中二階日誌: 2004年8月下旬

2004-08-22

■[book]町山智浩・柳下毅一郎『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判 2』

ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判 2 洋泉社 [amazon] [bk1]

『映画秘宝』連載の映画放談コラム集、第二弾。読んでみたら実は半分くらい雑誌で目を通したことのある記事だった。巡り合わせが悪かったのか、前回の『ファイト・クラブ』みたいに褒めている作品もほとんどなく、この時期(2002年〜2004年)のハリウッド娯楽映画は大した収穫がなかったのかな、という気もする。

時系列で続けて読んでいくと、最初『キル・ビル』を盛り上げようとしていた町山氏が、相方に突っ込まれて「いや、傑作だなんて一言も言ってないじゃん」みたいな歯切れの悪い論調になっていくのが読める。

スパイダーマンの発射する糸は精液のメタファーだ、と指摘しているのはさすが。(というか、僕も薄々感じていたのだけど品がないので書くのを避けていた)

巻末に他誌の昔のベストテンに突っ込みを入れる(意地悪な)企画があって、そこにいつ頃集計したものか知らないけれど、『映画秘宝』のオールタイム・ベストテンというのも載っている。1位の『ファントム・オブ・パラダイス』はいいとして、2位に『まぼろしの市街戦』が入っているのは、『秘宝』でそんなに評価の高い作品だったのかと意外だった。(『燃えよドラゴン』よりも上位とは!)

◇『映画秘宝』2004年10月号

M・ナイト・シャマランの新作『ヴィレッジ』特集を拾い読みしてみたら、シャマランのパクリ疑惑に対して中原昌也が擁護のコラムを書いていた。割とまっとうな文章で同感。それにしてもこれだけ色々と言われると、早く見ておきたいなあ。

2004-08-23

◆[movie]『愛が微笑む時』

Heart and Souls (1993) / 監督: ロン・アンダーウッド

出てくる人物がみんな善人、というフランク・キャプラ風の人情もの。こういう良くできたアメリカン・ファンタジーは基本的に好き。(途中でアメリカ国歌を歌う場面もある)

構成にやや難があって、現在の成人した主人公(ロバート・ダウニーJr.)が出てきて一度目のバスが来るところまでは「設定の説明」になるのだけれど、そこに結構時間をかけてしまっている(子役の演技を長々と見せたりして、内容の切れもいまひとつ)。そこを過ぎて話が動き出してからは快調そのものなので、ちょっと惜しい。

四人の幽霊に乗り移られるという設定で、ロバート・ダウニーJr.の芸達者ぶりが発揮されている。

2004-08-24

■[book]デヴィッド・ブレスキン『インナーヴューズ―映画作家は語る』

柳下毅一郎訳 / 大栄出版 [amazon] [bk1]

アメリカ(+カナダ)の映画監督のインタビュー集。対象は、フランシス・フォード・コッポラ、デヴィッド・リンチ、オリヴァー・ストーン、ティム・バートン、デヴィッド・クローネンバーグ、スパイク・リー、そしてロバート・アルトマンの7人。1970年代が絶頂期だろうコッポラとアルトマンを除くと、1980年代に台頭してきた印象のある監督たちだ。(インタビュー時期は1990年代前半)

もともとの媒体が映画専門誌でないせいか、作品よりも監督の人間性に迫ろうとするような内容が多くて、また会話の流れをあまり刈り込んでいないようなので(受け答えの細部にも人間性が表れる、という解釈なのだろう)、全体的にはちょっと散漫に見えたりする。アメリカのインタビューというのはこういうものなのだろうか、インタビュアーが作品を批判して当の映画監督がそれに反論する、という展開がいくつかあって珍しかった。(クローネンバーグの『裸のランチ』、スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』がそんな感じ)

上に挙げた顔ぶれのなかで、発言を読んでいて一番面白かったのがクローネンバーグだった。この人は読書家でもあるようで、つねに自分の考えを理詰めで言葉にしているのだろう。「カメラが落ち着かない映画はたいてい監督自身が不安だからそうなるのだ」「『素晴らしき哉、人生!』はまったく邪悪な映画だよ」など、格好良い発言が次々と飛び出してくる。クローネンバーグの映画は何となくきっかけがなくてほとんど未見なのだけれど、観ておいたほうがいいかと思った。

それ以外では、ティム・バートンがサイレント映画は好きなのかと訊かれて、古臭いから特に好きではない、言葉で物事を伝えるのが不得手なので結果的に似てくるのではないか、と答えていたのが面白かった。確かにティム・バートンの映画って、俳優が大仰な身振りをするのでサイレント映画的に見えることがある。

2004-08-26

◆[movie]『カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家』

Casa de los babys (2003) / 監督・脚本: ジョン・セイルズ

アメリカの良心、ジョン・セイルズ監督の新作。さほど良い評判を聞かなかったのでつい後回しにしていたけれど、きちんと愉しめて考えさせる、ジョン・セイルズらしい誠実な秀作だった。

ジョン・セイルズの作風は1984年の作品『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』を観るとわかりやすい。その特徴をいくつか挙げると、

  • アメリカ社会の裏側を独自の視点で描く。
  • 民族や文化背景の違いを越えて意思が通じ合う可能性を示す。

というところになる。この作品でも、赤ちゃんが「輸出産業」になっている中南米の架空の国(実際にはメキシコで撮影されている)とそこを訪れて養子をもらおうとする裕福な米国人女性たちを描いて、周辺国から見たアメリカとの経済格差などの問題を浮き彫りにしている。また、お互い言葉の通じない者同士(メイドのヴァネッサ・マルティネスと、米国人女性のひとりスーザン・リンチ)が意思を通じ合えるかどうか、という場面が作品のひとつの焦点になる。

ある人物や社会の断面を描いて、その過去や未来は観客に想像させる、という筋さばきは相変わらず冴えている。今回は複数人物のエピソードが並行して進み、互いに交わらないけれどもテーマ的には共鳴し合う、ということをやっているのも面白い。

ただこの作品は、女性のグループを中心にして話が進むので、それぞれの登場人物の紹介は本人が席を外しているときに語られることが多い(つまり、当人が画面に出てこないで、会話のみによって紹介される)。このあたりは映画作家というよりは小説家の発想なんじゃないか、などと思ったりもする。

メキシコで撮影されていることから連想したのだけれど、麻薬問題を題材にしたソダーバーグ監督の『トラフィック』も、中南米から合衆国への「輸出」機構を描いていた。セイルズは自分の得意とする「社会派群像劇」のジャンルでソダーバーグが評判を取ったことに刺激を受けたのかもしれない。(ついでに、カメラを妙に揺らしてドキュメンタリー風にする趣向も『トラフィック』と似ている)

2004-08-27

□『SFマガジン』2004年10月号: ジーン・ウルフ特集

いま突然ジーン・ウルフ特集をやるのって、仮に『ミステリマガジン』で置き換えるなら誰を特集するくらい「ありえない」ことなんだろうか、などと思いながら目を通す。力の入った特集で読みごたえがあった。

メインの中篇「アメリカの七夜」はたいへん面白かった。『ケルベロス第五の首』の姉妹編のような趣向の作品で、正直言ってこれを読んではじめてジーン・ウルフの魅力がわかってきた気がする。

たしかに無駄な記述が一行もなく、どの文章も意図をもって書かれていると仮定して読むと、テキストの示唆する裏の意味を読み込んで非常にスリリングな読書体験ができる。(そして、その読み方は必然的にハードなミステリ小説を読むやりかたに似てくる)

他にも感心した点があるのだけれど、それは項を改めて書くことにする。

座談会「『ケルベロス第五の首』」に謎はない」(大森望、柳下毅一郎、宮脇孝雄)では、次のくだりが印象的だった。

大森: 本格ミステリでお約束のように手記が出てくる場合、だれがいつどうして書いたのかって問題をわりとなおざりにしがちなんだけど……

宮脇: この長さは時間的に無理だろう、とかね(笑)

大森: ウルフはそこにめちゃくちゃ気を使っていますよね。

いま読んでいるテキストを「誰がいつどうして」書いたのか、という点がつねに考慮されて読解の手がかりにもなる。それはジーン・ウルフの小説の面白さなのだろうけれど、同時にその手法はSFの枠組みに向いていたのだろうか、という疑問も湧いてくる。少なくとも『ケルベロス第五の首』では、別の惑星を舞台にしている設定にもかかわらず「テキストの成立」にだけは厳密なリアリズムが適用される、というところにいくらか違和感をおぼえた(星間旅行をしているのに紙と鉛筆かよ、みたいなテクノロジーの不均衡もあるけれど)。ただし、近未来の地球を舞台にしている「アメリカの七つの夜」ではそのあたりはほとんど気にならない。

ところで、ミステリ分野の作品でこの種の厳密さを考慮した作品といえば、夢野久作の「瓶詰地獄」(→青空文庫)が思い浮かぶ。中条省平氏による精密な読解を読んでいるからかもしれないけれど。

□「アメリカの七夜」とゴシック小説の新次元

「アメリカの七夜」について補足。

『ケルベロス第五の首』を読んだとき、これはゴシック小説の書法に似ていると思った。いや、正確にはゴシック小説と呼ぶのが適切なのかどうかよく知らないのだけれど、「誰かの手記」を介在させた入れ子形式で怪異を語る、怪異が本当に存在するのかどうかは客観的に裏付けられない、という趣向の小説のことだ。僕の読んでいる範囲では例えば、ジェラルド・カーシュ(『壜の中の手記』)やパトリック・マグラア(『血のささやき、水のつぶやき』)の短篇でよくこの手法が使われていたのが印象的だった。他にもいろいろあるだろう。

これらの入れ子形式の小説は、文明国の人間が辺境の地を旅して怪異を体験する、という形式で語られることが多い。文明の届かないアジアやアフリカの奥地なので読者はその様子を手記を通してしか知ることができない、というわけだ。これは一種のパターンだからある程度仕方ないのだけれど、極東の片隅に住む者としては、欧米人が勝手に植民地体験を夢想していい気なもんだよな、と感じてしまうところもある。

「アメリカの七夜」も、文明国の人間が辺境の地を旅した体験が入れ子形式で語られる小説だ。ただしこの世界では、イスラムの青年が文明の崩壊したアメリカを旅することになる。お決まりの「文明国」と「辺境」とは立場が逆転しているので、先に書いたような嫌味を感じなくて済む。(思えば『ケルベロス』の舞台設定もアメリカを思わせるところがあった)

これはたぶんSFの枠組みを使わなければ実現できないことだし、もちろん世界史を紐解けば、かつてローマ帝国が崩壊してイスラム世界が文明の先進地域になっていた時代もあった、という歴史的な裏づけも一応ある。非常によく考えられた設定だと思った。

2004-08-29

■[book]チャールズ・ウィルフォード『炎に消えた名画』

The Burnt Orange Heresy (1972) / 浜野アキオ訳 / 扶桑社ミステリー [amazon] [bk1]

チャールズ・ウィルフォードの代表作といわれる作品が遂に訳された、ということでさっそく読む。

気鋭の美術批評家が幻の現代画家を取材する仕事を請け負い、そこで犯罪に手を染めていく……という話。ナボコフの『青白い炎』みたいな芸術家と批評家の関係がねじれていく話を、美術の世界に移し替えて、メタフィクション形式でなく普通のスリラーとして描いたらこんなふうになるかもしれない。

主人公である美術批評家の高慢で嫌味な語りが素晴らしい(美術批評家ならこんな人もいそう、と思ってしまう)。とりわけ美術界における批評家の役割について、批評家が蒐集家に何を集めるべきかを教え、それによって芸術家の生計が成り立つ、などと語りはじめるところは面白く、その批評家としての自意識の肥大ぶりが後の展開にも絡んでくる。

パルプ犯罪小説と見せかけてマニアックな趣向を盛り込んでいるところが意外で面白い、という面はあると思うけれども、先が読めなくて充分愉しめる作品だった。

2004-08-31

◆[movie]『グッバイ、レーニン!』

Good bye, Lenin! (2003) / 監督: ヴォルフガング・ベッカー

封切り時に見逃していて、飯田橋ギンレイホールにかかっていたのを鑑賞した。

エミール・クストリッツァ監督の傑作『アンダーグラウンド』では「昔、ひとつの国があった」というメッセージが語られたけれど、その言葉を今はなき東ドイツに適用したような映画。

東西ドイツ統一を正面から映画の題材にしようとしているのは面白いし、それを政治の枠組みというよりも普通の家族の人情話としてまとめあげているところにも感心する。ただし、全体的に話の運びがいまひとつで、主人公のナレーションで語られる箇所が多すぎるのと、シチュエーション・コメディの段階に行くまでの前振りが長いのが気になった。

この映画のハイライトは疑いなく、母親がはじめて外に出て統一後の街の様子を目にする場面だ。ここは実在しうる道具立てだけを使ってSF的な「世界の転回」を表現できる、というこの舞台設定ならではの試みが実現されていて、素晴らしい緊迫感がある。全編がこんな感じだったらすごい傑作になったかもしれない。

主人公たちのやる「情報統制」は旧東側諸国の体制の戯画でもあるのだろうけど、そこから外れる場面が一番面白いというのは、映画の力点として適切だったのだろうか。要するに主人公の青年は狂言回しにしかなっていなくて、本来の主役は母親ということだった気がしてくる。


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