11/30
■今月はこういう話題ばかり書いている気がするけど、「ユリイカ」12月号は「ミステリ・ルネッサンス」特集。次はJ文学の牙城「文芸」でもミステリ特集を組むそうだし、ミステリ特集が世の流れなのだろうか(たしか「現代思想」は何年か前にやってたけど)。なんせ「ユリイカ」なので、いらんポストモダン批評とかも入ってるわけだけど(むろん読み飛ばした)、なかで面白かったのが『ハサミ男』の新人・殊能将之へのインタビュー。これは聞き手の小谷真理がミステリに関してやたら素人なせいで、結果的には格好の「本格ミステリとは何ぞや」の入門編になっている。「本格ミステリーはファンタジーとは対局にあるものなんですよ」「ええっ!そうなの?」とか、そんなかんじ(通販の番組かって)。ふつうあそこまでは断言しないものだと思うんだけど、そこは初心者むけの噛んで含めるような講義なので。どこまで意図したものなのかわからないが、この企画はなかなかの成功といえると思う。(怪我の功名という気もするが……。ちなみに僕は小谷真理を異業種の人なのねと思っているだけなので、悪意とかはないです。念のため)
■殊能将之は要するに、本格ミステリにおいては描かれる情報のすべてが謎解きに奉仕するものだと語っている。人物設定、舞台背景……そういう物語的な血の通った要素が、最後にはみなそろって冷徹に「単なる伏線」として扱われてしまう。そのギャップが面白いんだと。だから地方の土俗とかを割り切ってただの伏線に使う横溝正史は本格ミステリを書けたけれど、倒錯やフェティシズムなどにどうしても執着のある乱歩は、本格を(愛しながらも)結局実作でものすることはできなかった。
■これはとてもクリアで納得しやすい説明だと思う。実作の『ハサミ男』でも、おおこんなのまで伏線にしちゃうとは、なんて驚きは際立っていた。ただ……『ハサミ男』って、「だから何?」というのはあるんだよねえ。たしかに伏線はきっちり決まって大きなどんでん返しはあるものの、それは作者の綱渡り的書きかたが明かされるということにすぎなくて、結果として物語内に大きな意味をもたらすわけではないと感じたのだ。人によってミステリ観はいろいろあるだろうから、これは個人的な趣味にすぎないけれど、僕にとってどんでん返しというのは手法にすぎなくて、それで何を表現するかの中身のほうが重要じゃないかと思っている。登場人物が実はこんな人物だったとか、それは何でもいいけれども物語的な意味がないと。少なくとも「作者が実はこんなことをやってました」というだけでは、物語の世界観を揺らすような驚きには足りないと思うのだ。それは「ふうん、よくできてるね」で終わるだけである。『ハサミ男』はたしかに佳作だと思うけれど、感じた不満はそのあたりだった。(まあまだ1作めだし、これからわからないけどね)
■つまり殊能説は正しいと思うけれどそれだけでは足りない、そのミステリの枠組みで何を演出してみせるかが鍵じゃないだろうか、というくらいが僕の立場。よく言われるような「トリックか物語性か」という軸でいうと、これはどちらの志向に近いことになるんだろうか。(あれは個人的によくわからない基準なのだけど)



11/24
■図書館で、『鳩よ!』12月号(新装第2弾)のミステリ特集をチェック。まあ執筆の面々からしてだいたい想像はできたのだけど、笠井潔の「ミネルヴァ」の延長みたいなミステリファン評/業界分析がだらだらと続くばかりで少々うんざりした。もっとなんか建設的な話をしてくれないもんかねと思う。京極夏彦以降「キャラ萌え」読者が大量に流入してわけのわからん作品が増えた、と長文で嘆く千街昌之は(まあ笠井潔の「セルダン危機説」とだいたい同じ路線だろうか)、もともと本格好きとハードボイルド好きとかで話が通じなかったうえさらにコミュニケーション・ギャップが進むようでは、全体を網羅できている評論家なりファンなりはどんどん減るばかりじゃないか、と危ぶんでいるのだけど……なんだかべつにどうでもいいよなあ。これは僕個人が日頃、本格もハードボイルドも(ついでにSFとか純文学も)わけへだてなく読みこんでいる人に囲まれているせいなのだろうか。
■あまり本筋には関係なかったけど、作家対談で京極夏彦の「論理とか推理とかって方便にすぎないよね」という意味の発言には、ほぼ同感の思い。たぶん京極はミステリってのは枠みたいなものにすぎなくて、むしろそこに何を盛っていくかが重要と考えているのだと思う(彼の作品もたしかにそんな考え方の気がする)。僕もそう思うことが多くて、だからその「枠」自体にことさら執着する、たとえば鮎川哲也みたいな路線って興味を持てないんだよな。
■ついでにこちらもリニューアル2号の、ミステリ・ダヴィンチ(『ダ・ヴィンチ』内のミステリ特集)も見てみたのだけれど、「作家と愛猫」といういかにもこの雑誌的な特集だった。前回はもうちょっと硬派だったのにな。法月綸太郎がおすすめの猫ミステリにアキフ・ピリンチ『猫たちの聖夜』(ハヤカワ文庫)を挙げていたのはさすが。これは僕も事あるごとに人に薦めている素敵な傑作なのだ。知的でスマート、ミステリとしてもシャープでさらに「現代の寓話」(法月いわく)として考えさせられる深みがあって、べつに猫好きでなくても愉しく読めるはず。



11/18
■森英俊・山口雅也編『名探偵の世紀』(原書房)をざっと見る。〈エラリー・クイーン、そしてライヴァルたち〉の副題のとおり、クイーンを中心にヴァン・ダインやカー、スタウト、ライスなど大戦間期の米国作家(カーは微妙だが)の特集。もともと僕はガキの時分から系統的にミステリを読んでいるわけではないせいか、ヒーローとしての名探偵じたいにはさしたる執着を感じない。なのでこの本の題目にはあまりぴんとこないのだけど、これはまあしょうがないでしょう。(というかクイーンをこれ以上普及させたいのなら、あれこれ解説するより新訳を出すのがいちばんな気もする……)
■それはともかく、結構おもしろかったのがヴァン・ダインのコーナーだった。まずその経歴の話。高名でアカデミックな美術評論家だったが過労で精神を病んでの療養中に探偵小説を読みまくって実作をものした、というのは実は営業用にだいぶ誇張したストーリーだったらしい。そんな話に、アメリカのスノッブたちはころりと騙されてしまったというわけか。(しかし野崎六助の『北米探偵小説論』なんて、思いっきりそのストーリーに基づいて書かれていた気がするけど、いいのだろうか)
■そしてデビュー作『ベンスン殺人事件』の当時の書評が載っているのだけど、この評者があのダシール・ハメット! 当然ボロクソにけなしてるわけだが、主旨がどうのというより、これはもう罵倒芸として抜群に面白い。ちょっと引用してみると……
この天才探偵に活躍の場を与えるために、著者は警官たちに不当な仕打ちをしなければならなかった。警官たちはさほど的外れでない質問さえも禁じられた。なにか知っていそうな人物に話を聞くことさえ許されない。(p189)
とか、
この作品でもっとも本当らしい記述は、マーカム検事がまだ一期しか現職にないというくだりだ。(p190)
とか。とにかく読んでくださいというしろものだけど、全編こんなスタイルで貫かれている。チャンドラーも「簡単な殺人法」でもろもろの本格古典に似たようなけちのつけかたをしているけれど、こちらのハメットの文章は自覚的に芸として確立されているぶんスマートだ。やっぱり笑いがないとね。続いて載っているアントニー・バウチャーの評論も、
S・S・ヴァン・ダインは、探偵小説の歴史や発展にとって、まったくなんの重要性もない。(中略)そろそろ誰かが王様は裸だというべきだ。(p191)
と怒涛の連打ではじまって、これも痛烈にこきおろしている。
■とはいっても、いまやヴァン・ダインの評価なんてのはほんとに地に落ちている観があって(関係ないけどいつのまにかレイモンド・チャンドラーの評価もかなり落ちていると思う)、むしろこのハメットやバウチャーの立場のほうが主流になっているともいえるわけだけど(本書の末尾の座談会でも、それを踏まえてのさらに再評価がいちおう話し合われていた)。まあ、これだけ正面からけなされるのは、当時いかにもてはやされたかということでもあるのだろうな。