▼ Book Review 2000.5

『密閉教室』 法月綸太郎
『死んだふり』 ダン・ゴードン
『美濃牛』 殊能将之
『内なる殺人者』 ジム・トンプスン
『ミステリーズ』 山口雅也
『MOUSE』 牧野修

※(ごく主観的な)評価は★5段階。

『密閉教室』   ★★★★
法月綸太郎(講談社文庫/1988)

 大神は僕のことを「探偵志願の馬鹿」と呼んだ。探偵小説ごときに現実を追いつめる力などないと言った。中町圭介は紙の上の登場人物ではないと言った。
 僕の答えはこうだ。
 傍観するのではなく、巻き込まれること。この謎を解き明かすことは僕自身の責任を全うすることなのだ。この目ですべてを見届けよう。
(p.253)

■処女長編にして早くも、中期/後期のエラリイ・クイーン(特に『十日間の不思議』とか)的な「探偵の虚構性」の袋小路で悩みまくっている自虐的な青春ミステリ。この人の煩悶ぶりがいちばん良い方向に出た作品ではないか、と思う。
■主人公を探偵小説マニア(チャンドラー好きなのはお約束)で自意識過剰な高校生に設定し、ほろ苦い青春物語の味わいを加えたことで、このメタ・ミステリ風の物語は単なる滑稽なパロディにも鬱陶しい独善的告発にもなりきらず、読者を少なからず巻き込むような切実さを保ちえている。探偵小説なんてしょせん現実逃避じゃん、などというのはきっと作者自身が実際に問われたことなのだろうと思う。たぶん誰かすでに指摘していそうな気がするけれども、クイーンの『十日間の不思議』で探偵をこけにする登場人物は「神」になぞらえられ、この小説で「大人」の立場を代表して主人公の幼稚さを指弾しつづける教師の名は「大神」となっている。
■二転三転する終盤の展開には、同じように探偵の敗北を描いた古典作品『トレント最後の事件』を思い出した。複数人のばらばらの意図が交錯した結果、探偵小説的な謎(「密室殺人」とか)ができあがってしまった、というような構図(ただし『トレント』みたいなあざやかさはないと思うけれど)。そのなかで探偵は狂言回しの役回りに終始して呆然とするばかり。こういう結末のつけかたは『虚無への供物』にも通じるだろう、たぶん。
■あとはもうひとり、ヤクザの息子・犬塚博を「勘違いな黒幕」に設定したのが、物語のバランスを保つのにひと役かっている。で、それらに対してある意味で物語の軸となるのが、死者である中町圭介の一貫した「不在」。主人公の工藤は結局、この人に対していろんな意味で敗北感を味わうことになる。「本当の言葉を喋れる幸福な人間だった」(p.96)と嫉妬めいた気分で回想されるこの同級生を、作者は誰のことを念頭に置きながら描いたのだろうか。
■文庫版解説の新保博久いわく「作家には一作ごとにわが身を切り刻んでほしい」というメッセージはとても良くわかるし実のところほぼ同感なのだけれども、まあ酷といえばひじょうに酷な要求ではありましょうね。
(2000.5.28)

『死んだふり』   ★★★★
ダン・ゴードン(池田真紀子訳/新潮文庫)
Just Play Dead/Dan Gordon(1998)

チャドは仰天した。そのとき彼の頭に浮かんだのは、

(A) 僕は頭の中で考えているだけのつもりなのに、なぜかそのまま口に出してしゃべっていた、あるいは
(B) この爺さんは僕の心が読める。

いずれにしろ、チャドは糞をもらしそうだった。
(p.163)

■ハワイを舞台にした異色のクライム・コメディ。灼熱の陽射しと青い空のもと、饒舌で猥雑、そして人を食った語り口が冴えまくる。ちなみに、新潮社の紹介文はさすがに良くまとまってると思う。HMM7月号の新刊評で川出正樹さんも指摘しているけれど、あえて言うならカール・ハイアセンあたりに近いだろうか。熱帯つながりだし。
■いちおうの本筋は三人の男女の錯綜した騙し合い。抜け目ない曲者の富豪ジャック・ウルフ、その妻で男を蕩かす(ちょっぴり年増の)官能的な美女ノーラ、その年若い愛人でふたりの間を振りまわされるおつむ弱めの青年チャドと、どの人物もなかなか愉快かつお間抜けに描けている。そしてひときわ独特なのが、その三つ巴に関わりそうで関わらない奇妙な立場から語り手を務めるユダヤ人警官の、やたらうさんくさい叙述。伝聞としか思えない場面をまるで観てきたかのように(しかも何の断りもなく)平然と語りつづけ、民族ネタ(なにせユダヤ人だし)や下ネタをとめどなくぶちまけ、さらに気まぐれな回想をいきなり挿入して時系列をかきまわす。しまいには父親と母親のなれそめや、中東戦争の思い出話(なにせユダヤ人だし)まで語りはじめ……まさにやりたい放題の「信用できない」恣意的な語り手。なんじゃこいつは。
■そんなアナーキーでカオス的な書法の果てに、わりと意外な(というか半ばやけくそ気味の)どんでん返しが待つ。このふざけた語り口にも意外に知的なオチがひとまずついて(でもやっぱり変だ)、たいへん満足。まあ、読者をある程度選ぶだろうとは思うけれども。
(2000.5.27)

『美濃牛』   ★★★
殊能将之(講談社ノベルス/2000)

横溝の『獄門島』には『草枕』の影響がある、というのが、陣一郎のひそかな発見だった。金田一耕助が床屋で頭を刈ってもらう場面がそうだ。(中略)故瀬戸川猛資ばりの奇説かもしれないが、陣一郎はこの説にかなりの自信を持っていた……。(p.57,58)

■前作『ハサミ男』を評して笠井潔は、新聞記事のスクラップを思わせる、などと指摘していた(たしか「鳩よ!」誌上)のだけれども、著者自身も「むしろサンプリングと呼んでほしい」(パラフレーズ)だとかその批評を半ば認めるような言及を返している。この『美濃牛』は良くも悪くも、作者のそういう「切り貼り」的な手法をあからさまに感じさせる作品だった。各章の冒頭にいちいち文献の引用が入るのは、そのまんま確信犯の「切り貼り」なのだろうし。
■ギリシャのミノタウロス伝説と、どうでもよさげな「美濃牛」とをむりやり貼り合わせた題名に象徴されているけれども、今回の「切り貼り」の主眼は、何らかの意味で対照的とされる既成の要素を強引にでもくっつけてみる、といった意外性にあるように思えた。和と洋とか、伝統と現代とか、幻想と現実とか、そういった相反する(と通常考えられる)ものをわざと表裏一体に結びつけること。だから俳句は洋楽の歌詞のパクリだったり、田舎の郷土史家はインターネットで研究成果を発信していたり、結構どろどろした犯行の原因はおもに〈バブル崩壊と相続税〉のせいだったりする。脱構築的というか脱力系。見立て殺人の元ネタのはずのわらべ唄は、村の誰も知らないし。思えば『ハサミ男』も、いろんなものが逆さまになっていく皮肉な物語展開だった。
■世間の評判はいまひとつのようだけれども、僕は『ハサミ男』にさして感心しなかったくちなので過度の期待は抱いておらず、まあこんなものじゃないのかなという感想。のほほんとした独特のリズムの文章は才能といっていいのだろうけど。ただ、小説における視点の扱いかたに前作ほどの配慮とか意識を感じられなかったのは少し残念。
(2000.5.27)

『内なる殺人者』   ★★★★
ジム・トンプスン(村田勝彦訳/河出文庫)
The Killer Inside Me/Jim Thompson(1952)

「おれたちはな、おかしな世界に住んでるんだ。妙ちきりんな文明社会にな。そこじゃ警官は悪党役を演じ、悪党は警官の務めを果たしてる。政治家は説教師で、説教師は政治家なんだ」(p.139)

■「安酒場のドストエフスキー」ことジム・トンプスンの代表作。おそらくその異名にもっともふさわしい内実の作品ではないかと思う。
■物語の筋はのちの傑作『ポップ1280』(1964)とだいたい似た路線で、田舎町の保安官がなりゆきから次々と人殺しを重ねていく。『ポップ』の主人公ニック・コーリーは愚鈍とみせかけて実は狡猾で悪辣なやつだったけれど、こちらの保安官補ルー・フォードも善良で穏和な人格の裏に、凶暴で破滅的な衝動を抱えている。いわば二重人格のような矛盾した精神。そのルー・フォードによる歪んだ一人称語りはかなり奇妙で、筋が通っているようで通っておらず、そもそも行動原理のどこまでが本人の意志でどこまでが彼の「内なる殺人者」(もちろんそれも彼自身には違いないのだろうが)のせいなのかも、読んでいてはっきりとわからない。それゆえの混沌とした熱病めいた力を、この小説の文章はかもしだしている。
■ちなみにルー・フォードの心のもちようはニックと異なり、みずからの内なる怪物を自覚してつねにそれを危惧している、ように思える。ジェイムズ・エルロイ流に言えば「自分が自分であることを怖れる」男だろうか。その孤独には深い悲哀さえも漂う。
■しかしいくらなんでも犯行が行き当たりばったすぎて、そりゃばれるわな、とかつい思ってしまったりする。そのあたりを場の勢いでむりやり押し切ってしまう『ポップ1280』の奔放なお気楽さのほうが、僕はどちらかといえば好き。
■保安官が悪いことをしまくるのは西部劇(=アメリカ的神話?)への皮肉の意図を込めているのだろうと思うけれども、まあそこらへんはよく知らないので突っ込みません。
■なんにせよ、この年代にこれだけの物語を描ききっているのは、やっぱり凄いとしかいいようがないだろう。もちろん『サイコ』よりも先。そういえば、助走なしでいきなり勃発する唐突な暴力には、映画『サイコ』のモノクロ映像をちょっと思い出した。ノーマン・ベイツの人物像なんかへの影響はどうなのだろうか?
(2000.5.20)

『ミステリーズ』   ★★★
山口雅也(講談社文庫/1994)

「人の心の中が、探偵小説のように簡単に解ってたまるか。……いい加減な因果論で茫洋とした霧のような不安の正体を掴めるのか? 冥海の淵のような恐怖をどうやって白日の下に晒せるというのだ? そいつらに、原因も結果もない。ただ、そこに存在するだけなんだよ!」(p.43/HC)

■メタフィクション風にミステリーの手法や枠組みを問いなおしながら、新たなアプローチをも模索する実験的短編集。少なくとも、探偵小説の既成のネタを湯水のように浪費しつくす「解決ドミノ倒し」と、究極のメタフィクション推理「不在のお茶会」はとりあえず純粋な意味で読む価値はあるし愉しめる。ひねくれ度と確信犯的な底意の見えなさは、アントニー・バークリーを思わせるかんじ。(なんてのはいまさら言うことじゃないけれど、作者も明らかに意識してるんだからしょうがない)
■ひとつめの「密室症候群」は密室と(ミステリにおける)精神分析、次の「禍なるかな、いま笑う死者よ」は笑いとミステリの構造の対比、とどちらも興味深くて多分に建設的な論点を提示しているのだけど、読み物としては意外と退屈だったりするのは惜しいところ。
■どの作品もやりくちが洗練されていて、この種のものにありがちな無残なパロディもどきに堕していないのは、充分賞賛に値すると思う。まあ、教養あるしなあ。
(2000.5.13)

『MOUSE』   ★★★
牧野修(ハヤカワ文庫JA/1996)

「作り出された幻想は現実と区別できない。もともと夢と現実なんて、 論理的には区別できないものなんだから」(p.299)

■ドラッグと幻覚に覆い尽くされた世紀末的な子供の楽園「ネバーランド」を舞台にしたSF連作集。いわれるほど「特異な言語感覚」に目を見張りはしなかったけれど、筋書きだけみるとわりに凡庸とも思える話をあえてこの設定にぶちこんで、物語世界の特異さを際立たせているのがなかなか巧い。「少年/少女」の憎めない理解しがたさを、うまいこと活かした描きかた。
■最近作の『スイート・リトル・ベイビー』と共通する物語要素は、

・「モンスター」としての子供
・「感覚」への懐疑/「感覚」を支配される怖さ(と、美しさ)

といったところだろうか。加えて、

・設定の説明が結構くどい(というか、間が悪い)

のも妙に共通している。どうも話法とかへの意識がいまいち薄いようで、たとえばドラッグのなか現実と夢の区別がつかなくなるのはいいのだけど、ならばそれを統括的に語る三人称視点は一体どこにあるのか、というあたりが判然としない。そのぶれがせっかくの世界構築を弱めているような気がした。映像作品なら強引に持っていけるところかもしれないけど。
■精神戦で勝負の決まる戦闘場面は、なんだか「ジョジョの奇妙な冒険」を連想。
(2000.5.9)

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