それは、モンスターじゃないのよ。いくら奇怪なのを出したって、それだけじゃだめ。いちばん怖いのは、日常を襲うたったひとつの衝撃なの」(p.507)

■言い訳をすると、この作品については余計な情報を仕入れすぎてしまって、実は読むまえから仕掛けがほぼ想像ついてしまっていたのだよね。むろんそこだけの話ではないのだけれど、それが物語のなかで大きな位置を占めることは間違いないわけで。知らなかったらもうちょっと愉しめたかもしれない。ただ似たネタのある〈『消えた少年たち』〉のほうが衝撃的だったような気もしないではないけれど。
■本書はふたりの少女の誘拐事件をめぐる物語。誘拐された少女たちの状況も描写されるけれど、おもに筆は行方を探す側の面々のほうに費やされる(ここで事件による「共同体のゆるやかな崩壊」みたいなものにじっくりと焦点を当てたのが、これも今年出たスティーヴン・ドビンズの『死せる少女たちの家』ですね)。これで読者は少女たちの安否を心配する気分にひきこまれ、とくに片方の少女の母親が捜査会議に呼ばれて気丈に演説をする場面などは感動的。ただし捜査の展開は、人物が大勢出てくるわりにほとんど有効に進まず、錯綜していて誰がどんな意図のもとに動いているのかよくわからなかった。結局手違いで抜けていたところから真相が明らかになり、犯人も「そんな奴いたっけ」という感想だし。それでも顔に傷のある心理学者アリ・クレイと原題(とサディ・グリーン)の意味が結びつく展開はなかなか秀逸だと思う。単なる「道具」として扱われたことに対する人間的反抗は、強くそしてあたたかい。
■ああ、なんか文句が多いですかね。人格を疑われそうな気がして怖い。あと僕はホラー映画に疎すぎるので次々と繰り出されるホラー映画ネタが全然わからなかったのは残念。
(1999.12.9)

『エンジェル』 ★★
石田衣良/集英社(1999)

「もちろんです。生きているときに無力だった人間が、死んだからといって神に等しい知力や超能力をふるえるはずがありません」(p.133)

■相変わらず文章は巧いけれど、書きたいことがいまいち見つからないかんじかな。冒頭でいきなり殺される主人公の青年が、幽霊となって現世をさまよいつつ自分の殺人事件の真相を調べていくことになる話。といっても復讐だとかより、途中で生前の彼女と出会って幽霊の身ながら必死で守るという、映画「ゴースト」みたいな展開のほうにわりと重点が置かれる(さすがにそのままではなく、ひとひねりあるけれど)。生前は悪徳資産家の息子で青年実業家、いまは幽霊、という主人公のなかなか特異な設定を活かしきれているとは正直言って思えないし、社会的な切り口もおざなりな印象で、最後もこの手のものにありがちな適当にお涙系の展開。貴志祐介の『青の炎』もそうだけど、ほかに書くことあるんじゃないのとか思ってしまうのだった。次作に期待、でしょうか。
(1999.12.6)

『リリアンと悪党ども』 ★★★
トニー・ケンリック/上田公子訳/角川文庫
Stealing Lilian/Tony Kenrick(1975)

「しかし、年とったおふくろさんが、どうしてまたマラリアなんか?」
「コールダーの話によると、ガダルカナルで従軍看護婦をしてたんだそうです」
(p.77)

■口八丁で世を渡る主人公バニー・コールダーが、仕事を抜け出すのに使った言い訳のひとつがこれ。彼は旅行代理店の社員と職業斡旋所の個人経営とをかけもちして、絶え間なくふたつの職場を行き来しているのだ。毎日、山のように言い訳を量産しながら……。こんな無茶な設定が大手を振ってまかりとおるのも、本書がやたらとぼけた味のどたばた喜劇で、笑えさえすれば細かい辻褄なんてどうでもいいから。読んでいて「観衆の笑い声」が聞こえてきそうなわざとらしいふざけかたもなぜか許せる、そんな快調でアメリカンなコメディ。上田公子の翻訳もさすが会話のリズムを巧く演出できていると思う。
■このお調子者バニーがひょんなことから政府機関の密命で、妻と娘をもつ「億万長者一家」を赤の他人とともに演じることになる、というのが本筋。それは娘を誘拐しにくるテロリストをおびき寄せて捕まえるための罠――と、こんなあほな作戦があるわけはないのだけど、そこは「娘役」を演じる孤児リリアンの、煙草と競馬新聞を常時携行する漫画的キャラ設定なんかで、例によって適当にしのいでいる。ただ作戦の展開よりも、主人公が擬似家族のなかで「妻役」の女性エラ・ブラウンとの距離をいかに縮めていくか、というロマンスも含めたどたばた劇のほうが愉しい気もしないではない。やっぱりコメディの人なんだろうな。
■こういうどたばたコメディ風のミステリは、新版解説の小森収が指摘しているように、映像メディアの影響を抜きには語れないと思う。似た路線の作家でドナルド・E・ウェストレイクもいるが(彼は別名義でハードなものも書いてるけど)、個人的には映画経験値が足りないせいか訳文が合わないのか、いまひとつ楽しめなかったりする。作者の意図ほどに、作中場面のヴィジョンが思い浮かばないのだ。こちらのケンリックもそういう傾向はなきにしもあらずだけど、上に掲げた言葉の勢いで押すギャグだとか、多少非映像的な笑いのストックもあるようで、僕はわりと愉しく読むことができた。
■たまにこういうの読んでみるといいですね。
(1999.12.5)

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