中二階日誌: 2004年9月下旬

2004-09-21

■[book]セルバンテス『ドン・キホーテ 前篇』

ドン・キホーテ〈前篇1〉El ingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha (1605) / 牛島信明訳 / 岩波文庫 / 1巻 [amazon] [bk1] / 2巻 [amazon] [bk1] / 3巻 [amazon] [bk1]

いまさら17世紀の古典に目を通すのもどうかと半信半疑で取り出しながらも、読み始めると面白いのでどんどん読み進んでしまう。さすが何世紀も読み継がれてきた小説はすごい。本編がはじまる前の序文からして、すでに「困ったな、冒頭を飾る洒落た引用が思い浮かばない」「適当にでっちあげれば誰もわかりゃしないだろ」みたいな人を食った漫才調で、そういうパロディ調の会話の冴え、「物語」に突っ込みを入れていく展開が、いま読んでも新鮮に感じられる場面はいくつもある。

同時に、古典を読むというのはそういうものだろうけど、自分のいままで楽しんできた数々の物語の原型がここにあることを確認できる。例えば妄想タフガイ小説『俺はレッド・ダイアモンド』からギャグ漫画『かってに改蔵』まで(範囲が狭いか)、『ドン・キホーテ』の構造を変奏したフィクションは数限りなく見つかるだろう。

しかしながら古い小説とはいえプロットは相当いいかげんで、ひとつの旅館に離れ離れだった恋人や兄弟が次々と集まってくるあたりの無茶な偶然の重なりとか、作中作のメロドラマが延々と続いて本編にまったく絡んでこないところとか、たぶん行き当たりばったりで話の整合性なんてほとんど考慮していない(でも書物や物語がこの時代にどのように読まれていたか、という感じがある程度伝わってきて、それなりに面白味もあるけれど)。そのあと終盤に「聖堂参事会員」との騎士道物語をめぐる議論があり、これが『前篇』における一種のクライマックスになるのでだいぶ救われている感じがする。

2004-09-22

■[book]ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフのドン・キホーテ講義』

Lectures on Don Quixote (1983) / 行方昭夫・河島弘美訳 / 晶文社

『後篇』をオンライン書店に注文して間が空いたので、そのあいだにこの本を読んでみたら面白かった。ナボコフがハーバード大学でおこなった講義の原稿と、その下準備で書かれた前篇と後篇の各章についての要約メモから構成されている。(後篇の部分は、本編を未読なのでまだ目を通していない)

まず、ナボコフの『ドン・キホーテ』自体に対する評価は実のところそれほど高くない。講義の題材にした経緯も、自分から進んで選んだわけではなくて、大学側の要望で取り上げることになったものらしい。これは少々意外だった。というのは、ナボコフは代表作のひとつ『青白い炎』で、幻想の王国「ゼンブラ」の物語によって世界を読み替えようとする、それこそ「ドン・キホーテ」的な妄想に憑かれた主人公を描いているからだ。

ナボコフは例えば、セルバンテスを同時代のシェイクスピアと比較して次のように述べている。

セルバンテスとシェイクスピアが同等であるのは、影響、精神的な刺激の点のみである。私が言うのは、感受性豊かな後世の人たちの上に、書物自体から独立してひとり歩きするイメージが投げかける長い影のことである。けれども、シェイクスピアの劇はその影響がどうこうということがなくても、それ自体の魅力によって永遠に生き続けるであろう。(p.43-44)

つまり、『ドン・キホーテ』が後世にもたらした影響は偉大だけれど、その書物自体の出来は偉大な達成とはいえないということだろう。ナボコフの批判は、セルバンテスの筋立てが行き当たりばったりなのもさることながら、特に『ドン・キホーテ』で描かれる「笑い」が、狂人をもてあそぶ意地の悪い残酷さからなっていることを指摘する。

『ドン・キホーテ』前編後編を合わせると、実に残酷行為の百科全書が一冊出来上がる。その見地からすると、『ドン・キホーテ』はこれまでに書かれた中でももっともむごい、残忍な書物の一つである。(p.116)

かつて『ドン・キホーテ』の読者が一章読むたびに大笑いしたとは、現代の読者にはほとんど信じ難い。現代の読者は『ドン・キホーテ』のユーモアに残忍冷酷なものを見出すからである。(p.219)

たしかに「前篇」を読んだかぎりでは、「いじめ」の度が過ぎてさすがに笑えないと思える箇所も多かった。そもそもドン・キホーテの周りに人が集まってくるのは、みんな結局彼を嘲笑して楽しむためなので、これも読者としてはついていけないところがある。

ただし、ナボコフは公平な視点で『ドン・キホーテ』の素晴らしい部分はきちんと賞賛していて、その読み方も「神は細部に宿る」的な、細部の描写の美しさに注目したもので面白い。

次のくだりなどは、ナボコフの小説をそれほど読んでいなくても、いかにもナボコフならではの表現のように感じる。

庭園から近々と聞こえてくる、乙女アルティシドーラ(ころがるような"R"の音は「現実(reality)」の頭文字の"R"である)の声は、この時、物理的にも心理的にもドゥルシネーア・デル・トボーソ(貧弱(lean)な幻想(illusion)の"L"、弱々しく舌のもつれる"L"の音をいくつも伴っている)の幻像より生き生きしている。(p.148)

ナボコフの観点で"R"は現実(reality)、"L"は幻想(illusion)と結びつくというのが面白い。この本の「解題」を書いているガイ・ダヴェンポートは、『ロリータ』でハンバート・ハンバートが少女ロリータを求めるのは、幻想の姫君ドゥルシネーアに恋い焦がれるドン・キホーテの似姿ではないかと指摘している。そこに重ねて考えると、"L"の音が連なる「ロリータ(Lolita)」はまさに幻影(illusion)のなかにしか存在しない少女なのだろう。ちなみに、ロリータの本名「ドロレス・ヘイズ(Dolores Haze)」には、ナボコフによれば現実(reality)につながる"R"の音が入っている。

この講義に際してナボコフが『ドン・キホーテ』を読み直すことがなかったら、『ロリータ』や『青白い炎』は今あるのとは別の作品になっていたかもしれない、と想像してしまう。

それからもうひとつ、ドン・キホーテの物語内での「勝敗」の回数を勘定するという趣向も、チェス好きの人らしい独特の着眼点で面白い。

2004-09-24

■古川日出男『ボディ・アンド・ソウル』

双葉社 [amazon] [bk1]

作家フルカワヒデオの日常生活が語られる。東京の街を歩き回り、創作のアイディアを次々と思い浮かべ、各出版社の編集者と打ち合わせをする。

この本について何の予備知識もなく読み始めたので、まずこれはどういう種類の本なのか、エッセイなのか創作なのかと思案した。エッセイと見せかけてエッセイ風の小説(保坂和志みたいな)になるのだろうと予想するものの、作者はそういう読み方をされるのを充分承知しているようで、なかなか尻尾を見せない。どういう種類の本なのかを隠し続けるゲームのようだ。

書かれている内容自体は大したことでもなさそうで、余技の範疇という感じだけれど、乗っている作家の書くものはこういうのでも結構面白く読めるということか。「フルカワさんは、ネタに困ることはありますか?」「ない」(p.271)という答弁まである。

冒頭の場面である映画の仕掛けを連想して、その後思い出さずに忘れていたのだけど、最後まで読むとある程度それが当たっていた気がする。

■法月綸太郎『二の悲劇』

ノン・ポシェット [amazon] [bk1]

1994年の作品。10年ぶりの長篇作品『生首に聞いてみろ』(角川書店)[amazon] [bk1]がそろそろ発売になるのだけど、よく考えたら前の長篇を読んでいなかったのでいまさら引っ張り出してきた。

前半は社会派的な枠組みで人物入れ替わりトリックをやるという宮部みゆきの『火車』みたいな感じで(同じロスマク派なので似通った印象になるのかもしれない)、後半は連城三紀彦の心理劇みたいになる。

探偵役の法月綸太郎を含めた主要な登場人物が全員20代後半あたりで、いまの自分とちょうど年齢が近い。学生時代の自分との距離感など、気分がわかると思いながら読んだ。

語りの構成からすると「二宮良明」は法月綸太郎(作中人物のほう)の鏡像として重ね合わされるのだろうかと思いながら読んでいたのだけど、結局そうはならなかった。

法月綸太郎(作中人物)は探偵小説を読みすぎて探偵の真似事をしていると揶揄される、なかばロジャー・シェリンガムのような存在なのだけど、バークリーの作品のように探偵と警察が対立するものとして扱われる展開にはならない。それは父親の法月警視という庇護者がいるためだ、と改めて思った。

2004-09-25

◆『ブロンコ・ビリー』

Bronco Billy (1980) / 監督・主演: クリント・イーストウッド

これは傑作じゃないだろうか。

まず冒頭から画面が絵画のように美しくて(撮影: デヴィッド・ワース)、ブロンコ・ビリーの赤い車などの色使い、夜の町のネオンサインなども素晴らしい。

クリント・イーストウッドの演じるブロンコ・ビリーは流しのウェスタンショーの座長、西部劇が終焉した時代にまだウェスタンのヒーローを演じる、時代錯誤で「ドン・キホーテ」的な人物だ。でも彼の見せる乗馬や射撃の芸は難しそうで、もしふさわしい時代に生まれていたら本当にウェスタンのヒーローになれたのかもしれないとも思わせる。これは当然、「遅れてきたヒーロー」であるイーストウッド自身とその映画作りに関する自己言及ということになる。

そこに流れ着いてくるのが富豪の生意気娘ソンドラ・ロックで、イーストウッドとの道中で反発しながら惹かれ合っていく。これはフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』の筋書きだ。そこでソンドラ・ロックはきちんとクラシック映画のような誇張された(リアルでない)演技をしていて嬉しい。(ただし『或る夜の出来事』的観点では、ソンドラ・ロックのキャラが後半に突然変わって素直になってしまうのが少し惜しいのだけれど)

ブロンコ・ビリーの一座に集まっているのはそれぞれの事情で社会からのはみ出し者となった人物で、そこにはティム・バートンの描いたエド・ウッド一座のような、ある種の悲哀と弱者に対する優しい眼差しがある。

こうした基本設定は特に目新しいものとはいえないけれど、イーストウッドの固有の存在感がこれらを特別な物語にしているし、起こるエピソードのひとつひとつに寓意を読み取れるようになっていて面白い。これまでに見たイーストウッド監督作では一番好きな作品だ。(主演作では『ダーティハリー』もあるので微妙だけれど)

2004-09-29

◇アトム・エゴヤン映画祭続報

アトム・エゴヤン映画祭2004公式サイトのコンテンツが整備されて、上映日程も発表になっていた。

Aプログラムの『ファミリー・ビューイング』(1987年の日本未公開作)がメインなのかと思っていたら、初日には上映しないのか。

しかし 『エキゾチカ』(少女の踊るナイトクラブをめぐる話)、『スウィート・ヒアアフター』(サラ・ポリー主演、スクールバスの事故で生き残った少女の話)、『フェリシアの旅』(家出した少女と連続殺人犯が出会う)と並べると、いかにも少女大好き作家みたいだ。

◇ヴィスコンティ映画祭

来月はヴィスコンティ映画祭というのもあるらしい(10月8日〜18日、有楽町朝日ホール)。

ヨーロッパ映画の貴族趣味は苦手なんだよね、という先入観があってこれまで全く作品を見ていないのだけど、作品ラインナップを眺めていると、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と『異邦人』を同じ監督が映画化しているのは面白いなと思う。

2004-09-30

◇ドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』が映画化?

ドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』が映画化されるんじゃないかという話があるらしい。すごく懐かしい題名でなんだか嬉しい。というかシリーズ第4作の翻訳はどうなっているんだろうか。

□原りょうの新作『愚か者死すべし』

懐かしいついでに、原りょうの新作『愚か者死すべし』が11月に出る予定だとか。正直なところ、このシリーズは第2作の『私が殺した少女』が突出した傑作で、前作『さらば長き眠り』(1995年)は文章を味わう程度の楽しみになっていたけれど。


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