中二階日誌: 2004年8月中旬

2004-08-11

◆『オアシス』

Oasis (2002) / 監督: イ・チャンドン

こういう映画を好きかというと僕自身は迷うところもあるけれど、隅々まで演出の意図を感じられて気迫の伝わってくる力作。

健常者と身体障害者の恋愛を描いているということで、「裏『ジョゼと虎と魚たち』」みたいな作品を期待していて、それは一応当たっていた。『ジョゼ』を観たとき、障害者との恋愛とはいってもどうせ美男美女の綺麗な話だからなあ、と思えて物足りなかった憶えがある。ではそこからいっさいの美化を剥ぎ取り、まったく「美男・美女」でない登場人物たちの織りなす恋愛劇を我々は楽しめるだろうか、とこの映画は問いかける。

物語の途中、主人公は道路で映画を撮影している集団と擦れ違い、近づこうとするものの追い払われる。華やかな映画には決して顔を出さないような人物をこの映画では描くということだろう。

刑務所帰りで皆から爪弾きにされている駄目男が不思議娘に出会って恋をするという筋書きは、ヴィンセント・ギャロの『バッファロー'66』と共通する。『バッファロー'66』の筋書きにラース・フォン・トリアーの露悪趣味を加えて、さらにケン・ローチのような社会の底辺に向ける真摯な眼差しで撮ったとしたら、こんな感じになるのかもしれない。

隅々まで演出の意図を感じられるといえば、例えばオープニングの場面、カメラは延々とひとつの光景を映しつづけて、見ているほうはちょっと退屈に感じる。そのときは何が映っているのかわからないのだけれど、書いてしまうと後の場面でヒロインの部屋にかかった壁掛けなのだとわかる(それが題名「オアシス」の由来になる)。つまり冒頭の場面はおそらくヒロインの視点で、動けなくて窮屈だった(かもしれない)のはヒロインの気持ちでもあったのだろう。

この趣向はラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が、冒頭の数分間、暗闇を映し続けたことを思い出させる。手持ちカメラ風の撮影と、過酷な現実の中に不意に美しい夢想が入り混じるという構成も通じるところがある。

ちなみに、イ・チャンドン監督の前作『ペパーミント・キャンディー』は第53回(2000年)カンヌ国際映画祭に出品されている(「監督週間」部門)。その年のパルムドールを受賞したのは他ならぬ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だった。

という話はともかく、主人公たちを含めて登場する人物のなかに社会正義を代弁するような人物が誰一人おらず、みんな自分の都合で行動する人物ばかり、という構図がきちんと組み立てられていて素晴らしい(正確には二度登場する「牧師」が社会正義の立場に近いのだけれど、徹底して無力な役回りを振られている)。この手のものにありがちな、主人公たちを聖人扱いすることもしていない。

俳優の演技も迫力があり、特に脳性麻痺のヒロインを演じるムン・ソリは何か後遺症が残るんじゃないかと心配してしまうくらいの熱演。何なんだこの人たちの熱さは、という感じ。

m@stervisionで気合いの入った紹介文を読める。

2004-08-15

○nDiary再導入

先日書いたように、Movable Type の方式はどうも慣れなくて書き込みづらい気がしてきたので、以前の nDiary に戻してみることにしました。Movable Type の記事にコメントやトラックバックをいただいたかたには恐縮ですけれども。

やはり元のテキストを手元に持ってローカルで生成する方式のほうが落ち着く、という気がする。

現時点ではまだ完了していないけれど、先月以降の記事はこちらに流し込むつもりです。

■ジョイス・キャロル・オーツ『生ける屍』

Zombie (1995) / 井伊順彦訳 / 扶桑社ミステリー [amazon] [bk1]

この本は、こちらの読書メモによる、

ケッチャム『隣の家の少女』、ファウルズ『コレクター』と並んで拉致監禁虐待殺人小説に新たな金字塔が打ち立てられてしまった(……)!

という煽り文句が秀逸で、それは大変だと慌てて読んでしまった。我ながらこれに釣られるのもいかがなものかと思うけれど。

いわゆるシリアル・キラーの一人称小説で、語られる時間が連続していなくて客観性を欠いているところは、最近読んだマーティン・ベッドフォードの『復讐×復習』も似た感じの語り口だった。

その先入観があったせいか、殺人犯が警察に捕まって書いているのかと思っていたらそうでもないようなので、誰が誰に語っているのかという点が宙吊りになるのが気になった。『復讐×復習』とか『キラー・オン・ザ・ロード』みたいな獄中手記の設定なら座りが良いのだけれど。

その点を除くと、語り手に暗い過去や社会からの疎外感を背負っているところが微塵もなく、ただ快楽を求めて犯行を行う無邪気(?)な感じが、サイコキラーの一人称小説としてたしかに風変わりで興味深かった。挿絵の使い方も面白い。

実在の連続殺人犯、ジェフリー・ダーマーをモデルにした小説らしい。

◇『キングダム』オリジナル版

先月WOWOWで再放送されていたラース・フォン・トリアー監督のTVドラマ『キングダム』をまとめて見る。さすがに面白かった。

病院を舞台にした群像劇ホラーで、人物Aの意図が人物Bを動かし、人物Bの行為が人物Cを動かす……というような複数人物の玉突き的な交錯がきちんと描けているし、毎回屋上で「デンマーク人は屑だ!」と叫ぶヘルマー医師をはじめ、ろくでもない変人ばかりが次々と登場するブラック・コメディ風味も楽しい。

トリアー監督らしい揺れる手持ちカメラによる褪色した映像は、ドキュメンタリー的な演出でリアリティを担保するというよりは、近代的なはずの大病院を薄暗いゴシック・ホラーの世界へと変えるために使われている。

実は内容よりも今回はじめて見て驚いたのが、毎回エンディングにラース・フォン・トリアー本人が蝶ネクタイ姿で登場して、「さあ皆さん、今回の『キングダム』はいかがでしたか」などと愛想良く語りはじめることだった。

2004-08-16

□[comic]二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(1-9巻)

講談社 [amazon] [bk1]

小説や映画はともかく、漫画は普段ろくに情報を仕入れていないので、話題になったものを後追いで読む程度になってしまう。そんなわけでいまさら読んでみたら、評判通り面白かった。

同じく「芸の道」漫画ということでかの名作『ガラスの仮面』を引き合いに出すなら、のだめは北島マヤ(天才肌の主人公)に相当し、千秋は姫川亜弓(良家の俊才)と速水真澄(主人公の恋愛対象にして後援者)を兼ねている、ということになるだろうか。

この主人公たちの人物配置からもわかるように、登場人物たちがそれぞれ張り合って勝負するのではなくて、お互いの考えを理解して尊重し合うことが到達点になる、というのが話の基本にあるので読んでいて心地良い。メインキャラの千秋が多人数のオーケストラを束ねる「指揮者」の立場である、ということでそれが効果的になっていると思う。

考えてみると、他人を生かす「演出家」の立場でありつつ、裏方でなく舞台に立つ「演者」でもある職業って、指揮者以外にはあまり思いつかない。うまい着眼点じゃないかと思った。

2004-08-17

◇新聞が作り出すヒーロー

映画『スパイダーマン』『スパイダーマン2』の世界にレトロな心地良さが漂っている一因として、作品中でマスメディアとして主に描かれるのがTVではなくあくまで新聞である、ということが挙げられると思う。

これは何かを連想させると思っていたのだけれど、Cafe OPAL の『スパイダーマン2』評で『ヒーロー/靴をなくした天使』(1992年)の題名が挙がっていて、納得するところがあった。『ヒーロー/靴をなくした天使』は明らかにフランク・キャプラ監督の『群衆』(1941年)を語り直した映画で、その『群衆』は新聞記者のでっちあげた架空の人物が人々に希望をもたらしてしまうという、「新聞がヒーローを作り出す」話だったからだ。

調べてみると、『スパイダーマン2』の脚本にクレジットされているアルヴィン・サージェントと、『スパイダーマン』からプロデューサーを務めているローラ・ジスキンは、どちらも『ヒーロー/靴をなくした天使』の脚本(原案)や製作に関わっているらしい。『スパイダーマン』のシリーズはアメコミの古典の映画化というだけでなく、平凡な人物が成り行きでヒーローに祭り上げられてしまってどうするか、というフランク・キャプラ作品のパターン(例: 『スミス都へ行く』)を受け継いだ作品でもあるのかもしれない。

◇『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』映画化?

ついでに IMDb をうろついていたら、『スパイダーマン2』の脚本に参加していた小説家マイケル・シェイボンのピューリッツァー受賞作『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』が、自身の脚本で映画化される予定らしいことを知った。監督は『リトル・ダンサー』『めぐりあう時間たち』が評判になったスティーヴン・ダルドリーとのことなので、結構力の入った企画なのだろうか。

2004-08-18

◆『柔らかい殻』

The Reflecting Skin (1990) / 監督: フィリップ・リドリー

何て厭な話なんだ……。冒頭のエピソードがいきなり「カエル風船」で、もうそこからは不吉のオンパレード、物事がじわじわと悪い方向にしか進まない感じがたまらない。ニール・ジョーダン監督の『ブッチャー・ボーイ』とともに、「こんな少年時代は嫌だ」ランキングの上位に入ることは必至だろう。

他人の死や男女の性など、大人には見える事情が子供の主人公にはまだよくわからない。そこで物語に二重の解釈が生じる、というのは少年時代ものによくある定番の展開だけれど、その認識のずれをことごとく陰惨な方向へねじまげていくとこうなる、という感じか。

映像面では絵画のような田園風景を精巧に撮っていて良いのだけれど、たまにかかる音楽がひどく大仰で白けることも多かった(たぶんBGMを全部抜いたほうがいい映画になるのではないか)。映像と音楽の質にこのくらい落差のある映画を見るのも珍しい。なので微妙な評価になるけれども、作品の志向としては面白かった。

監督・脚本のフィリップ・リドリーは児童文学も書く英国の作家らしい。この映画を見るかぎりでは「トラウマ児童文学」を量産しているとしか思えないのだけど大丈夫なんだろうか。

2004-08-20

◆『フレイルティー 妄執』

Frailty (2001) / 監督: ビル・パクストン

『アンブレイカブル』の亜流という感じだけれど、なかなかおかしな話で悪くない。「電波スリラー」というべきだろうか。

一家の父親がある日突然「俺は神のお告げで悪魔を成敗するんだ」と言い出して私刑を実行していく……という狂った話が、現在の視点から回想形式で語られる。

この回想の部分は、どうみても「電波妄想」な話が重苦しいシリアスドラマのように演出される、というM・ナイト・シャマラン風の手法が採られていて、それなりに面白く見られる。(『アンブレイカブル』を子供の視点から別の撮り方をしたらこんな感じかもしれない、とも思う)

ただ、全体がマシュー・マコノヒーの演じる明らかに怪しい人物の語る回想をそのまま映像化して見せる、という『ユージュアル・サスペクツ』的な構成なので、いまひとつ興味を削がれる。思えば映像作品でこういう「信用できない語り手」をすえて成功した作品というのはほとんど見たことがない気がする。ある人物の語る内容をそのまま文章で再現するのと、客観的に映像化するのとでは意味が違うということだろう。

それにしても、自ら監督までしながら嬉々として「電波父さん」を演じるビル・パクストンは相当な好き者と見た。


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