中二階日誌: 2004年12月中旬

2004-12-11

□阿部和重「グランド・フィナーレ」

『群像』2004年12月号に掲載の作品。(いまごろ読んでいるのは図書館で借りたからです)

昨年の『SIGHT』誌年末特集の対談で、高橋源一郎と斎藤美奈子は阿部和重の『シンセミア』を含む日本の小説いくつかを取り上げて、作中の舞台設定が「9.11」以前の時期になっていることを指摘していた。そうすると、9.11以降の世界観を本格的に描くような作品はこれから書かれることになるのだろう。

『シンセミア』以降の世界を描いて、主人公の家庭生活が破綻する契機として「2001年9月11日」がわざわざ回想されるこの「グランド・フィナーレ」は、まさにそんな期待への応答のように読める。登場人物たちは海外の大量虐殺のニュースに敏感になっている(「まじでやばいよね、ロシア」とか)。1990年代を少女ポルノ産業にかかわって過ごした主人公は、そこで無自覚な「加害者」として積み重ねてきた罪悪を糾弾されることになる。そしてこの小説ではその先の境地、主人公がそうした「加害の連鎖」に抵抗して他人を救えるかというささやかな希望が(留保付きながら)示される。

と、いろいろと興味深く読めたのだけど、小説としては説明的な記述が多くて、長篇の梗概を読まされたようで物足りなかった(これを本気の長篇でやったら『罪と罰』みたいになってしまいそうなので、それはそれで大変ではあるけれど)。作家の決意表明として受け止めればいいのだろうか。

□『別冊SIGHT 日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2005』

SIGHT別冊 「日本一怖いブック・オブ・ザ・イヤー2005」ロッキング・オン [amazon] [bk1]

今年から別冊扱いのようだけれど、正直なところわざわざ別冊にするほどの情報量はないなあ。来年は元の形式に戻してほしい。

特に漫画の部は、対談形式なのをいいことにまとまりのない感想を連ねているだけで参考にならなかった。あと巻末の「あのベストセラー、誰が読んでいたのか」という付録記事がひどくて、こんな品のない記事を平気で載せる編集部の見識を疑うしかない。

高橋源一郎と斎藤美奈子が揃って褒めている町田康『パンク侍、斬られて候』[amazon] [bk1]が気になったのと、大森望がレムの新訳『ソラリス』[amazon] [bk1]について、読み直してみると架空の論文や科学理論を次々と持ち出してくるところが後の『完全な真空』『虚数』に通じる、と指摘しているのが面白かった。漫画では編集部の挙げる話題作、『PLUTO』『DEATH NOTE』『のだめカンタービレ』を全部きちんと読破していることに気付いて複雑な気分。

□『Invitation』2005年1月号

なんでこんなに他人の書いた年間回顧記事ばかり読んでいるのか……と自分でも疑問に思いながら目を通す。

宮台真司・宮崎哲弥対談の、アメリカは多チャンネル化が進んでいるので多くの人は自分好みのメディアしか見ない、だからマイケル・ムーアも(自分の味方陣営以外の)他者を説得する話法で語らない、という指摘が面白かった。あと宮崎哲弥が『DEATH NOTE』を褒めているのに感動する。

豊崎由美がベストテンの4位に『ミドルセックス』を挙げているものの、対談ではほとんど触れられていないのが残念。

永江朗の記事で「舞城王太郎はライトノベル出身」と書かれていたけれど、講談社ノベルスも「ライトノベル」と呼ぶということか?

2004-12-13

■マーティン・エイミス『ナボコフ夫人を訪ねて 現代英米文化の旅』

ナボコフ夫人を訪ねて―現代英米文化の旅大熊栄・西垣学訳 / 河出書房新社 [amazon] [bk1]

英国の作家、マーティン・エイミスが雑誌に寄稿したエッセイや会見記をまとめたもの。ニコルソン・ベイカーやロマン・ポランスキーへのインタビュー記事があるのに興味を持って読んでみた。

ニコルソン・ベイカーは『もしもし』が全米でベストセラーになって絶好調の頃の会見記で、エイミス自身が先輩作家なので単に話を聞くのではなく、作家への批評も入ってくるのが面白い。作品から想像するような社交能力ゼロの変人とは違っていた、なんて感じに本人の印象もあけすけに書いている。『もしもし』自体は「文学的には失敗作」(p.227)で残念な出来だとしているものの、その前の『中二階』や『室温』のベイカーは「われわれが名前を知らないようなものを扱う詩人だ」(p.224)と評価しているようだ。

ロマン・ポランスキーが自作について、世間的な評価の高い『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』『テナント』はその時々の都合で作ったもので特別な愛着はない、自分で気に入っている作品を選ぶなら『袋小路』と『吸血鬼』を挙げる、と語っているのが意外だった。

あとは、新人賞の選考委員を務めたとき、多くの未熟な候補作を読むのに意外なほど飽きなかったのはなぜかという話で、

小説を書くという作業がいかに密やかなものなのかを思い知らされた。精神分析医の寝椅子も、恋人たちのベッドでさえも、これほど密やかなものを曝け出しはしない。小説を読めば魂が見える。(p.231)

と書いているのが印象に残った。

■原りょう『愚か者死すべし』

愚か者死すべし早川書房 [amazon] [bk1]

前作『さらば長き眠り』(1995年)から本当に「長き眠り」を経てしまい、9年ぶりになった私立探偵・沢崎シリーズの新作。

このシリーズの第2作『私が殺した少女』は今でも傑作だと思うし、相変わらず謎解きの展開も工夫されているのはわかるのだけど、今回は正直なところ作中の事件、特に片方の日本政界の闇の人物をめぐる誘拐事件のほうが作り物すぎて興味を抱けなかった。私立探偵小説で物語を動かす「マクガフィン」として絵空事の宝物だとかが出てくるのは『マルタの鷹』の昔からよくあるパターンだから別にかまわないのだけれど、この作品の場合はTVのニュース番組でも見ながら思いついたという感じの俗っぽさがあって、どうも現実味の設定が中途半端に思える。

国会議員のスキャンダルや「ひきこもり」などのTV的な時代風俗との結びつきをあえて強調したことで、沢崎自身の時代的な無根拠さ(つまり、いつの時代の人間なんだと突っ込まれると困る)がかえって目立つようになってしまった気がする。

2004-12-14

□伊坂幸太郎「魔王」

講談社の新しい「物語雑誌」、『エソラ』vol.1[amazon] [bk1](『小説現代』特別編集)に収録の中篇。

超能力を得た主人公が未来の独裁者を阻もうとする筋書きで、伊坂版『デッドゾーン』だという指摘を見かけたのだけどたしかにその通りの展開をする。

『チルドレン』では連作集の形式で回避した「邪悪」な存在の描写に、かなり正面から挑んだ作品ということになるのかな。個人的に伊坂氏の悪を描こうとする筆致には肌に合わないものを感じていて、この作品でも、サッカーの応援やロック・コンサートにファシズムの不気味な萌芽を見るという感覚がよくわからなかった。主人公の拠って立つものが主にそれらの現象への抵抗感なので、同調するのが難しかったという感想。

2004-12-16

◆『すべてをあなたに』

That Thing You Do! (1996) / 監督・脚本: トム・ハンクス

トム・ハンクスの初監督作品で、ビートルズの紛い物みたいな若者バンド、「ワンダーズ」の軌跡を描いた青春・音楽映画。バンドの内幕ドラマ自体は割に他愛のない内容なのだけど、それよりも当時ありえたかもしれない架空のバンドとその楽曲を描くことで、舞台となる1964年の世界を精巧に再現するところに主眼があったように見える。

この「1964年」が何の年なのかと調べてみたら、ビートルズ初の全米ツアーが行われて主演映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開された、つまりビートルズが本格的に全米進出を果たした年ということになるようだ。当時の少年トム・ハンクス(1956年生まれ)もこのときビートルズに出会ったのだろう。

トム・ハンクスの作詞・作曲だという初期ビートルズ風(というのが僕にもわかる)の主題歌をはじめ、劇中に流れる楽曲はどれもこの映画のために作られたものらしい。ロバート・ゼメキス(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)が監督してトム・ハンクスが主演した『フォレスト・ガンプ』は虚構の人物が本物の歴史映像に紛れ込む「歴史改変」映画だったけれど、この映画はそれとはまた違い、いわば「オリジナルに作られた贋物」だけを揃えて「もうひとつの1964年」を作り上げる。自分にとって特別な過去のある時点を描くのに、こういう方法もあるのかと考えさせられた。そしてトム・ハンクス自身も脇役として劇中に登場して主人公たちの進路に介入するのだから、これも一種の歴史改変・タイムトラベル映画といえなくもない。

ただし音楽にも音楽史にも疎いので、個人的にはこの映画の試みがどのくらい面白い、あるいは良く出来ているのかあまり判断がつかなかった。(改変される元の歴史を知らないというか……)

主役格のドラマーを演じるトム・エヴェレット・スコットは若い頃のトム・ハンクスに雰囲気がちょっと似ていて、ただしもっと美形にした感じ。選んだ理由がよくわかる。

◆『世界の中心で、愛をさけぶ』

(2004) / 監督: 行定勲 / 撮影: 篠田昇

原作は読んでいません。長澤まさみのイメージビデオのつもりで見たら、本当にそんな感じの内容だった。行定監督の師匠格とされる岩井俊二も、映画なのかアイドルのイメージビデオなのかよくわからない作品を撮る人なので、無理もないだろうか。

イメージビデオ的だと感じるのは、例えば長澤まさみの演じるヒロインに優等生で運動もできる理想的な女生徒らしいという以外の個性が与えられておらず、その実在感がつかめないからで、それなら同じ属性を持つ別人と交換可能なのではないかと思えてしまう。さらに彼女が、冴えない主人公をなぜか好きになってくれたり、突然「好きよ……」と昭和のメロドラマのような台詞(たしかに時代設定はぎりぎり昭和なのだけど)を口にしたりするので、ますます人物像がわからなくなる。

登場人物とエピソードに固有性がなくて交換可能な記号に見える、死に向かうヒロインからの伝言がメディア(カセットテープ)を通して時間差で届けられる、という点で『ほしのこえ』とよく似ている。

過去の恋愛話を現在の登場人物が回想する、という枠組みもあまり効果的には見えず、特に柴咲コウの絡ませ方は偶然にも程があるとしか思えない。

話の筋はともかくとして、たまにすごく綺麗に撮られた場面があり、特に無人島での室内場面の美しさなどは画面を眺めているぶんには感心した。

2004-12-17

■A. B. コックス『プリーストリー氏の問題』

プリーストリー氏の問題Mr. Priestley's Problem (1927) / 小林晋訳 / 晶文社 [amazon] [bk1]

アントニイ・バークリーが別名義で発表していたコメディ小説。

ある筋書きのもとで演技をするはずが、途中のハプニングやその場しのぎの言動のせいで当初の目論見からどんどんずれていく……という演劇的なコメディで、いまなら三谷幸喜あたりの書きそうな話だと思う。

男と女が手錠につながれて右往左往するのをはじめ、面白いアイディアが詰め込まれていて感心するし、思わず笑ってしまった箇所もあるけれど、主人公が出てこないパートのキャラ造型と面白さがちょっと弱い。あと、この作品以降の時代に作られたコメディ映画を見ていると、映画なら簡潔に表現できることを言葉で説明しているのが洗練されていない感じはしてしまう。

バークリーの読者としては、『最上階の殺人』のスクリューボール風味、『ジャンピング・ジェニイ』の余計な証拠捏造、そして何より『試行錯誤』の目眩く皮肉コメディ世界と、後の傑作で描かれる要素がすでに芽を出しているのを確認できて嬉しい。

若い女を立役者として皆で示し合わせて世間知らずの男を騙し、勘違いの騎士として冒険をさせるというのは、元をたどると『ドン・キホーテ』の作劇に通じる(特に「前篇」の旅籠のあたり)。『試行錯誤』とともに、この作品は生きる目的を見出せなかった男が乙女を守るために身を捧げる、つまり本物の「騎士」になるまでを描いているといえるかもしれない。もちろんそこで単純にロマンティックなだけの話にはしていないのだけど。

2004-12-19

◆『ターミナル』

The Terminal (2004) / 監督: スティーヴン・スピルバーグ

これは失敗作でしょう。アメリカの玄関口で移民の集まる国際空港を舞台に「監視社会」ものをやるという着想は悪くなさそうなのだけど、空港内の細かい描写と古典的な人情コメディになる展開がちぐはぐで合っていない。後半、トム・ハンクスが秘密の「缶」を開けて渡米の目的を明かしてからの出来事は、下手な冗談でも見ているようだった。こういうキャプラ風のお伽噺をやるならコーエン兄弟の『未来は今』みたいに、現実から離れたファンタジーの設定にしたほうが良いのではないかと思う。(その『未来は今』はまた、トム・ハンクス主演でスピルバーグ妹が脚本を書いた『ビッグ』に似たところがあるので、ちょっと皮肉なのだけど)

原案のアンドリュー・ニコルが手がけた『トゥルーマン・ショー』もやはりそんな感じはあったけれど、自由を求める善良な主人公とそれを阻止しようとする悪者の管理官、という単純な図式に落ちてしまうのも物足りない。これは例えば学園ドラマで、型破りの新任教師を了見の狭い教頭が邪魔しようとする(そして背後に、理解のある校長や学園長がいる)というありきたりな類型と変わらない気がする。

前半、空港内の出来事がトム・ハンクスのパントマイム的な動きのもとで描写される過程は面白く、相手役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズもわりと綺麗に撮られていたので(役柄自体には無理を感じるけれど)、何かもったいないまとめかただと思う。公開前、撮影のために空港の大セットを組んだことが話題になっていたのは、他に特筆すべき点がなかったからかもしれない。

ところで、旧共産圏の架空の国から来た主人公の名前「ヴィクター・ナボルスキー」というのは、作家のウラジーミル・ナボコフが元なのだろうか。ナボコフは革命で祖国ロシアを喪った亡命者で、名前の頭文字も同じ「V」で符合する。映画の内容にはほとんど関係ないけれど。

年の瀬なので心暖まる手堅そうな映画を見ようと考えた人が多かったのか、映画館は混んでいた。

2004-12-20

■C. S. フォレスター『終わりなき負債』

終わりなき負債Payment Defferd (1926) / 村上和久訳 / 小学館 [amazon] [bk1]

トンプスンやハイスミスというよりは、小市民が罪を犯して大金を手に入れても決して幸せになれません、という『シンプル・プラン』みたいな犯罪サスペンス小説だった。

主人公のマーブル氏をはじめ、登場人物を誰ひとり魅力的に描かないという書法が徹底されていてすさまじく、どの人物も出てくるたびに容赦なく切り捨てられる。『殺意』のフランシス・アイルズでももうちょっと登場人物を好意的に描いている気がする。

原題の"Payment Defferd"(支払い猶予)は当然「罰(punishment)」が猶予されていることを暗示しているはずで、そうするとドストエフスキーの『罪と罰』を念頭に置いた題名のようにも思える。作品中で延々と金勘定の話をしているのが変わっていて、心理的なものを金銭に還元しようとするもののことごとく失敗するという過程が描かれる。

いかにも皮肉な結末の付け方は、この後に書かれたアイルズの『殺意』(1931年)に似ている。『罪と罰』から『殺意』に至る橋渡しのような作品なのかもしれない。


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