中二階日誌: 2004年11月中旬

2004-11-11

◆『ビッグ』

Big (1988) / 監督: ペニー・マーシャル / 脚本: ゲイリー・ロス、アン・スピルバーグ

少年から突然大人の姿になってしまう人物を、トム・ハンクスが演じるコメディ。これは「現代のお伽噺」として素晴らしくよくできた映画で感心した。前半はやや型通りに進行するけれど、トム・ハンクスが社長とステップを踏んで鍵盤を奏でる美しい場面から、「嘘のような出来事が本当に起こる」というこの映画の気分が一気に盛り上がる。同僚の女性(エリザベス・パーキンス)とのロマンスも丁寧に描かれていて良い。

脚本に連名でクレジットされているゲイリー・ロス(『カラー・オブ・ハート』『シービスケット』の監督)は、後の脚本作『デーヴ』でもやはり、主人公が成り行きから別の社会的地位の人物になりすます話を描いていた。『デーヴ』にも共通するけれど、お伽噺を地道なエピソードで丁寧に作り込んでいく作風の人なのだろう。見た目は大人だけど心は少年、という設定を縦横に使い尽くすような洒落た会話が工夫されているところなど、脚本の出来も良いのではないかと思う。

少年が大人の体を持ってしまうというのは、逆に見れば大人の体に少年の心が宿るということでもある。そして主人公と出会う大人の登場人物はそれぞれ、自分がこの主人公とそれほど変わらない、大人の体に子供時代の心を残した人間であることに気付いていく。

トム・ハンクスの仕草は、大人の体に少年の心が宿ってしまったためのぎこちない感じが出ていて説得力がある。その後『フォレスト・ガンプ』でも、大人の体と子供の心を持った人物を演じていたけれど、個人的にはこの『ビッグ』のほうがまだ初々しさがあって好み。

コーエン兄弟の『未来は今』もこの『ビッグ』と似た、大人の体に子供の心を宿した人物を描いたお伽噺で、主人公が玩具会社に就職して活躍する展開も同じ(童顔で体の大きなティム・ロビンスはこの役柄にぴったりだった)。奇怪でユーモラスなエピソードと人物を連ねて人工的な異世界を構築していくコーエン兄弟の作風と、この『ビッグ』の、身近な小道具を積み重ねてお伽噺に説得力をもたらしていく感じは対照的で面白い。

2004-11-13

◆『アイ,ロボット』

I, Robot (2004) / 監督: アレックス・プロヤス

実は隠れアシモフ・ファンだったのを思い出していまさら観る。いかにもわかりやすいハリウッド映画の典型という感じで、反乱したロボットは赤く光るのですぐ見分けが付くという親切設計はさすがにやりすぎじゃないかと思った。

予告編の映像から、ウィル・スミスの刑事とCGのロボット群が戦っても、どちらもどうでもいいので盛り上がりそうにないと予想していたら、アクション場面はやはりそういう感じだった。この主人公の高所恐怖症だとか片腕が××だとかのキャラクター設定が、その場で突然出てくるだけで後の展開に生かされない脚本もいまひとつ。ウィル・スミスはコンバースから幾ら貰っているんだろうとか、そんなことばかり気になった。

□大場つぐみ・小畑健『DEATH NOTE』(4巻)

集英社 [amazon] [bk1]

相変わらず快調。話の展開に変化をつけるには第二のデスノート使いでも出すしかないのかなと考えていたら、やはり登場してきて、しかもすごい勢いで使い捨て(?)られる。

野暮を承知で突っ込みを入れると、「デスノート」は超自然現象なので警察は犯行を立証しようがない。だから本来は犯人と警察の攻防が成立しない話なのだけど、それでも不思議と失速しないで進んでいくのが楽しい。

ところで、『クイック・ジャパン』の最新号に『DEATH NOTE』の特集記事が掲載されていた。座談会(乙一、冲方丁、西島大介)はなぜかシャマランの映画談義で盛り上がっていたりして面白い。そのなかで乙一が、個人情報を特定されたら命取りになるという設定は、インターネットの普及した現在だから説得力があるのではないか、と指摘していてなるほどと思った。あと清涼院流水がコメントを寄せていたのは妙に納得。

□荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』(3-4巻)

集英社 / 3巻 [amazon] [bk1] / 4巻 [amazon] [bk1]

週刊連載を追えない読者には優しい、2巻同時発売。こちらは残念ながら失速じゃないだろうか。正直なところ、戦闘場面を読んでも何が起こっているのかよくわからない。それから、やはり『ジョジョ』の第4部みたいな日常描写がなくて戦闘ばかりになると、大して面白くない敵が主人公たちを生命の危機に陥れるという展開が繰り返されて単調になる気がする。

□浦沢直樹『PLUTO』(1巻)

小学館 [amazon] [bk1]

帯に「戦慄のSFミステリー」と書かれていてどうだろうかと読んでみたら、導入部が殺人事件からはじまって本当にSFミステリーの筋書きだった。しかし今年は映画『イノセンス』『アイ,ロボット』に本作と、ロボット・ミステリーを目にする機会が多いのはなぜだろう。

浦沢直樹の描く人物は顔のパターンが少なくて画一的に見えるけれど、この作品ではそれが、人間社会のなかに人間と区別のつかない外見のロボットが暮らしている、という世界設定と調和していて面白い。

浦沢作品によく言われる批判として、多視点の切り替えが単なる話の引き延ばしになっているということがある(視点人物がある重要な事実に気づく→別の人物の視点に切り替わる、という手法が繰り返される)。この作品では章立てになっているせいか、いまのところその点は気にならない。

2004-11-14

□文学フリマ探訪記

秋葉原に会場を移した第三回文学フリマ(11月14日)、昼頃に行ってみたらなかなか盛況だった。青山ブックセンターの前2回は足を運んでいないのだけど、高校生から年配の方までわりと幅広い参加者が集まっているようで悪くない雰囲気。有名人では東浩紀氏が「波状言論」の売り場にいるのを見かけた。

ヘリオテロリズム』で今回初出品のそらけいさん西東ノブさんをはじめ、何人か旧知の方にお会いする。なぜか道端でグレッグ・イーガン『万物理論』の是非について語っていたおぼえがある。

ミステリ系のウェブ管理人による創作集『ヘリオテロリズム』vol.1、白水Uブックス研究会の村上春樹特集『蹴りたい春樹』、あと批評マガジン『エフェメーレ2号』が売っていたので購入。他にも創作系でいくつか良さそうな装丁のものもあったけれど、現実的にはあまり読む気力がないかもしれないと思い直して今回はこれだけにした。

帰りの道中、読みやすそうだった『蹴りたい春樹』にざっと目を通した。同人誌らしく遠慮のないハルキ談義が飛び交っていて面白い。おまけのイラストと文章にも笑った。会社内の文学好きが集まって結成したという「白水Uブックス研究会」の雰囲気も良い感じです。

□白水Uブックス研究会

僕の場合はミルハウザーやニコルソン・ベイカーの読者なので「白水Uブックス」の名前に惹かれて覗いてみたのだけど、あとで調べたら文学フリマでは第1回からよく知られた名物サークルみたいなところだったらしい。仲俣暁生氏の「陸這記」にも登場していた

2004-11-15

◆『ジョニーは戦場へ行った』

Johnny Got His Gun (1971) / 監督・脚本・原作: ダルトン・トランボ

観たあと誰もが重い気分で口を閉ざすに違いない、鬱映画の金字塔。とにかく主人公の陥っている境遇は半端でなく、その悲惨さは他の追随を許さない。

第一次世界大戦で傷病兵として収容された青年の、病室での現在をモノクロ、その主観による回想と夢想の場面をカラーで色分けして描く。ヴェトナム戦争の頃の作品なので一般的には「反戦映画」とされるのだろうけど、普通ではありえないくらい実験的な構成を貫いた映画としても興味深かった。なにしろ主人公が身動きできないうえ喋ることもできず、顔も見せられない状態なので、その心情はすべてモノローグの言葉で語られることになる。これは脚本家出身で、言葉の力を信じているような人でないとまず撮ろうと考えないだろう。

主人公の目に見えない現在の場面がモノクロ、脳内に映る場面が鮮やかなカラーになる、といった使い分けの意味がはっきりしすぎていて、同時期の作品でいえば『スローターハウス5』映画版あたりのほうが面白く観られるのは否めないけれど、映画としてやる意味はたしかにあるとも思う。

ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(映りの悪い現実世界と色鮮やかな妄想ミュージカル世界が交錯する)や、アーヴィン・ウェルシュの小説『マラボゥストーク』(植物状態で病室に横たわる視点人物の回想と妄想が語られる)などは、この『ジョニーは戦場へ行った』の手法を下敷きにしているのではないだろうか。特に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は主人公が目を悪くした人物で、冒頭しばらく暗闇を映し続けて主人公の視野を観客に体感させるところも同じだった。

この作品を見ると、映画は暗闇のスクリーンに映像を映すものであることを改めて思い出させられる。目の見えない主人公にとって世界は暗闇であり、我々は映画を観ることによって、暗闇の世界に何かを映写していく主人公の意志の力を感じ取ることができる。今回はたまたまTVで放映されているのを見たのだけれど、そういった意味で、映画館でもういちど見たい作品だと思った。

2004-11-20

■村上春樹『アフターダーク』

講談社 [amazon] [bk1]

都市を俯瞰する上空の視点からはじまって、「私たち」と一人称複数で呼ばれるカメラの視点がファミレス、ラブホテル、コンビニといった街角のありふれた風景を浮遊する。

デビュー25周年だからとりあえず何か発表しておきましょうという話になった――のかどうかは知らないけれど、「僕」の一人称語りを封印して目一杯映画的な視点を導入しているのだけが目立つ、肩慣らしの文体実験みたいな作品だった。

いつも続いている日常世界からある一日を切り取った話のはずなのに、登場人物の造型がその場かぎりの思いつきにしか見えず、その過去や未来に少しも興味が湧いてこない。これならわざと薄っぺらい人物を描いて、同時にその背後の不気味さも表現する吉田修一の作品のほうが面白い気がする。

また『神の子供たちはみな踊る』でも気になったのだけど、登場人物がお互いに答えを知っているかのような会話を交わすのに違和感をおぼえることが多い。それはまるで夢の中の出来事のようで、だから時間は夜更けであり、ずっと眠り続けている人物がいるのかもしれないけれど。

題名と粗筋を耳にしたときは、夜の都会をひと晩さまよう『アフター・アワーズ』の趣向を借りているのかと思ったものの、読んでみると『ショート・カッツ』(都市の俯瞰と覗き見の視点)や『ナイト・オン・ザ・プラネット』(時計を表示して共時性を演出する)など、いろんな映画の手法を思い浮かべる。映画のカメラの視点は複数の観客に向けて開かれているので、「私たち」という一人称複数を主語にした叙述が成り立つ、というのは発見だった。


Index ≫ 2004.11