▼ 2003.09



2003-09-11

吉田修一『パレード』(幻冬舎)

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★★★★

都内のマンションで成り行きから共同生活を送っている五人の男女の物語。五人の登場人物が順番に語り手を務めるリレー形式で語られるので、以前の語り手を他の人物の視点から見たり、同じ事物が複数の人物によって語られたり、といった群像劇風の(『パルプ・フィクション』的というか)面白味がある。

それとともに、相手の都合の悪そうなところは詮索せず、自分の社会的な立場や責任を離れたところで表面的に仲良くする、という感じの「薄い」人間関係を、否定も肯定もせずに丁寧に描いているのが興味深かった。作中ではその関係がインターネットの掲示板に喩えられていたけれど、たしかにわかる気もする。こういう責任のない関係を心地良いと感じる部分は自分のなかにもあると思う。

登場人物たちがそれぞれ、表面的な愛想良さの裏に何か病的な面を隠し持っている、という構図は良いのだけど(実際、「映画のレイプ場面のみを編集してつなげたビデオ」なんてアイテムは非常に面白い着想だと思う)、結末部で「連続通り魔事件」と主要人物をいきなり結びつけてしまうのは、話が作為的すぎてそれまでの話運びのバランスを壊しているように感じた。そこだけ普通のミステリになってしまうので、それならもうちょっと伏線を張って必然性のある結末にするか、でなければ事件とは直接ではなく薄いつながりを持つ程度にとどめておくかにしたほうが無難だったのではないだろうか。

2003-09-12

鹿島茂『悪女入門』(講談社現代新書)

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★★★

副題は「ファム・ファタル恋愛論」。バルザック、フロベール、ゾラなどフランス文学の古典作品を、「ファム・ファタル」類型の提示という視点から語り直す。この種の古典をファム・ファタルという観点で読み込んだ文章も、また「ファム・ファタル」を類型別に分析した論考も読んだことがなかったので興味深かった。こちらがフランス文学に疎いため、対象となる作品を全然読んでいないという問題はあるにしても。

紹介されている作品で一番すごそうだと思ったのがエミール・ゾラの『ナナ』で、これはヒロインの浪費癖がもはや宇宙的な領域に行き着いて、近づいてくる男を次々と破滅させるとともに、資本主義社会の矛盾をひとりで呑み込むブラックホールのような象徴的存在になってしまっている作品らしい。

ただ、元が「マリ・クレール」「FRaU」等の女性誌に掲載された文章のせいか、こうすれば貴女もファム・ファタルの駆け引きを身に付けられるかも、といった実用書的な書き方をしている部分に無理が出ていていくぶん引っ掛かる。もともと「ファム・ファタル」というのは男の幻想なのだから、女がそれに迎合してやらねばならない必要はまったくないので。

書き出しの文章がなかなか熱い。

ファム・ファタル(femme fatal)。なんと妖しげで美しい響きを持った言葉でしょうか。カタカナで書いてさえ繰り返される「ファ」の頭韻が耳に快く響きます。/ましてや、フランス語の f は下唇を上の歯で軽く噛む音ですので femme fatal と二度 f の音が繰り返されると、まるで、女性が性的エクスタシーに達する直前、その快楽をこらえるかのように唇を噛んでいるイメージが湧いてきます。……(p.9)

もう発音するだけで忘我の境地、『ロリータ』のハンバート・ハンバート状態といった感じ。(もちろん『ロリータ』もファム・ファタルものの代表的な作品のひとつで、この本でも少し言及がある)

2003-09-14

『サンシャイン・ステイト』

Sunshine State (2002)
★★★

ジョン・セイルズ監督の新作がDVDで出ていたのでさっそく視聴(日本では劇場未公開)。ジョン・セイルズは現時点での最高傑作と目される『希望の街』(1991)がもっと多くの人に見られる機会があれば、扱いも少しは変わるんじゃないかと思うのだけどな……現状ではいかんせん知名度が低い。あと1997年の作品"Men with Guns"が未紹介のまま残っているので、そのうちDVD化されると良いなと期待している。

フロリダのリゾート地を舞台にした群像劇で、リゾート再開発をめぐる建設会社と地元住民の対立、そして久しぶりに帰郷した女性が家族といかに和解していくか、というのが柱になっている。社会的な問題と個人の問題が並行して描かれて、「過去」と「現在」のつながりが対比される、いかにもジョン・セイルズ作品らしい筋書き。逆にいうとあまり新味はなかった。都会に出た女性が帰郷して自然のなかで自分を見つめ直す、というあたりは特に『パッション・フィッシュ』に近い。

ジョン・セイルズの映画では、登場する人物も土地も「現在」そこに点として存在するだけでなく、過去から未来へつながる時間の流れのなかに存在し、映画はその一時点を切り取っているにすぎないということが強く意識されている。旧知の人物同士が「再会」するという展開がよく用いられるのはそのためだろう。セイルズの監督第一作は学生運動の仲間の「同窓会」を描いた『セコーカス・セブン』だったし、初のメジャー製作作品『ベイビー・イッツ・ユー』は高校時代の恋愛と卒業後の彼らが疎遠になるところまでを描いていた。(そのせいか興行的に振るわなかったらしい)

『アレックス』

Irreversible (2002)
★★

ギャスパー・ノエ監督。原題は"reversible"の否定語なので、「取り返しがつかない」「巻き戻しがきかない」ということか。

モニカ・ベルッチ演じる女性(アレックス)への強姦事件を軸にした話。映画『メメント』みたいな感じで、先に未来の場面が示されて順々に過去へ遡っていく構成になっている。『メメント』ほど時間が細切れではなくて、数えていないけれど時間を戻るのは4,5回程度だったはず(なので、ものすごい奇異な構成というほどではない)。作為的なカメラワークが強調されていて、この時系列構成も映画の語り手が恣意的に仕掛けている、という感じが示されている。その点『メメント』よりも観やすかった。

やたら長回しの強姦場面は、まあそれを撮りたい映画なのだろうけど、それ以外の場面でも露悪的な描写が必要以上に続くだけで話の進まないところが多く、だんだん単調な演出に感じてくる。

「強姦」の犯人は実を言うとゲイの男性なので、レイプ場面は「男性による性暴力」というよりは単に「理不尽な暴力」として描かれているように思える。それが良いのか悪いのかはわからないけれど、この作品のたぶん看板だろう強姦場面が意外と「正視に耐え」てしまうのは、それがしょせん他人事の範囲を越えていないからかもしれない。

『アレックス』の映画的技法を具体的に分析している文章を見つけた。

問題のレイプ場面ではカメラ(と男性観客)の視点も強姦に加担する構造になっている、という指摘は、見直して確認しないと判断できないけれど鋭いかも。

2003-09-15

『リベリオン』

Equilibrium (2002)
★★

『1984年』や『華氏451度』のようなディストピア管理社会を舞台にしたSFアクション映画。公開期間が短くて見逃した作品なのだけど、一部で熱い評判を呼んでいるらしく気になっていたので、「新橋文化劇場」という劇場で再上映されていたのを鑑賞してみた。

書物や絵画を焼き払い、違反者を処罰する任務に就いてきた捜査官の主人公(クリスチャン・ベール)が徐々に、禁止されている「感情」に目覚めていく。

人々が感情を抱くことを禁止されている(薬物で抑制されている)社会という設定なんだけど、「この野郎、感情違反しやがって」とか、弾圧する側のほうが「感情的」に見える場面も結構あったりして、何か整合性が取れていない。この映画で「感情」とは何を意味するのか定義されていないと思う。

主人公がやたら強くて『マトリックス』風の派手なアクションが繰り広げられるのだけど、『マトリックス』の何が面白いのかよくわからない身にはやはりぴんとこなかった。敵を順番に倒していくだけなので、『ファイナルファンタジー』などのRPGと変わらない単調な筋書きに見える。(ゲームならプレイヤーが操作できるから、筋書き自体は多少単調でも構わないのだけれど)

2003-09-16

デイヴィッド・クレイ『裁きを待つ女』(ヴィレッジブックス)

Bad Lawyer (2001)
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★★

法廷もの。こういうアメリカ産の娯楽小説を読むのは久しぶりのせいか、面白くなかった。まず事件自体が単なる場末の夫婦の殺し合いとか、薬物売買の上がりの奪い合いだとかなので興味を惹かれないし(なんでこの程度の事件が全米の注目を集めるという設定なのかよくわからない。人種問題のせい?)、魅力のある登場人物がひとりも出てこないので、誰かが殺されたりしても劇的な効果が上がらない。

弁護士が信頼のできない依頼人を弁護する羽目になったり、依頼人が弁護士を騙しにかかったりする、というバリエーションは連続ドラマ『ザ・プラクティス』なんかで結構目にしてきたので、この話に特に新鮮味があるとは思えなかった。むしろそれを60分にまとめて、サブプロットも並行させる『ザ・プラクティス』に較べると展開の切れが悪いなと感じる。

冒頭からところどころ、「あの時の俺は考えが甘かった……」式のフィルム・ノワール的な回顧語りの構造が入り込むので不審に思っていたら、最後でそれが必然だったことがわかる。

2003-09-17

ドナルド・E・ウェストレイク『鉤』(文春文庫)

The Hook (2000)
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★★★★

作品を書いても出版社に買い取ってもらえなくなった小説家のウェイン・プレンティスと、スランプに陥って作品を書けなくなったベストセラー作家のブライス・プロクターが出会う。『斧』に続いて、職を維持するために普通の人が殺人に手を染めるところを描いた犯罪サスペンス。

本の紹介にあるように、パトリシア・ハイスミスの小説を連想させる。『見知らぬ乗客』の「交換殺人」のような具体的アイディアもそうだし、「分身」テーマが作品を覆っているのもそうだ。この「分身」テーマはかなり意図的に張り巡らされていて、例えば作中で書かれる小説の題名は『鏡の中の二つの顔』『影の中の他人』など、いかにも「分身」を思わせるものだし、ウェインの最初の小説は『ポルックスの視点』という題名だったりする(「ポルックス」は双子座の星の名前で、ウェインが映画化脚本を構想して付けた題名は『ダブル・インパクト』)。ウェストレイク自身も例えば、一人の男が双子の兄弟を演じるコメディ作品『二役は大変!』を書いたことがあるし、何と言っても彼はリチャード・スターク、タッカー・コウ、カート・クラークなど、「二役」どころではない数々の別名義のペンネーム(7つくらい?)を使い分けて作品を発表してきた経歴の作家だ。

最後はちょっと落としどころに困った感じもあるけれど、久しぶりに「日常」と「犯罪」を隣り合わせに描いた、まっとうで先の読めない犯罪小説を読んだ気がする。フランシス・アイルズの系譜というか。面白かった。

訳者の木村二郎氏のウェブサイトにこの作品の記事が掲載されていた。

これによるとスティーヴン・キングも推薦文を寄せているそうで、それは「さもありなん」という感じ。

2003-09-21

『ロボコン』

ロボコン (2003)
★★★

「高専ロボコン」(アイデア対決・高等専門学校ロボットコンテスト)を題材にした青春映画。古厩智之監督・脚本。

なかば主演の長澤まさみ目当てで観に行ったわけだけど、彼女のような美少女アイドルを「普通の高専生」の役柄で使うことに何らかのエクスキューズを用意してほしかった気もする。最後まで、やたらスタイルの良いアイドルが企画でロボットの操縦をやらされている、という図への違和感(野球の始球式みたいな)が抜けなかった。まあ、ある程度客を呼ばないといけないので仕方ないんだろうけど。その点に目をつぶれば、チームのメンバーそれぞれの足りない部分と、物語を通じての成長を描く目配りが利いていて(この形式の元をたどると例えば『オズの魔法使い』になるだろうか)、青春/文化祭ものとして手堅い佳作。

実際の大会に出場したロボットを使い、俳優に操縦させて撮影したというロボコン場面は手作りの臨場感があって良い感じ。準決勝の逆転劇なんかは良い物を見せてもらったと思った。ただロボコンでは勝敗だけでなく見せ物としての達成も期待されているわけで、その意味でハイライトになると思われた決勝戦での「箱8個一気乗せ」の場面が省略されたのは少し気になる。

筋運びはいくつかぎこちない点もあって、例えば合宿中に海辺で「第一ロボット部」と喧嘩になる場面は唐突だしドラマ的にも必要性が薄い。須藤理彩の演じる保健の先生も登場のわりに劇中の役割がほとんどなかった。

現代の子供たちが温泉宿(主人公たち第二ロボット部の合宿地になる)で働かされて自分たちの目標を見つける……といえばちょっと『千と千尋の神隠し』を連想する。(ふてくされた少女の姿を映すところから話がはじまるのも同じ)

2003-09-22

三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館)

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★★★

柴田元幸の翻訳は村上春樹の作風を受け継いで、日本におけるアメリカ文学の窓口になってきたという話と、柴田元幸本人へのインタビュー(生い立ちから村上春樹との出会い、文学論まで)。翻訳者の柴田元幸の「作家性」を掘り下げようとしているのが変わっているかもしれない。

「○○と××は似ている」というような思いつきの考察が散漫に続くところもあるけれど、具体的な作品・作家論になっている部分では興味深い指摘もある。特にこの本の半分くらいを占める柴田元幸のインタビューでは、柴田元幸のざっくばらんな作家評を聞けて面白い。

「『熊を放つ』と『ウォーターメソッドマン』というのはじつはアーヴィング自身がなにをやっているかよくわかってないころですよね。『ガープの世界』が頂点で、そのあとはなんかディケンズの生まれ変わりだと自負しはじめたころから自己反復という感じがします」(p.168)

「要するに世の中苦労はあるけどなんとかうまくいくよねっていうのがO・ヘンリーの世界、世の中うまくいっているようで実はボロボロだねっていうのがチーヴァーだとすると、カーヴァーはだめだと思っていたらほんとうにだめだというのが前半で、後半は少なくとも救済があったかもしれない状況を思い描いてみましょうというところに行っていると思いますね」(p.190)

とか。ジョン・チーヴァーの描く郊外生活者の憂鬱と不安、例えば「泳ぐ人」はいまの学生にはわかりきっていて受けないという話が出ていて、それを原作とする映画『泳ぐひと』を最近観て結構面白かった僕は古いのかもと思ったりする。あと、

「いまのアメリカの主流になりつつあるマイノリティーの話で何が嫌かというと、語るものを持っていてそれを誠実に書けば小説になるはずだという前提が鼻につくことです。大事なことを誠実に書けば文学だというのはなにか違う気がするんですよね」(p.183)

というくだりには共感をおぼえた。

それにしても、村上春樹とポール・オースターの相似が指摘されるのはわかるけれども、ミルハウザーはそれほど村上春樹に似ていないだろうと思う。

柴田元幸は次男で、いつも先を行っていた兄がいるらしい。そういう人が「兄に憧れる凡庸な優等生の弟」という関係を基本構図に据えるイーサン・ケイニンの作品を評価するのはとてもよくわかる。

話題に出ている本で、読んでおこうと思った作品のメモ。

  • ブルーノ・シュルツ『肉桂色の店』『砂時計サナトリウム』
  • リチャード・ブローティガン『バビロンを夢見て』
  • 伊井直行『濁った激流にかかる橋』

2003-09-23

ジェフ・ニコルスン『美しい足に踏まれて』(扶桑社ミステリー)

Footsucker (1995)
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★★★★

女性の足にしか欲情しない、足フェチの男による一人称語り小説。遂に探し当てた最高の足を持つ女性、キャサリンとの出会いと別れの話と、足フェチの視点によるエッセイ的な文章が交互に語られる。この配合がなかなか適度で、主人公の足フェチ・エッセイがだんだんジャブのように効いてきて、世界を足フェチ視点で見ることを納得できるようになってしまう(「世界を別の視点で見る」というのはまさに小説的な体験だと思う)。主人公の批評する「シンデレラ」、中国の纏足、そして足フェチにとってたまらない映画の場面を集めたビデオを編集したらどうなるかを蕩々と語りはじめる箇所は最高。

版元からは「官能ミステリー」みたいなパッケージで売られているのが気になる。ニコルソン・ベイカーの『フェルマータ』、あるいはニック・ホーンビィの『ぼくのプレミア・ライフ』『ハイ・フィデリティ』なんかが好きな人は面白く読めるんじゃないかと思う。

佐藤哲也『異国伝』(河出書房新社)

佐藤哲也の新刊『異国伝』はどうも乗りきれなくて途中で挫折。この人はこういう短い断章形式よりも長篇のほうがリズムが出ていいんじゃないかと思う。似た形式のイタロ・カルヴィーノ『見えない都市』も実は乗れなかったので、単に僕が苦手なだけかもしれないけれど。

2003-09-24

『大地と自由』

Land and Freedom (1995)
★★★

ケン・ローチ監督。スペイン内戦の人民軍に身を投じた英国人の視点から、戦線の内情と理想の挫折を丁寧に描く。途中、土地の共有化をめぐるディスカッションが熱く繰り広げられたりして格好良い。ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読んでおくともっと面白いのかな。

2003-09-25

吉田修一『パーク・ライフ』(文芸春秋)

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★★★★

芥川賞受賞の表題作(2002年)と1999年の作品「flowers」のカップリング本。だいぶ発表時期が離れている。受賞を機に慌てて出版したものだろうか。一冊の本としてはあと2編ほど足してイーサン・ケイニンの『宮殿泥棒』みたいな分量になればちょうど良いと思うけれど、それぞれの作品は面白かった。

「パーク・ライフ」の主人公は、地下鉄で偶然出会った女と名前を知らないまま日比谷公園で付き合うようになり、自分の部屋よりもむしろ不在の友人のマンションで過ごすことを居心地良く感じる。それは「公園」や「友人のマンション」が、自分であることからふっと解放される息抜きの場所になるからだろう。『パレード』で描かれていた他人同士の共同生活もそういう性格を持っていた。この本のもうひとつの作品「flowers」でこれに対応するのが、主人公夫妻の習慣になる月に一度の高級ホテル宿泊だろうか。これらは図式的に言うと日常生活からの逃避なのかもしれないけど、吉田修一の小説ではそこにいかにも逃避らしい目的や高揚感のようなものはなく、単なる形骸化した習慣として描かれていたりするのが面白い。

自分であることの歴史や連続性を引き受けること、あるいはその窮屈さから解放されること。「パーク・ライフ」の女は「出身地」という自分の過去のつながりを明かすとさっと姿を消す。「flowers」ではそれが主人公の九州時代の職業だった墓石運び、あるいは相続していた先祖の土地といったかたちで表象される。そこから逃れる術がないと、人は例えば「flowers」で元同級生にこき使われ侮られ続ける「永井さん」のようになってしまうこともあるのかもしれない。

2003-09-26

「パーク・ライフ」に関するメモ
  • 名前のないサラリーマンの日常生活を描いているという点で、ニコルソン・ベイカーの『中二階』をところどころ思い出した。『中二階』も、昼休みに公園で一息つく話。
  • ところで、吉田修一の小説は何も起こらない日常の話だと評されることが多いようだけれど、ニコルソン・ベイカーの作品と較べれば「パーク・ライフ」は相当にドラマティックで起伏がある。
  • 公園を舞台にした小説といえば、津原泰水の傑作『ペニス』がある。吉田修一の描くような「誰もがひととき匿名になれる空間」として『ペニス』の「公園」を読み直してみても面白いかもしれない。

2003-09-27

『このミス』とマニア受け・一般受け

吉野仁氏の日記、9月22日9月25日で、最近の『このミステリーがすごい!』ではマニアックで一般受けしない作品ばかりが1位に挙がる、という話題への弁明が書かれている。

『神は銃弾』や『飛蝗の農場』といった題名が出ているので、おもに海外篇を念頭に置いた話らしい。

吉野氏は、

  • もともとマニアのお祭りなんだから一般受けしないのは仕方ない。
  • ランキングの1位から読もうとする馬鹿な読者なんて相手にしていられない。

というような意味のことを書いている。作品の評価には個人の嗜好も入ってしまうけれど、『神は銃弾』と『飛蝗の農場』に関して感想を言えば、単にたいして面白くない作品がたぶん一部で評判になって票を集めただけのことで、マニア向けだから一般読者に受けないということではないと思う。両作品ともたしか僅差で1位になった作品で、つまり誰もが認めるような抜きん出た作品のなかった年だったという事情もあるのだろうけど。

過去の『このミス』を思い返してみても、選んだのはマニアかもしれないけれど、結果として多くの読者に面白さのわかる作品が上位に選ばれることが多かったと思う。それにベストテンが組んであれば、10位の作品よりも1位の作品に興味を持つ人が多いのは当然だろう(単なる集計結果とはいえ、それは各投票者の「この本に注目してほしい」という思いの集積でもあるのだから)。そのためにこれまで、例えば『フリッカー、あるいは映画の魔』や『ポップ1280』みたいな面白い小説が読者を獲得してきたこともあったわけで。マニアが選んでいるから一般読者にはわからない、なんてのは格好悪い言い訳でしかないと思うけどなあ。

『このミス』で上位に入ったのをきっかけに読む人もいるんだから、せめてもっと面白い小説が挙がればいいのにと思うことが最近は多くなった。

ところで国内は国内で、ここ数年は『永遠の仔』『模倣犯』『半落ち』など、一般受けはしても僕には何が良いのかさっぱりわからないベストセラー小説が決まって上位に挙がるので、こちらも全然参考にならない。

2003-09-28

『座頭市』

座頭市 (2003)
★★

北野武監督版。近所の映画館でかかるようになったので観に行ってみたら、こんなにつまらない話なのか……とちょっとびっくり。斬り合いの背景は町の賭場の上がりをめぐる争いだとかでせこいだけで、魅力的な登場人物が誰ひとり出てこない。人物造形の退屈さを挙げていったらきりがないけれど、特に「女装の旅芸人」はよほど目が悪くないかぎり「女より綺麗」に見えないし、ガダルカナル・タカの「コメディ・リリーフ」場面は全然笑えなくて早く終わってくれとしか思えなかった(脚本を書いてるのは「漫才師」出身の北野武監督自身なんだけど)。

正月のTV番組、芸能人「隠し芸大会」だとかのミニドラマで「たけしが勝新の『座頭市』を!」とかやっていればいいような内容じゃないだろうか。

アニメは別として、日本から実写映画として海外へ輸出できる売りって「サムライ」「チャンバラ」とかのオリエンタリズム的な意匠しかないんでしょうかね? そんなことないと思いたいけど。

2003-09-30

パーシヴァル・ワイルド『探偵術教えます』(晶文社)

P. MORAN, Operative (1947)
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★★★★

通信講座で探偵術を習得したつもりの運転手、ピーター・モーランが実際の事件に巻き込まれて引き起こすどたばた喜劇を描いた「探偵ごっこ」ものの連作集。主人公のまったく悪びれない勘違い探偵ぶりが素晴らしく(解説の霞流一は落語の「与太郎」に喩えていて、まさにそんな感じ)、そういえば同じ作者の『悪党どものお楽しみ』の主人公も、毎度性懲りもなく博打ではめられて助けを求める「のび太君」みたいな人物だった。(『映画秘宝』のいわゆる)「ボンクラ」を主人公にするのが好きな作家なのだ。

「通信講座」の設定から要請される書簡形式の使い方も面白い。当時のアメリカ(しかもコネティカット州の片田舎)は郵便事情が良くないので、手紙が届くまでに何日もかかる。そのタイムラグに加えて、さらに語り手が抜け作のピーター・モーランなので要領を得なくてもどかしい、という伝達の二重の不自由さが小説的な演出として機能している。

主人公がいかにも「探偵」らしい傍観者の立場でなく、事件に巻き込まれたりその引き金になったりと「当事者」の役割を担っていることが多いのもよく考えられている。当然この話は探偵小説のパロディでもあって、例えば東野圭吾『名探偵の掟』あたりの感じにちょっと近いかもしれない。

最後の締めも洒落ていて、気分良く本を読み終えられた。

いくぶん惜しいと思うのが翻訳(訳者:巴妙子)で、この小説は語り手のピーター・モーランが無学な人物なのを反映して、文章にわざと誤字が混ぜてある(たぶん『アルジャーノンに花束を』もこんな感じなんだろうか)。それを日本語に移し替えるところがあまり自然な誤字ではない、ぎこちないものになっているのが気になった。まあ、誰もが納得できるように訳すのは難しい趣向の英文なのだろうとは思うけれど。

巻末の「F」氏(藤原氏?)の解説によると、作者パーシヴァル・ワイルドの長篇では法廷ものの『検屍裁判』(1939年)が代表作として評価の高い作品らしい。これはちょっと読んでみたい。

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