Sundays and Cybele (1962) / 監督: セルジュ・ブールギニョン
戦争の後遺症で記憶を失った男と、親に捨てられた少女が出会う。
ロリコン映画の聖典として語り伝えられる作品……らしいのは承知していたので、なるべく色眼鏡をかけずに見たつもりなのだけど、「君と友達になりたいだけだよ」「私が18になったら結婚しましょう」とか、えらく典型的な台詞が出てくるのでさすがにつらいな。
主人公が魅力のある人物として描かれていないので、戦争後遺症で記憶を失っているとか、少女のほうが親に捨てられて身寄りのない境遇だとかの設定が、美少女とたまたま出会って仲良くなるという夢想を成り立たせるための都合の良い言い訳に見えてしまう。
『夏への扉』の年齢差もこのくらいだったろうか。
Swimming Pool (2003) / 監督: フランソワ・オゾン
どうも合わない作家というのはいるもので、考えてみるとフランソワ・オゾン監督の映画は『8人の女たち』などの評判になった作品も含めて、面白いと感じたことがない。
英国の女流ミステリ作家(シャーロット・ランプリング)を主人公にしたこの映画も、観客を煙に巻く話なのはいいとしても、そのわりに個々のエピソードや登場人物に面白味がないので裏を読む気が起こらない。ヒロイン(?)のリュディヴィーヌ・サニエが好みでないのも人数が少ない劇だとつらかった。
The Outlaw Josey Wales (1976) / 監督・主演: クリント・イーストウッド
『荒野のストレンジャー』もそうだったけれど、イーストウッドの演じる主人公はあまりに強すぎてどこかこの世の人でないように見える。
途中までとても面白かったのだけど、後半、インディアンの部族の争いを調停するところなんかは明らかに本筋に絡んでいなくて、結果的に冗長な感じを与える。
当時の恋人だったはずのソンドラ・ロックをヒロインとして出演させておきながら、行きずりの男たちに襲われて尻をむき出しにさせられる、という役をやらせているのが明らかに異様で、イーストウッドは相当なサディストなんだろうかと思う。
画面が綺麗だと思ったら、撮影は『ダーティハリー』と同じ人(ブルース・サーティーズ)だった。
Rosemary's Baby (1968) / 監督: ロマン・ポランスキー
いまさら初見。「悪魔崇拝」という題材になじみがないので、お笑いすれすれにしか見えないのが微妙だけど、ポランスキーはさすが日常生活に潜む恐怖と人間不信、被害妄想を描かせたら巧いなあ。隣人たちの怪しい言動の積み重ねが面白い。
ポランスキー監督は自分が主演して撮っている『テナント 恐怖を借りた男』(1976年)も、呪われた部屋に入居した主人公が被害妄想で追い詰められていく話なので、よほど気に入った題材なのだろう。
The Godfather (1972) / 監督: フランシス・フォード・コッポラ
何年ぶりかわからない再見。マーロン・ブランドの威厳あるしゃがれ声と、おおよその筋書きは記憶していた。この先の展開を思い出せないので、たぶん『Part 2』は未見のような気がする。
見直してみて、光と影が対比される映画だと思った。冒頭の場面、明るい野外で結婚の祝祭が催されている一方で、薄暗い室内ではマフィアの親玉のもとへ何やら物騒な頼み事を持ち込む人物が訪れている。陽光の降り注ぐシチリアで弟が花嫁を見つけているとき、兄は薄汚い策略にはめられる。教会で赤ん坊の洗礼式が行われながら、その裏では並行して血みどろの殺戮が進められる。
アル・パチーノの演じるマイケル・コルレオーネは、冒頭の場面では明るい野外の座席で和やかに歓談している。映画の幕切れの場面では、ケイ(ダイアン・キートン)のいる明るい部屋から通路を挟んではるか遠くにマイケルの姿が見え、やがて扉が閉ざされる。マイケルは闇の世界の住人になったのだ。
この映画における室内の暗さはただごとではなく、人物の背後には暗闇しか見えず、その人物の顔も目が影に隠れて映っていない、なんて場面がざらにある。撮影監督のインタビュー集『マスターズ・オブ・ライト』(フィルムアート社)に収録されているゴードン・ウィリス(本作の撮影監督)の発言によると、当時としては型破りの低い露光で、俳優の頭上からの照明を基本にして撮影したらしい(だから背後が暗がりになり、俳優の顔に影が落ちる)。それは「邪悪」を描くための必然だった、とのこと。
画面の構図が隅々まで決まっていて、3時間近くある大作にもかかかわらずまったく長いと感じない(こういう年代記の大河ドラマを、ナレーションを使わずに見せられているのも素晴らしい)。ひとつだけ欲を言えば、「ファミリー」内部の話に焦点を絞っているので、他の敵対する勢力の違いがよくわからず、単なる駒に見えてしまうところがある。ただ、そのあたりを描いていたらたぶん3時間にはおさらまらないだろうし、話の焦点がぼやけてしまうのかもしれない。
Reversible Errors (2002) / 佐藤耕士訳 / 講談社文庫 / 上巻 [amazon] [bk1] / 下巻 [amazon] [bk1]
版元が文春から講談社文庫に移っているけれど、内容もこれまでのトゥロー作品とは少し趣向を変えている。
刑事裁判の描写を前面に出しているのは第一長篇『推定無罪』以来のように思えて目を惹くけれど、何より多視点の三人称叙述を採用して四人の主要人物を並行して描いているのが、これまで一人称叙述にこだわりを見せてきた作者にしては珍しい。
弁護側と検察側にそれぞれ男女二人の人物が配置されて、過去の死刑判決を覆そうとする調査が進む。それとともに、四人の登場人物にとって事件と関わることはそれぞれの意味でこれまでの人生を問い直すことにでもある、ということが示される。題名の"Reversible Errors"は法律用語であるとともに、「取り返しのきく誤り」という物語的な意味を帯びてくる。このあたりは『推定無罪』以来、いかにもトゥローが得意としてきた書き方だ。
結論から書くと、この「三人称・複数主人公」の書法と従来のトゥローらしい「事件と人生が重なり合う」展開の取り合わせは、必ずしも成功していない。『推定無罪』が「検察官自身が殺人事件の被告になる」話だったように、トゥローの小説はたいてい事件の当事者の視点から語られて、そのために、事件の真相を調べていくことが自分の人生を見つめ直すことに結びつく、という展開に説得力が与えられていた。それに対して今回の『死刑判決』の主人公たちは、事件と多少のかかわりはあっても当事者とはいえない。したがって、登場人物の過去の回想や恋愛話は事件と直接結びつかず、進行を妨げがちに見えるし、やがて事件が解明されてもその行方はどこか他人事になってしまう。(特に事件の背後にある航空券絡みの犯罪は、登場人物にとっても読者にとってもまったく興味を抱けないものだ)
どんでん返しの情報を小出しにして単純な事件を奥深く盛り上げる手腕など、面白く読めたところはあるけれど、これまでの作品の出来映えからするといくぶん落ちる内容ではないかと思う。
Vincent (1982) / Frankenweenie (1984) / The Nightmare Before Christmas (1993)
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のデジタル・リマスター版が、ティム・バートンの初期作品「ヴィンセント」「フランケンウィニー」と併映で公開されたので見てくる。一応、ハロウィンの時期に合わせての上映なんだろうか。
見たなかでは特に「フランケンウィニー」がそのまま『シザーハンズ』の原型という感じで良かった。グロテスクで死の世界との境界にあるものを、そのグロテスクさを消さずに愛らしく描いてみせるのがティム・バートンの特異さなのかな。
他の「ヴィンセント」と『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』もわりと愉しく見られた。「ヴィンセント」は主人公の顔がティム・バートンの自画像みたいなのがおかしいし、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』ではキャラクターたちの滑らかな動きに感心する。
Family Viewing (1987) / 監督: アトム・エゴヤン
アトム・エゴヤンの初期作品。ビデオ、テレビ、電話……身近なはずの家族とも、何かのメディアを通してだけ向き合える、そんな人間関係が描かれる。
ビデオカメラを持ち込むことで家族の関係を解体する感じが、スティーヴン・ソダーバーグ監督の『セックスと嘘とビデオテープ』(1989年)と似ている。この『ファミリー・ビューイング』は出品した映画祭でヴィム・ヴェンダースに激賞されたそうだけれど、『セックスと嘘とビデオテープ』がカンヌ映画祭でグランプリを獲得したときの審査委員長も、やはりヴェンダースなのだった。ヴェンダース監督の作品はあまり見ていないのだけど、『パリ、テキサス』(1984年)はメディア越しにしか対面できない家族を描いていたという点で(印象的な「マジックミラーの部屋」とか)これらに通じるかもしれない。
作品自体はちょっと退屈で、1時間半程度の上映時間を長く感じてしまった。「ビデオデッキ」と「墓」が対置される(どちらも四角い箱である)のは他の映画で見たことがない感じで、変わっている。
Collateral (2004) / 監督: マイケル・マン
運転手に突然降りかかる災難、夜の都会をさまよう一晩の出来事、ということでそれぞれ『激突!』と『アフター・アワーズ』を思い出す。
現実と夢の狭間のような状況設定で一本持たせようとする映画で、前半は面白いけれど、無理なことが起こりすぎて途中から醒めてしまった。少ない登場人物が何度もたまたま鉢合わせしたり、登場人物が考えていることを全部喋ってしまう、というような脚本はどうなんだろうという気がする。あと、携帯電話の充電がたまたま切れる、というのを話の障害にするのは今後禁じ手にしてほしい。
LAの夜景は雰囲気のある撮られ方をしていて良い。
トム・クルーズが犯罪者の役に挑むという、デンゼル・ワシントンの『トレーニング・デイ』(これも一日で終わる話だった)と似たような趣向。トム・クルーズの現実味のない風貌が、現実とも妄想ともつかないような役柄に合っていると思う。『ファイト・クラブ』のブラッド・ピットの役割に近い。
『レディ・キラーズ』のイルマ・P・ホールが同じような役柄(運転手の母親役)で出ていた。黒人の「肝っ玉母さん」といえばこの人しかいないということなんだろうか。
笑の大学 (2004) / 監督: 星護 / 脚本・原作: 三谷幸喜
原作の舞台をTVで見て面白かった記憶があるので、別の俳優が演じるのをもういちど見るのも悪くないかと思って鑑賞した。
見てみたらほとんど笑えない退屈な映画で、予告編に感じた悪い印象を信じれば良かったと後悔した。台詞のひとつひとつが見えない観客に言い聞かせるかのように間が悪く、即興でコメディを作っていく話なのに、俳優が決められた台本を読んでいるようにしか見えない。劇中劇の部分も、時間を取って演じられる警官のくだりをはじめとして、全然面白そうでない。同じく三谷幸喜ものの映画化『12人の優しい日本人』も苦手で、「舞台版は面白いのかもしれないけど……」と感じたものだけれど、この作品も似たような感想だった。
三谷幸喜自身の監督した『ラヂオの時間』(1997年)も、ハプニングによって脚本が次々と変えられる話だったけれど、あちらは登場人物が多いのでまだしも映画に向いていたと思う。『笑の大学』みたいな密室の二人芝居は単調になって飽きてくるし、この設定ではふたりが劇中劇をわざわざ「演じて」みせる必然性を感じられない。
見所は、笑いの裏に泣きなど、表情につねにふたつの感情をにじませる役所広司の名人芸くらい。