『細工は流々』 ★★★
Remove the Bodies by Elizabeth Ferrars, 1940
エリザベス・フェラーズ/中村有希訳(創元推理文庫/1999.12)
「あの娘のもうひとつの欠点は、信じられないくらいのお人好
しってことだ。人のためなら何だってしてやる娘なんだ。本当
にいい娘だよ――時々、殺してやりたくなるくらい」(P19)
■トビー&ジョージのでこぼこ探偵コンビが、例によって変人たちの絡み合う事件をとぼけた味で解きほぐしていく本邦紹介第3弾。シリーズ5作のうちでは2作めにあたるらしい。今回は、トビーのもとへある日突然金を借りるため訪ねてきた旧知の若い女が、その翌日に殺されていた……という流れからふたりは事件に巻き込まれていく。
■事件の舞台となる屋敷では、何者かの手によって針と糸の密室トリックやら自動発射する矢やらの、いかにも探偵小説的な仕掛けがはりめぐらされているのが次々と発見される。ただし結局そちらのほうへ物語の興味はほとんど向かわない。「いかに殺されたか」は、「なぜ殺されたか」の人間関係を追究した結果のついでとして明るみに出るにすぎないのだ。仕掛けを目にしても何の感想も漏らさない住人の態度は「もうそれは飽きたよ」といわんばかりの作者の気分を代弁しているようにも思えた。そういった意味でこのフェラーズの書法は、「物理トリックより動機」と有名な『第二の銃声』序文で唱えたアントニイ・バークリーの立場に近いだろう。(コミック風の人物描写も通じるものがある気がする)
■ミステリで人間関係に焦点を当てた場合、あらかじめ示された人物像がのちの展開で覆される、つまり「じつはこんなやつでした」的な演出で意外性がもたらされることが多い。それはそれで有効な手法なのだけれど、フェラーズの世界では登場人物のいったん語られた戯画風の性格が逆にそのまま「ほんとにこんなやつでした」とばかりに、あとでぬけぬけと伏線として見事に効いてくる。ジグソーパズルのピースがぴたりとはまっていくように。とりわけ本作では、最終的にほぼ全員の登場人物が、それぞればらばらの動機から何らかのかたちで事件に絡んでいたことが示される。次作『自殺の殺人』でより顕著になる、複数人物の別々の意図が偶然に交わった結果「謎めいた事件」らしきものが構成されてしまう、というある意味では一般の探偵小説を皮肉ったような態度は、このような「人物=伏線」の美学によって支えられているのではないかと思う。
■などといいつつも、大胆すぎる伏線に驚愕して開いた口がふさがらなかった『猿来たりなば』を結局いちばん好きだったりする僕は、精緻さよりもインパクト至上主義のすげえ単純な読み手なのかもなあ。
(2000.1.23)