▼ Notes 2000.5
5/23 【これぞほんとのブラック・ジョーク?】
■なぜかまだ「ポップ1275」の謎の続き。ぼんやり傍観していたら、成田さん(5/22) が「削除されたラスト2行で数が合う」説、おーかわさん(5/22)が「おれはひとりでふたり」説とかを開陳されていて、どちらも興味ぶかい。後者の説はいつだったか某所で話に出たような記憶もあり、まあこれがわりと無難な解釈なのかも。あと、黒人説にこだわりたいのなら、別に人口統計の数えかたと関係なく、仏版編集者がわざと「あの人」を死者数からかぞえ落として、「わりいわりい、見えなかったよ」なんていう政治的に正しくなさすぎるハイブロウ・ギャグをかましてる、とか? (もしほんとにそうだったら、さすがにわかりにくすぎだな……)
■まあ結局のところどれでも構わないとは思うんだけど、なんにせよ、こんなある意味しょうもないことでも話題にできるのは、そもそもの『ポップ1280』がほんとに傑作な小説だからでしょうね。


5/17 【消えた5人の謎】
■おお、成田さんの密室系(5/15)で、なんだか仏版「ポップ1275」の題名の謎が話題になってますね。で、杉江松恋さんの唱える「黒人はそもそも1280人に数えられてなかった」説は危険な香りで僕も好きなんですけれど、実は小説中にその説と相反する記述があったりします(しかし杉江さんもブラック好きですねえ)。ニック・コーリーが近くの郡の保安官ケン・レイシーのもとを訪問する場面で、助手のバックがのたまう台詞によれば――

「その千二百八十って数字には、黒ん坊(ニガー)の数が入ってるんだ。北部の野郎どもが作った法律のせいで、数に入れなきゃならなかったのでね。でも、ニガーに魂はない、でしょ、ケン?」(p.36)

なのだそうで。ちなみに『ポップ1280』じたいの態度はいちおう黒人差別に批判的、というかもうそんなのどうでも良くなってしまうくらい主人公がかっとんだ野郎なので、そのへんは適当に読み流しておいてください。個人的には、売春宿のヒモの片割れが南部の名家出身でポッツヴィルの住人ではなさそうだから頭数から抜いてみたのかなとか考えてみたのだけれど、でももう片方のほうもきっと流れ者だろうしなあ。結局、単なる数え間違いなのかもしれない。
■まあ「1280」というのはたしか道端の看板に記してある数だから、そもそもきっちり正確な数字のわけがないんだけど。……と、それを言っちゃあおしまいですか。


5/14 【チラベル観戦】
■フットボール(サッカー)のアルゼンチンリーグ「ベレス・サルスフィエルド×リーベルプレート」の試合を物好きにもTVで観てみたので、少しその感想でも。パラグアイ代表でおなじみの親分系カリスマGKホセ・ルイス・チラベル(最後のtは発音しないのが正しいらしい。ベレス所属)を久しぶりに見たかったのだけど、さすが名物的な濃厚キャラクターは健在。どフリーのシュートをなぜか外させてしまう威圧感、最後尾から敵陣ペナルティエリアまで届く異常なキック力。そして例によってフリーキックも4本ほど撃ち(落ちるシュートだけでなく、壁を巻いて右に曲がるキックも披露)、入りはしなかったけどどれも惜しいシュートだった。もちろんキックを蹴ったあとは慌てて自陣へ駆け戻ってくれる。しかもべレスのホームということもあって、やたら強気のアピールで審判に少なくとも2度判定を変えさせていた。相手のPKをほかの選手が早くエリアに入ったからとやりなおさせ(でもあっさり決められたけど。タイミングをずらしたあざけるようなシュートで……)、FKを蹴るときは壁が早く動いたからとやりなおさせる(でも入らなかったけど)。なんというか、さすが南米。
■スコアは3-2でリーベルの勝利。チラベルは3点入れられてしまったわけだけどどれも防ぎようのないゴールで、まあ彼のせいではない(1点目は目の前で味方DFに当たってコースが変わり、2点目はPK、3点目はDFがそろって棒立ち)。全体的には、ダイブな転倒とか荒っぽいタックルが次々と応酬されて、いかにもアルゼンチンな雰囲気。どちらも個人技主体でいったい強いのか弱いのかよくわからなかったのだけど、リーベルの7番・FWサビオラのプレイは目立っていてかなりの技量の選手に思えた。オルテガとマイケル・オーウェンを合わせたようなドリブラーで、鋭い飛び出しもできるタイプという印象。国の代表には呼ばれているのかな。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_05.html#12
5/12 【超本格的批評】
■たまにはサイト紹介でも。

wad's

■書評&映画評。鋭くて芯の通った批評で、すごく刺激的。以前に検索でたまたま見つけたのだけど、もうすでに有名なところなのかもしれない。書評はどちらかといえばノンフィクションが主で(でも変に学術系だったりはしないから実際的な意味で参考になる)、フィクション系では現代米国ミステリが中心、とりわけリーガル・サスペンスには詳しいみたいで、リチャード・ノース・パタースンなんて未訳作品まで読み込んで高く評価している。リーガル物の権威ってあまりいないような気がするから、その意味でも貴重な存在じゃないだろうか。ちなみにパタースンは評判になった『罪の段階』を読んだときには、トゥローとグリシャムのいいとこどりをしてるみたいでさして個人的な印象は良くなかったのだけど(しかしあのお下品な真相には悪い意味で驚いたけど)、きちんと見直してみる必要があるかもしれない。
■どこを読んでもだいたい興味深いのだけど、たとえば『フロスト日和』評の切れ味なんて抜群だと思う。あと、パトリシア・コーンウェルの『スズメバチの巣』評になると、これはきっと本編を読むより断然おもしろいんじゃないだろうか、という気さえするくらい。
■こういうしっかりした批評に目を通してしまうと、未読なのにもうその本を読んだ気になって満足してしまったりするのが困ったところで、まあそれも書評のひとつの効用ではあるんだけど、やっぱりそういう態度だけじゃまずいのだろうな。
■ただし国産ミステリはまったく眼中にないみたいなので、翻訳ものを読まない人にはおもしろくないかもしれない。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_05.html#10
5/10 【ゲリラ性が薄れたってことかしら】
■今月の「ダ・ヴィンチ」6月号はバカ本特集だそうで。ミステリだけでなくバカSF/ホラーの特集もあるのが新しいところか。例によって立ち読みしたけど実は、この手の特集はそろそろちょっと飽き気味のような気もしないではなかったりする。わりと何度も似たような企画があったので、出てくる面子も言説もある程度決まってきてしまったし。まあ「ダ・ヴィンチ」なので仕方ないところもあるのだろうけど。
■ちなみに小山正さんの挙げているバカミス10選のなかで『妖異金瓶梅』は文句なくおもしろかったけれど、『倒錯のロンド』と『ロートレック荘事件』はあんまり感心しなかった記憶がある。後者は話題のたねにはいいかもしれないけど。あと、やたら騒がれているカーの超怪作(らしい)『魔女が笑う家』は未読。でもまあいいか、という気もする。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_05.html#08
5/8 【まだトラウマな話】
■別にそれほどひっぱりたい話題でもなかったのだけど、このあたりで以前(3/28, 4/15)のこちらの記述に反応があったみたい(と、明示はされてないけど)なので少しだけ続けてみる。直接リンクを張りにくいようなので、該当部分を引用。

 それと、あと気になるのが、「永遠の仔」や「白夜行」をさして、幼児虐待被体験者→犯罪者の構造が「短絡的」と批判している文章を、最近あちこちで目にするこ と。作者はけっして短絡的に両者を結びつけているわけではないと思うのだが。そう いう意見こそ、誰かによって誤導された短絡的な見方なのではないかという気がするなあ。もともとミステリというのはなんらかの犯罪を描く小説形態なのだから、幼児虐待の問題を真正面から取り上げようとすると、そういった図式が成立しがちということはある。それを指して「図式的すぎる」、「構造的すぎる」という批判は当然出てくるだろう。でも、それはそれぞれの読者の感覚の問題なのでは? もちろん、幼児虐待被体験者は長じてすべて犯罪者になるのだというような、本当に短絡的な思いこみのもとに創作されてる小説があったら、それこそ糾弾されてしかるべきだろう。 [2000.4.21]

■まあ、本の読みかたが人によって異なるのはあたりまえだし構わないのだけれど、他者の意見を「誰かによって誤導された短絡的な見方」なんてこきおろしてしまう態度には、あまり感心しないというのが正直なところ。……というのはさておき、最初にいちおう補足しておくと、僕は物語の登場人物の背景に「幼時の悲劇」とかを持ってくること自体を一概に否定しているつもりはない。何かほかにないもんかなあ、とは少し思わないでもないけど。
■で、『永遠の仔』とか『白夜行』におけるトラウマの扱いにどうも違和感をおぼえたのは、どちらの物語も「トラウマ」と「行動」とを論理的に対応させすぎているような気がしたから。トラウマなんてのは、もっと深層心理で無意識・発作的(あるいは非論理的)に影響を与えるものなのだろうから、あの扱いではちょっとトラウマ過大評価ではなかろうか、と思う。あれだと意識的な「復讐」とかとほとんど変わらなくなってしまうのでは。厳しい言いかたをするなら、物語の辻褄合わせのための都合のいい道具として「トラウマ→行動」の構図を持ち込んでいるような印象を免れなかった。(でもこういうのはもちろん個人の感覚しだいだろうから、気にならなかった人がいても別におかしいとは思わない。はじめからそう言っているつもりなんだけど)
■ついでにいえば、いま挙げた2作品についてはこの点よりも、『永遠の仔』では現在と過去の物語が結局ほとんどリンクしてないように思えることとか、『白夜行』ではヒロインをめぐる挿話がどれも凡庸すぎること、なんかのほうが実は読んでいて気になったところだった。そのあたりを差し引いたうえでも、どちらもそれなりに論ずるに値する小説だとは思うけれども。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note2000_05.html#07
5/7 【ボストン弁護士ファイル】
■米国の連続ドラマ「ザ・プラクティス」を観た。ご存じ「アリーMYラブ」の製作者デヴィッド・E・ケリーの手になる、こちらも弁護士もの。けれども上田哲夫さん(4/19)のおっしゃるとおり、「悪党パーカーとドートマンダーくらい違う」かなりシリアスでビターな路線で、お笑いの場面なんてひとつもない。
■今回の第22話はレイプ裁判を扱っていた。主人公側の弁護士は、被告である有名なラビを弁護する立場にあり、そのために被害者である女性の人格攻撃までしなければならない(ちなみに本国での放映時期を知らないので違うかもしれないけれど、この話はビル・クリントン大統領の例のスキャンダルを意識してるのじゃないかな?)。単純な善悪に還元できない、矛盾した立場。裁判の行方は最後まで読めないし緊迫感があるのだけれど、これはなにが正義でなにが真実なのか、登場人物にも観ているほうにもわからないから、なのだろうと思う。だから判決が下って裁判がいちおう終結したあとにも、事件は依然として「解決」したような気がしない。
■米国でいわゆる「リーガル・サスペンス」流行のきっかけとなったスコット・トゥローの『推定無罪』は、法廷は真実や正義をめざして運営されているわけではないしそこで決して事件は解決しない、というシニカルな(反ペリイ・メイスン的?)世界観を提示した小説だった。この「ザ・プラクティス」描くところの法廷も、それと同じような思想に貫かれていると思う。
■と偉そうなことを書いてみたものの、実はまだ1話ぶん観ただけ。FOXで火曜夜に放映しているようなので、これからは毎週チェックしておこうかと思う。(しかし週に一度くらいなら構わないけど、もしこれを何話も連続して観てしまったりしたら、かなり気が滅入りそう)
■いやまあ、「アリー」のお馬鹿な裁判も好きなんだけど。