中二階日誌: 2004年10月中旬

2004-10-11

■グラディス・ミッチェル『月が昇るとき』

月が昇るときThe Rising of the Moon (1945) / 好野理恵訳 / 晶文社 [amazon] [bk1]

田舎の村で連続殺人事件が起こり、警察と名探偵がやってきて事件を解決する。よくある田舎ミステリのパターンが、現地に住む少年の視点から語られる。親のいない少年の日常生活や冒険、あるいは「少年探偵団」のように名探偵の手伝いをするときのわくわくする感じが丁寧に描かれている。

前に訳された『ソルトマーシュの殺人』もたしか事件よりも日常生活の描写が妙に分厚かったのだけれど、そこに住んでいる人々の視点から、いつもの生活が続いている傍らで殺人事件の捜査が進む、という感じを描くとこうなるのだろう。倉知淳の『壺中の天国』なんか、外した感じが近かった気がする。

ただ、健全な少年の視点を採っているためかあまりひねくれたところがないので、個人的には『ソルトマーシュの殺人』のほうが底が知れなくて面白かった。少年の視点から殺人事件を垣間見るという趣向は、当時はともかくいま読むとさほど風変わりなものではないというのもあるかもしれない。

満月の晩に決まって起こる殺人事件ということから、「狼男」の民話がうっすらとほのめかされているのではないかと思う。そうした民話のような世界がひねりを加えていきなり現実に飛び込んでくる場面があって、そのシュールな感じが少年の視点による語り口とうまく重なるのが印象的。

◇クリストファー・リーブ死去

特に思い入れのある俳優というわけではないのだけど、たまたま初監督作のTV映画『フォーエヴァー・ライフ/旅立ちの朝』を見たばかりだったので、その偶然にびっくりした。作品の内容は、不治の病に冒された青年が実家に戻って家族と過ごす最期の数ヶ月を描く、というものです……。wad's映画メモに紹介記事あり。

2004-10-12

■法月綸太郎『誰彼』

誰彼(たそがれ)講談社文庫 [amazon] [bk1]

これまで未読だった作品で、今回はじめて目を通したら面白かった。ノベルス版の刊行は1989年。

コリン・デクスター的な「新たな手がかりが見つかる→推論を組み立て直す」という目まぐるしい仮説検証が積み上げられるなかで、法月作品ではお馴染みの「人物入れ替わり」の煩雑さがほとんど馬鹿馬鹿しい領域にまで達していて、かえって抵抗なく読める。エーテル云々を教義とする新興宗教という設定や、『黒死舘殺人事件』ばりに過剰なアナグラム読解をはじめる法月探偵なども、冗談ぽい雰囲気を演出するのに一役買っている。

この後の『頼子のために』以降は、家庭内のドロドロした「悲劇」が描かれるようになって、好みからすると気の滅入るところがあるのだけれど、この作品は設定が元から虚構めいているのでそういう感じはない。女性の登場人物が事件の中心的な役割を果たさないせいもあるかもしれない。

実のところデクスターの良い読者ではないので、その先駆けといえるかもしれないアントニイ・バークリーの『最上階の殺人』あたりの感じを思い浮かべたりもした。この作品の発表当時はまだ訳されていないのだけれど、バークリーの主人公ロジャー・シェリンガムも探偵・法月綸太郎もへなちょこ推理作家という設定なので、結果的にちょっと似通って見える。

□「2ちゃんねる」が生んだ文学

『電車男』(新潮社)[amazon] [bk1]書籍化の記事。まじめに書いてあるとパロディ記事みたいに見えるのがおかしい。「出版社8社から書籍化依頼が殺到」したのか……。ウェブ上の出来事を書籍にしてもな、という気もするんですが。

2004-10-13

◆『フォーエヴァー・ライフ/旅立ちの朝』

In the Gloaming (1997)/ 監督: クリストファー・リーブ

クリストファー・リーブが監督したTV映画。1995年の事故後、首から下の全身が麻痺した状態で監督を務めたことになる。本編は1時間程度の小品で、そのせいかビデオには車椅子姿のクリストファー・リーヴをはじめ、出演者のインタビュー映像なども収録されていた。

不治の病に冒された青年が田舎の実家へ帰り、母親(グレン・クローズ)をはじめとする家族と最期の数ヶ月を過ごす。いわゆる「難病もの」になるわけだけれど、語り口が控えめで押しつけがましいところがなく、舞台となるアメリカの田舎の風景が絵画のように美しい(撮影は『ブルーベルベット』『アイス・ストーム』などのフレデリック・エルムズ)。佳作ではないかと思う。

息子が帰ってくることによって何か新たな物語が動き出すのではなく、それまでの生活が少しだけ変わって続いていく。非常に淡々とした演出で、さらに登場人物の具体的な背景をほとんど説明しないことで、観客が自分たちの家族の物語をそれぞれ投影できるようになっている。

妹にブリジット・フォンダ、付き添いの看護婦にウーピー・ゴールドバーグと、名の知れた人を使っているのに結局ほとんど話に絡んでこない。それが変わっているともいえるけれど、個人的にはこのふたりはもうちょっと役割を与えてほしかった気もする。

原題"In the Gloaming"は黄昏のことを指していて、主人公の死期が近いことも暗示しているのだろう。その黄昏どきの静かな風景はさすがに端正に撮られていて素晴らしい。

この作品で父親の役を演じていたデヴィッド・ストラザーンは、ジョン・セイルズ監督作品の常連俳優で、この映画と似た要素のある『パッション・フィッシュ』(1992年)にも重要な役どころで出演していた。『パッション・フィッシュ』は、交通事故で半身不随になった女優が故郷の自然のなかで生きる希望を取り戻していくという筋書きで、これはクリストファー・リーブ自身の境遇とも重なる。クリストファー・リーブはこの作品を撮るのに『パッション・フィッシュ』を参考にしたのかもしれない、と想像してみるのも悪くない。

2004-10-14

◆『ある日どこかで』

Somewhere in Time (1980) / 監督: ヤノット・シュワルツ

クリストファー・リーブ主演のファンタジー・ロマンス。時を越えて、過去の時代に生きる運命の恋人と巡り会う。混じり気のない夢想を美しく映像にした作品で良かった。もちろん非常にアナクロな話なのだけど、「過去の時代へ戻る」という枠組みでそれが受け入れやすいものになっている(男の見た幻影のように解釈できる余地も残してある)。そして、手渡される「懐中時計」が時間の環を永遠にループし続ける。

原作・脚本は『激突!』『ヘルハウス』などのリチャード・マシスンなのだけど、仮に「ジャック・フィニイ原作」と言われても違和感がない。『ゲイルズバーグの春を愛す』収録の短篇「愛の手紙」なども、時間を越えた恋愛の話だった。その時代の気分に浸って強く願えば過去の時代へ行けるかもしれない、とこの映画のなかで主人公に語るのは、誰あろう「フィニイ教授」なる人物だ。

クリストファー・リーブは背が高くて体格が良く、端正で気品のある顔立ちと、絵に描いたようなハンサム・ガイで、その風貌がこのありえざる夢物語を導く主人公に似つかわしい。逆にいえば、リアルな現代映画では使いにくい俳優だったのかもしれないけれど。ヒロインのジェーン・シーモアはやや印象が薄い。

2004-10-16

◆『ミミック』

Mimic (1997) / 監督: ギレルモ・デル・トロ

ニューヨークの地下に巣食う巨大昆虫を退治する……と、同じ監督の新作『ヘルボーイ』とほとんど同じ展開なのでびっくりしますね。そんなに薄暗い地下世界と粘液モンスターが好きなのか。

とても雰囲気のある画面作りをしたB級ホラーで、面白かった。地下世界の暗闇とモンスターの気持ち悪さは迫力があるし、それ以外の街角の風景などの画面も綺麗に撮られている。

女性の主人公(ミラ・ソルヴィーノ)が戦う話で、モンスターの本体をなかなか見せない演出をしているところは、やはり『エイリアン』チルドレンなんだろうなと思わせる。モンスターがきちんと姿を現すと、いかにもCGに見えていくらか興醒めになってしまう場面もあるので、あまり姿を見せないようにしたのは成功している。

題名の「擬態(mimic)」という要素を生かしきれていないのと、登場人物のうち少年とミラ・ソルヴィーノの関係を作れていない(ここは一瞬でも何か疑似親子的な絆が生まれないといけないのでは)のが気になるけれど、全体としては良くできた娯楽映画だった。

◆『ほしのこえ』

The Voices of a Distant Star (2002) / 監督: 新海誠

遂にいわゆる「セカイ系」(もう死語か?)の本丸に踏み込むのかと身構えながら見たら、冒頭から「世界」の範囲が云々、という語りかけではじまるので妙に納得する。

ほぼひとりで作り上げた自主制作作品としては上出来なのだろうけど、アニメ門外漢としてはそういう裏話に感心する義理はないので、その背景事情を除くと特にすぐれた作品には見えなかった。

個人制作の作品のためか、作者の得意なものと不得意なものの落差が露骨に出てしまっていて、この作品は「身の回りの風景」と「宇宙戦争」、それをつなぐ「超・長距離恋愛」という状況を描きたいだけで、社会どころか人物を描くことにも興味はないのだろう。作画のレベルでも、人物以外の背景は緻密なグラフィックで描き込まれているのに、人物の作画はえらくしょぼくて(わざと崩したヘタウマの絵にも見えない)、なるべく人物が画面に出てこないようになっている。登場人物ふたりをめぐる思い出は、特別なエピソードではなくてどこかで聞いたような「それっぽい風景」の記号が連ねられるだけで、どちらも固有性を欠いた、交換可能な存在としてしか描かれない。人物が不在なのに「状況」だけ切り貼りされても……と思う。

そのあたりを抜きにしても、少女の参加する宇宙戦争と時間差、電線を強調した風景描写などは、『トップをねらえ!』や『新世紀エヴァンゲリオン』ですでに見たもので、特に目新しくはない。作者の今後はともかく、この作品自体は習作の域を出ないものだと思う。

2004-10-18

◆『くたばれ!ハリウッド』

The Kid Stays in the Picture (2002) / 監督: ブレッド・モーゲン、ナネット・バースタイン / 語り: ロバート・エヴァンズ

『ローズマリーの赤ちゃん』『ある愛の詩』『ゴッドファーザー』『チャイナタウン』などを手がけた映画プロデューサー、ロバート・エヴァンズがみずからの人生を振り返る自伝映画。エヴァンズがどんな人物か知らなかったのだけど、1960年代から70年代のアメリカ映画界を、時代の寵児になったプロデューサーの視点から駆け足で振り返る感じで、興味を持って見られた。

エヴァンズの昔の映像を見ると、眉目秀麗でスマートな容姿、やけに大きな眼鏡をかけて隣にはいつも美女を侍らせる……と、我々の想像する自信満々の「やり手プロデューサー」そのままのような人物で、その本人がじきじきに「女優を操るのなどお手のものだ」「『ある愛の詩』ほど出生率を高めた映画はないだろう」などと不敵な台詞を吐いてくれるので嬉しい。

代表作で組んだ監督がロマン・ポランスキーとフランシス・フォード・コッポラと、いかにも波瀾万丈な人物なのを見ても、エヴァンズ本人の人生が無事に済むわけはなく、後半はこれまでの栄光と対照的な1980年代の凋落ぶりが語られる。このあたりは、エヴァンズの手がけた映画の適当な場面を切り貼りする手法で構成されていて、凝った趣向だとは思うものの、情報が少ないのを小手先でごまかされたような気もする。映画を作っているうちに本人の人生が映画のようになってしまった、という表現なのはわかるのだけれど。

ところで、エヴァンズの手がけたという作品のうち、『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』(1971年、ハル・アシュビー監督)はこれまで見る機会のなかった作品のひとつなので、どこかで特集でもやって放映してくれないだろうかと思う。

2004-10-19

◆『リバース・エッジ』

River's Edge (1986) / 監督: ティム・ハンター

アメリカの田舎町、川べりに横たわる女生徒の死体。これを発端にして、未来に希望を持てず、退屈な日々をドラッグの刺激でやり過ごす若者たちの群像が描かれる。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』やジョン・ヒューズの健全な青春映画が流行していた頃に、モラルの荒廃した若者の世界を描いているのは目新しかったのだろう。本編自体は、群像劇としてあまり意外な展開をしないのと、若者たちの人物造型が薄くてそれほど面白くない。あと、主人公格のひとりクリスピン・グローバーが終始ハイテンションな演技をしているのが浮いていて気になった。

川べりで発見される女生徒の死体、病んだ田舎町の住人たちの生活……という構想はそのままTVドラマ『ツイン・ピークス』に受け継がれている。監督のティム・ハンターも『ツイン・ピークス』本編の数話で演出を担当しているらしい。

同年公開のデヴィッド・リンチ監督『ブルーベルベット』とは、出演のデニス・ホッパーと撮影のフレデリック・エルムズが重なっている。デニス・ホッパーはどちらの作品でも、退屈な町の生活に悪徳と刺激をもたらす異人として登場しているのが面白い。この作品では、かつてバイク乗りとして鳴らしたものの怪我をしていまはドラッグの売人をしているという、本人のイメージそのままのような設定になっていた。

同じ題名の付いている岡崎京子の漫画『リバーズ・エッジ』を読んだとき、映画の群像劇みたいな描き方だと思ったのだけど、この映画『リバース・エッジ』や『ツイン・ピークス』をもとにしているとすると納得できる。あと、退屈で出口のない田舎町を舞台にしているという点で、阿部和重の『シンセミア』もこれに近いか。


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