▼Book Review 2000.1

『ハサミ男』殊能将之
『細工は流々』エリザベス・フェラーズ
『エイジ』重松清
『魍魎の匣』京極夏彦
『人格転移の殺人』西澤保彦
『猿の証言』北川歩実
『池袋ウエストゲートパーク』石田衣良
『B・D・T 掟の街』大沢在昌
『探偵はバーにいる』東直己

※(ごく主観的な)評価は★5段階。


『ハサミ男』 ★★★

殊能将之(講談社ノベルス/1999.8)

■鋏を凶器に女子高校生たちを手にかけてきた連続殺人犯、通称「ハサミ男」。そのサイコキラー当人がみずからの模倣犯をつきとめるため素人探偵ふうに奔走する、と設定からしてかなり逆説にみちた異色作だ。ただし作者の新人ばなれした書法は、これを単なる色物に終わらせていない。現代の風景を淡々と眺める殺人者のシニカルな一人称語りがユニークで、とくにテレビのワイドショー番組が犯人像を勝手に分析するさまをぼんやりと眺める場面は秀逸。これをただ鼻で嗤うだけに済ませなかった虚無感がいい。京極堂を思わせるような講釈をたれる「医師」の存在も印象的だ(これが〈もうひとつの人格〉なのは誰でも最初から読めると思うけれど、じつは結果的にそのことがある程度メイントリックのダミーとなっているような気もする)。交互にさしはさまれる警察捜査の展開のほうも、なかなかウィットのある丹念な演出が用意されていて、単なる手続的なつじつま合わせで挿入しているような印象は与えない。
■そんな物語の隅々にまで抜け目なく張りめぐらされている伏線の妙はまさに脱帽もので、作中で解説されているもの以外にも、たとえば〈女子高生にいきなり話しかけても不審がられない〉〈女性の服を見てブランド名がすぐにわかる〉のもそうだし、個人的には〈やけに食べ物の味にこだわる〉なんてことまで伏線になっているのには驚いた。まさに物語すべてが伏線というおもむき。
■ただしひっくり返したうえで示される真相には正直なところ、だから何?という感想しか僕は持てなかった。結局ここで明かされるのは、作者がひじょうに綱渡り的な書きかたを選んでいたという技能点の高さだけで、その反転は物語のうえにドラマ的な意味をもたらしていない。意外な真犯人もじつは印象が薄いし、クライマックス後の種明かしはなんだかあざやかさに欠けて言い訳めいた印象。それは物語の反転するまえに描かれたサイコキラーの虚無感よりも魅力に乏しかった。
■というわけで読後感は決して良くなかったのだけど、やはり筆力は充分に買えると思う。軽快で手慣れた文章は、随所に遊び心を織りまぜる余裕さえもすでに漂わせていて、次作にもなかなか期待の持てそうな有望新人、といったところでしょうか。
(2000.1.30)


『細工は流々』 ★★★
Remove the Bodies by Elizabeth Ferrars, 1940

エリザベス・フェラーズ/中村有希訳(創元推理文庫/1999.12)

「あの娘のもうひとつの欠点は、信じられないくらいのお人好 しってことだ。人のためなら何だってしてやる娘なんだ。本当 にいい娘だよ――時々、殺してやりたくなるくらい」(P19)

■トビー&ジョージのでこぼこ探偵コンビが、例によって変人たちの絡み合う事件をとぼけた味で解きほぐしていく本邦紹介第3弾。シリーズ5作のうちでは2作めにあたるらしい。今回は、トビーのもとへある日突然金を借りるため訪ねてきた旧知の若い女が、その翌日に殺されていた……という流れからふたりは事件に巻き込まれていく。
■事件の舞台となる屋敷では、何者かの手によって針と糸の密室トリックやら自動発射する矢やらの、いかにも探偵小説的な仕掛けがはりめぐらされているのが次々と発見される。ただし結局そちらのほうへ物語の興味はほとんど向かわない。「いかに殺されたか」は、「なぜ殺されたか」の人間関係を追究した結果のついでとして明るみに出るにすぎないのだ。仕掛けを目にしても何の感想も漏らさない住人の態度は「もうそれは飽きたよ」といわんばかりの作者の気分を代弁しているようにも思えた。そういった意味でこのフェラーズの書法は、「物理トリックより動機」と有名な『第二の銃声』序文で唱えたアントニイ・バークリーの立場に近いだろう。(コミック風の人物描写も通じるものがある気がする)
■ミステリで人間関係に焦点を当てた場合、あらかじめ示された人物像がのちの展開で覆される、つまり「じつはこんなやつでした」的な演出で意外性がもたらされることが多い。それはそれで有効な手法なのだけれど、フェラーズの世界では登場人物のいったん語られた戯画風の性格が逆にそのまま「ほんとにこんなやつでした」とばかりに、あとでぬけぬけと伏線として見事に効いてくる。ジグソーパズルのピースがぴたりとはまっていくように。とりわけ本作では、最終的にほぼ全員の登場人物が、それぞればらばらの動機から何らかのかたちで事件に絡んでいたことが示される。次作『自殺の殺人』でより顕著になる、複数人物の別々の意図が偶然に交わった結果「謎めいた事件」らしきものが構成されてしまう、というある意味では一般の探偵小説を皮肉ったような態度は、このような「人物=伏線」の美学によって支えられているのではないかと思う。
■などといいつつも、大胆すぎる伏線に驚愕して開いた口がふさがらなかった『猿来たりなば』を結局いちばん好きだったりする僕は、精緻さよりもインパクト至上主義のすげえ単純な読み手なのかもなあ。
(2000.1.23)


『エイジ』 ★★★

重松清(朝日新聞社/1999.2)

ぼくもホームドラマの登場人物だ。「難しい年頃の息子」なん て、台本には書いてあるのかもしれない。(P216)

■題名「エイジ」は主人公の少年の名前であり、子供と大人のはざまで揺れる"age"のことでもある。ホームドラマのような理解ある両親の待つ家庭や、中学生らしい「ゆーじょう」物語など、他者とのかかわりのなかで凡庸な物語を押しつけられることに反発も覚えながら、でもやっぱりその「関係」のなかで生きなければならない。そのあたりの「エイジ」の微妙な気分を描写できているのは、きっとひとつひとつの挿話がいきいきとしているからだろう。特には挙げないけれどもどのエピソードもきちんと要所を押さえていて、思わずそうだよなあと頷いてしまう。職人的な巧みさといった印象。計算された文章リズムの乱しかたにも感心させられる。
■連続通り魔事件を軸にすえて流行りの少年犯罪もとりあげられはするけれども、それは単に理解不能のモンスターとして描かれるのではなく、あくまで「普通」の少年エイジの健全で平衡のとれた視点から語られる。いつの時代だって中学生はこういうもんだぜ、と教授したいかのような本書の啓蒙的な態度は、言ってみればとても良心的だ。まあそもそも僕は「キレる」なんて表現は「カッとする」とか「頭に血がのぼる」なんかと意味かわらないと思うので、特別視すること自体ナンセンスな気もするんだけど。
(2000.1.19)


『魍魎の匣』 ★★★★★

京極夏彦(講談社文庫/1995.1)

「幸せになるのは簡単なことなんだ。人を辞めてしまえばいいのさ」(P683/NV)

■憑き物落とし屋「京極堂」とその愉快な仲間たちのシリーズ第二作。いまさら語るまでもないけれどこの連作のミステリ小説としての新しさは、「この世に不思議なものなど何もない」のであり「謎」は観察者の主観によっていわば捏造されるにすぎない、との思考を実践的に示したところにあるだろう。第一作『姑獲女の夏』はこの主題をあまりにそのまんま提示しすぎて、そりゃないだろうという出来になってしまったけれど(逆にそれゆえに評価する人もいるみたいだが)、この次作ではうまい具合に料理してきたと思う。
■といっても物語じたいは伝統的な探偵物語の形式にきちんと準じている。京極堂が登場のたびに開陳する圧倒的な蘊蓄はペダンティックな「名探偵」像の王道を想起させ(これは笠井潔の描く思想闘争探偵・矢吹駆の流れを酌んでいるだろう)、そして解明場面になると関係者みなが一堂に会したところで長広舌の種明かしが披露される、と実はいかにもな名探偵ものの形式を踏んでいる。さらに、超現実を夢想する犯行動機の破壊力と、探偵役が熾烈な糾弾を展開するクライマックスの異様な熱気も抜群。僕はミステリにおいて「動機」と「対決」を重視する読者なので、これはたいへん満足だった。
■列車に轢かれた美少女、世上をにぎわす連続バラバラ殺人、いんちき臭い新興宗教、大富豪の相続問題、そして謎めいた研究所に異端の天才科学者。これら一見ばらばらで関係のなさそうなそれぞれの挿話が、最終的にはひとつの流れ――「匣」のもとに結ばれる。同時にそのキーワード「匣」は、さまざまな主題を語るうえでのメタファーとして作中でしつこいくらいにくり返されてもいる。そのなかで物語全体を覆うひとつの主題となっているのが、外見だけ立派でもがらんどうの中身しかない「空虚な自我」。いんちき宗教の扱いや執拗なほどのオカルト論議の前置きは、いかにも現代的なこの主題を補強するための布石でもある。
■その「からっぽ」な登場人物たちが、戦前の小説から抜け出てきたような異形の夢想、いわば「匣の中身」に出会ったことから彼岸の境地へと駆り立てられてしまう。〈挿入される作中作は犯人が見たものをそのまま書いているだけだった〉という京極一流のぬけぬけとした伏線は、だから犯人の内面の虚ろさを示唆してもいて、そのことによって現代的な切実さを保ちえていると思う。別にリアリズムで社会問題を切りとることだけが「現代」に向き合う有効な手段というわけではない。ちなみに実行犯の人物像は、かの〈宮崎勤〉が念頭にあったのじゃないかと僕は勘ぐっているのだけれど、本書のえぐる主題はこの年(1995年)大いに世間を騒がせることになるオウム真理教事件にもかなりの程度妥当する。(まあ、こういうことを指摘するのは野暮かもしれない)
■とにかく圧倒的な娯楽大作であり(最終的にきちんと因果報応の展開をしているし)、今日的な主題と斬りむすんだ現代小説であり、実践的な探偵小説論であり(たとえば作中の宗教論やオカルト談義も自己言及的な探偵小説論とも読める)、おまけに超絶のバカミステリーでもある。この分厚い「禁断の匣」のような本で、京極夏彦はその最強ぶりを証明した。
(2000.1.18)


『人格転移の殺人』 ★★★★

西澤保彦(講談社ノベルズ/1996年7月)

「本来きみのものである筈の痛みを、僕が引き受けて感じてあげなくちゃいけないなんて、何か釈然としないな。不公平だよ」(P174)

■SF的設定の本格ミステリという無人の荒野を疾走する西澤保彦の代表作。今回の設定は身体と人格がいれ替わってしまう「人格転移」現象。入れ替わる人数はふたり程度ではなくこの場合は6人もの輪のなかで、しかも人格のスライド転移がランダムなタイミングで発生する。この複雑な設定では読んでいて誰が誰だかわからなくなりそうだけど、実はその人格スライドが頻発するのはかなり生存者が限られてからなので、話はほぼ標準的な脳髄で処理可能な範囲内におさまっている(と思う)。
■スライドの設定が生きてくるのは中盤、主人公たちが犯人に襲われる場面。殺人者の姿は見えても中身の人格が誰なのかわからないため不気味なところに、人格スライド転移の連発がさらに読者のパニックを増幅する(これがある程度読みにくいゆえの効果を上げていて見事)。この設定ならおそらくアリバイトリックでも密室でもいろいろ考えられそうなものだけれども、そうやって長々と設定に淫することはせず、あえて一瞬のスリルの演出に賭けた潔さが成功しているように思う。
■連続殺人の解決そのものはかなり理詰めで設定の盲点を突いた展開を見せる。僕は結構意外な真相に驚いたけれど、やりくちは同じ作者の秀作『七回死んだ男』とだいたい同じなので、ふたつのうち先に読んだほうを高く評価する人がわりと多いようだ。僕は『人格転移』を先に読んだので純粋に愉しめたのかもしれない。
■最後もさわやかな幕切れで締め、設定にきちんとオチをつけているのも好ましい。僕はこのラストに『夏への扉』を思い出したけど、そんな種類のさわやかさ。まあ人格交換を出したら、これはひとつの王道といっていい落としかたなのだろうな。
(2000.1.11)


『猿の証言』 ★★★★

北川歩実(新潮社/1997年8月)

■脳神経科学の話題をとり入れた新たな「サイエンス・ミステリ」の領域を、ひとり開拓しつつある作者の野心作。この作品ではいわゆる「サル学」系のトピックが中心となる。
■チンパンジーの言語能力を研究していた異端の学者が不審な失踪を遂げる――それが主たる事件なのはわりと早くから明らかになるのだけど、これが一筋縄ではいかない。なにしろ唯一残された目撃者がチンパンジーなので、ここから証言を引き出せるのかがまず問題となる。なんじゃそりゃ、な展開だけどこの問題がなかなか興味深い。結局チンパンジーの能力を知ることは、隣人である人類の臨界点を探ることにも対応しているのだ。作者の説明もなかなか明瞭で、とりわけ類人猿の言語実験を超能力パフォーマンスと対比させたのがうまい。主観というか思い込みしだいでどちらにも解釈できそうな微妙さ。
■けれども事件の謎はさらにねじれ、チンパンジーとヒトの合いの子「チンパースン」をめぐる禁断の実験の存在をちらつかせつつ、人間とチンパンジーの境界へと踏み込んでいくことになる。そのあたりの路線も結構シビアでいいけれど、次々と新たな秘密が明かされてそのたびに真相の行方が二転三転する展開は、あくまでミステリにこだわったやりかただ。サイエンスなネタをきちんとミステリ的な枠で消化して、新たな分野の可能性を示した注目すべき作品だと思う。しかも何食わぬ顔で、〈フィニッシング・ストローク〉まで仕込んでいるのだ。いまどきここまでするひとは珍しいぜ、ほんとに。
■どうもこの人は意外な展開にこだわりすぎるのか、強引すぎて自滅してしまうことが少なくない気がするのだけれど(整形して同一人物だったとか)、本作ではあまりそれが目立たないのも評価できるところ。中盤のあたり記憶喪失で結構引っ張るのはどうかと思ったくらいで、まあ大した傷ではないだろう。
■はっきり言って登場人物には魅力どころか人間味すら感じられないし、文章もやたら無味乾燥でつまらない。それでも僕はこの作品をかなり愉しく読めた。人物も文章も魅力ゼロでも、面白いミステリはたしかに存在する。
(2000.1.8)


『池袋ウエストゲートパーク』 ★★★★

石田衣良(文芸春秋/1998年9月)

だが、たいていの夜はなにも起こらず、なにかが起きるのを待っているうちに、東の空が透きとおり夏の夜が明けて始発電車が動き始める。それでもおれたちは「ウエストゲートパーク」にいった。
 他にすることはなにもなかったから。
(P14)

■池袋のストリートで高卒のまま何となくぶらぶらしてる〈おれ〉真島誠の出くわした事件を、みずみずしい筆致でつづる中編集。でも作者は1960年生まれだけど。
■事件を通して突きつけられる現代のストリートの光景は、しばしばとても冷ややかで殺伐としている。主人公もある程度その現実を醒めた態度で受け入れるものの、ただし物語を陰気さから救っているのが、人情に篤く行動的な主人公の健全でさわやかなまなざし。殺された仲間の仇を探し、窮地に陥った友人に手を貸し、街の危機には決然と立ちあがって、大人とは違った自分たちなりのやりかたでけりをつける。体言止めを多用した若者らしい語り口と作者の計算された巧みな文章の力が、そんな純粋さを支えている。とりわけ、「最後の一行」でぽつりとひとこと漏らして締める手法は印象的。現代の閉塞感をほどよく活写しながら、それをあえて伝統的な人情話ふうの観点から切りとった、古くて新しい出色の青春物語だ。
■以下は各編にひとこと。
■「池袋ウエストゲートパーク」
表題作。一緒につるんでいた少女リカがある日殺され、主人公は世上をにぎわす連続絞殺魔を追う。ミステリ的にはわりとありがちな展開ながら、終盤明らかになる犯人たちの関係は、昨年話題になった某長編と似た現代的悲劇になっていて興味深い。
■「エキサイダブルボーイ」
やくざの組長の愛娘探しを仰せつかる。そのなかで主人公の出会う中学時代の同級生ふたり、元いじめられっ子で暴力団に入ってやっと仲間ができたと語る「サル」と、元優等生ながらいまは三年間自室にひきこもりつづけている「和範」の存在が描くテーマは、現代的な「孤独」の姿だろうか。幕切れは重い。
■「オアシスの恋人」
秋葉原でパソコンを買ったりと、わりに明るいタッチ。いまは風俗嬢をしている元同級生(またも)の頼みで恋人のイラン人をかくまい、さらにメカに詳しい仲間と組んでシャブの売人をはめる計画を練る。イラン人カシーフとの交情がさわやかで、コンゲーム的興趣もある。
■「サンシャイン通り内戦」
これだけ書き下ろしで、ほかの倍以上の長さ。ストリートでふたつの集団が抗争を繰り広げて池袋じゅうが内戦状態に沸くなか、主人公は平和な街をとりもどそうと奔走、ついでに初恋も描かれる。「ガキどもにはモデルがない。おれたちはモデルと絆を用意する」と豪語する片方のリーダー・京一の言葉は、『うつくしい子ども』にも描かれる作者の一貫した問題意識を投影したものなのだろう。カタルシスのある力作。
(2000.1.3)


『B・D・T 掟の街』 ★★★★

大沢在昌(双葉社文庫/1993年7月)

「リアリストらしくないわ」
「リアリストだって希望は持つ」
(P151/NV)

■近未来の東京を舞台にしたSFハードボイルド。大沢在昌といえば『新宿鮫』が有名だけれど、実はこういうリアリティ度外視のSF系ノベルのほうが本領なのじゃないかとひそかに思っている。本書はそんな大沢の会心の作。
■海外からの移民流入を避けられなくなった来世紀の東京では、「ホープレス」と呼ばれる混血児が爆発的に増加、都内の東半分はかれらと犯罪の巣食うスラム地帯と化していた、というのが舞台設定。混血の「ホープレス」と純日本人の間には、地理的そして人種的偏見の越えられない壁がある。主人公の代々木ケンはそんな暗黒街「B.D.T」(Boiled Down Town)で私立探偵を生業とし、自身も混血の人種に属する。彼は汚れた街を醒めた目で眺めつつも、人種的な束縛のためにそこからは逃れられない。
■米国のようなスラム街と人種の壁とを持ち込んだこのSF的な世界設定のもとで、救いのない世界に適応しつつも独り矜持を保ち反骨精神を失わない、クールなヒーロー像が可能になった。あえて仮想的舞台を設定して探偵像を追求するという意味では、ナチス政権下の私立探偵を描いたフィリップ・カーの『偽りの街』と似たものがあるだろうか。
■物語は失踪した女性歌手の捜索からはじまり、主人公は東京全体を揺るがす大きな陰謀の渦に巻き込まれていく。多少大げさに膨らむ展開ではあるけれど、この舞台設定ならではのもので悪くない。黒幕との思想的対決みたいなのも少し用意されている。何より作者の軽快なストーリーさばきが、非現実の舞台を選んだことでむしろ快調にきまっている。主人公の行く先々で都合良く事件が続発する展開は鼻につかないでもないけど。
■あと、滅びた日本の「ヤクザ」が間違った歴史認識のもとに伝説化している設定は素敵。
(2000.1.3)


『探偵はバーにいる』 ★★★

東直己(ハヤカワ文庫JA/1992年5月)

「女を買うことなんてできませんよ。金で、女の時間と体と心の一部を借りることしかできないんだ。違いますか?」(P356)

■札幌の歓楽街、ご存じ「ススキノ」で便利屋を営む〈俺〉を主人公に据えた、いわばご当地もの探偵シリーズの第一作。 しじゅう酒を浴びては遊興にふけり、お気楽な生活を地で行く主人公の語り口はあくまで軽妙、けれども端々に文学や映画の比喩を持ち出したりとインテリ風味(北大中退)の皮肉ものぞかせて飽きさせない。彼はほかの事業で充分な収入を得ているので(博打とか大麻栽培とか)、実は探偵稼業をする必要さえない自由人でもある。苦々しく眉間にしわ寄せたものが多い日本の斯界では数多くないライトな作風で、その点なかなか新鮮なものがある。地方都市を舞台にした地域密着型、というのも考えてみると珍しい。
■事件のほうは、大学の後輩の頼みで姿を消した彼女を探すうち、不審な殺人事件にゆきあたることになる、という流れなのだけど、なんだかどこぞの三面記事をそのまま持ってきたような印象で興趣に乏しい。続編の『バーにかかってきた電話』のほうが洗練されていてドラマ性もあった気がする。ただし見るべきは、上に掲げた主人公の台詞で語られるように、歓楽街で働く女は道具でなくそれぞれの人生とドラマを秘めている、という哲学がきちんと本書を貫いていること。結局「女は怖い」みたいな話ではあるのだけど、騙されやすい世間知らずや無学なチンピラを嘲る主人公のプライドが、最終的にそんな「女の怖さ」によってある程度打ち砕かれるところに、物語のバランスが保たれている。
■それから会話のたどたどしさ、要領を得ないところまでもきっちり再現する忠実さも特筆すべきで、このあたりのこだわりと自信はやはり自分のフィールドで書いているゆえの強みだろう。実はたまに読みにいこともあるけど。
(2000.1.3)

Book Review 2000
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