▼ 2003.07



2003-07-01

『シティ・オブ・ゴッド』

Cidade de Deus (2002)
★★★★

ブラジルの映画。IMDbを覗いてみたところ、現時点(2003-07-01)では平均得点が上位100位内に入っていてかなり好評の模様。

リオ・デ・ジャネイロのスラム街でのギャング抗争を、主人公(カメラマン志望の青年)の視点から年代記的に物語る。語り口が作為的なのがいささか気になる(語り手による時系列の操作が頻繁に行われる)のを除けば、登場人物それぞれにキャラが立っていて、組織抗争の力学なども適度に劇的な理解しやすい感じに整理されていて面白い。ただ、肝心なところで待ってましたとばかりにいわゆるMTV的なせわしなさを発揮しはじめるカメラワークがどうにも邪魔で、これがなくてきちんと銃撃やアクションの場面を撮ってくれたほうがずっと良かったはずなのに残念だなと思う。

映画の最後に「仕掛け」というほどでもないけれどちょっとした「趣向」が用意されていて、これはたしかに効果を上げていると思った。

2003-07-02

『アバウト・シュミット』

About Schmidt (2002)
★★★

『プレッジ』(2001)に続く、ジャック・ニコルソンの「定年退職」もの。このまま劇中で「定年退職」になり続けてギネスブックに挑むのも格好良いかもしれない。

老境を迎えた男が(現実から目を逸らしながら)日常と折り合いをつけていくところをいくぶんコミカルに描いた作品という意味で、カズオ・イシグロの傑作『日の名残り』を思い出す。『日の名残り』をアキ・カウリスマキみたいなテイストで描くとこんな感じになるだろうか。

まあこんな映画なのかな、と事前に予想していた範囲からはほとんど外れず、丁寧に撮られていて良くできているとは思うけれど何となく突き抜けるところがない感じ。

『ブロンドと棺の謎』

The Cat's Meow (2001)
★★

『市民ケーン』のモデルと言われる「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストの船上パーティーで起きた怪死事件を描いた時代もの。ハーストの愛人(カースティン・ダンスト)をチャールズ・チャプリン(あまり似ていない)が追いまわす。

積極的にこの題材を選んだというよりは、予算が苦しいので室内で撮れる船上ものにしました、という感じが見えてちょっとつらかった。役者の格や群像劇としての興趣は例えばアルトマンの『ゴスフォード・パーク』などとは較べるべくもないし(時代ものなのに当時の文化や空気を映像的に表現するような視点がないのは物足りない)、例えば『鳩の翼』みたいにひたすら流麗な画面構築で押しまくるわけでもない。

カースティン・ダンストは動いているときは良いけれど、目つきがきついので「止め絵」の魅力には乏しいと思う。ただ声は良いのでそこが売りなのか。ハースト役の俳優はどことなくデヴィッド・リンチに似ているような……というのはともかく、この人はたしかTVドラマ『ザ・プラクティス』で見たときのほうがずっと良かった。

2003-07-05

『テープ』

Tape (2001)
★★

リチャード・リンクレイター監督作品。これは専門用語では何と呼ぶんだろうか、「ワンシーン・ワンカット」とは言わないのかもしれないけど、劇中で時間が途切れずに進行し、観客の体験する時間と作中の時間経過が一致するという形式。ヒッチコックの有名な『ロープ』と似たような趣向だと思われる(そういえば題名の「テープ」も「ロープ」と似ている)。登場人物は三人、舞台はモーテルの一室のみ。

おそらくこの形式が先にあって物語の中身はどうでも良いという映画で、イーサン・ホーク演じる大人になれない駄目男が高校時代の親友と恋人を呼んで昔の失恋話をねちねちと掘り返すという、さっぱり興味をそそらない展開が延々と続く。まあ、正直「学生映画」としか思えない内容だった。

2003-07-12

ジュリアン・シモンズ『ブラッディ・マーダー』(新潮社)

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Bloody Murder (1972)
★★★

英国の高名なミステリ評論家/作家のジュリアン・シモンズが古今のミステリ小説を論じる評論本。副題は「探偵小説から犯罪小説への歴史」。1972年の発表後に何度も加筆が重ねられているようで、この邦訳は1992年の増補版までを取り込んだ「統合版」らしい。(新しいところではアンドリュー・ヴァクスやジェイムズ・エルロイへの言及がある。どちらも散々の評価)

ジュリアン・シモンズは自分の好き嫌いを包み隠さずに文章を書く人のようで、気に入らない作品には遠慮せずに痛烈な批判を書く。たぶん時評の書き手としては面白いのだろうけど、ある程度客観的な記述を求められる歴史書や読書案内を書くには本来向いていない人のような気がする。まあ、いまとなってはこの本自体がミステリの歴史の一部のようなものなので、おもに歴史的な興味で読むことになった。素直に読むと、筋金入りのミステリ・マニアが一生に一度は書いてみたくなる熱い「ミステリ通史」という感じで、それなりに面白く読めた(でも4800円も出すのは微妙なところか)。

いま読むと、ハワード・ヘイクラフトの『娯楽としての殺人』への対抗色を出しすぎている(なにしろ題名からして「娯楽としての殺人」に対する「血まみれの殺人」)ふしがあるのは気にならないでもない。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものを賞賛して、例えばヘイクラフトの褒めている『トレント最後の事件』に懐疑を呈しているのは、ヘイクラフトの探偵小説史への反発という意味合いが強いように見える。(ただ、この本を読んだかぎりだとシモンズは、いわゆるアンチ・ミステリ的な作品に対して辛い点を付ける傾向があるので、『トレント最後の事件』はその流れにあるかもしれない)

「探偵小説」と「犯罪小説」を分けて論じているのがこの本の独特の論法。「探偵小説」は謎解きに特化したパズル小説、「犯罪小説」は謎解きよりも人物描写や社会批判に興味の力点を置いている小説ということらしい(アントニイ・バークリーの有名な『第二の銃声』序文の延長上にある考え方のようにも読める)。「探偵小説」の開祖はエドガー・アラン・ポーだとして、「犯罪小説」の草分けといえるのがウィリアム・ゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)だと指摘する。その際に『ケイレブ・ウィリアムズ』の「社会批判」に注目しているのが興味深い。「探偵小説」は既成の社会秩序を追認するが「犯罪小説」はそうでなくむしろ社会秩序を批判する。現在の視点から見て「探偵小説/犯罪小説」の分類自体にはさほど意義があるとはいえない(シモンズ自身の論議を補強するための恣意的な分類という印象を免れない)にしても、この視点は充分に有効なものだと思う。第二次世界大戦の後には旧来型の「探偵小説」を書くのが難しくなった、という視点とも呼応する。

「探偵小説」の時代は終焉を迎え、これからは「犯罪小説」の時代になるという、いわゆる「シモンズ史観」に関して言えば(この邦訳では改訂版のせいかそれほど強調されている感じはしなかったのだけど)、彼が英国の知識人であることを考慮する必要があると思う。英国ミステリ通として知られる宮脇孝雄は、「黄金期」の終焉と第二次世界大戦の後しばらく、英国のミステリは何も新しいものを産み出せなかった、海の向こうの米国では1950年代に少なくとも『死の接吻』と『狙った獣』が書かれていたのに、という意味のことを書いていたけれど、シモンズも米国から流入してくる「犯罪小説」を賞賛しながらそれと似たような問題意識を抱えていたのではないだろうか。

といった概論や歴史観の話よりは、個々の作品評・作家評を愉しむべきものだろう。実際、作品をけなしている場合は「すごいけなし方だ」と思える独創性や重みがあることも多いし、褒めている作品評はたしかに読んでみたくなる熱烈さがある。

「犯罪小説」として賞賛されて目を惹いた作家は、ダシール・ハメット(特に『ガラスの鍵』は「二十世紀における犯罪小説作法の頂点」と絶賛されている)、パトリシア・ハイスミス、ロス・マクドナルド、マーガレット・ミラー(『まるで天使のような』を絶賛)など。レイモンド・チャンドラーよりもハメットを重要視しているのは、いまとなっては妥当な判断に見える。

2003-07-13

『エデンより彼方に』

Far from Heaven (2002)
★★★★

トッド・ヘインズ監督。ジュリアン・ムーア演じる富裕層の主婦の視点で、1950年代の「理想の家庭」の崩壊を描く。1950年代のメロドラマ映画で知られるダグラス・サークの作品世界を精巧に再現しているらしい。その元ネタを知らないなりに面白かった。構図や色彩など細部まで丁寧に1950年代の郊外住宅地の風景を再現している画面構築に感心するし(例えば「主婦たち」の着る服の配色がいつも妙に揃っているのが興味深い)、そして精巧に再現すればするほど、そこにはデヴィッド・リンチ監督の『ブルー・ベルベット』に表現されたような「一歩踏み外せば底知れぬ闇」という危うい白々しさが生まれてくる。

eiga.com のトッド・ヘインズ監督インタビューを読むと、あえて社会的な制約の強かった過去の時代を舞台に選ぶことで、密度のあるドラマを作ることが出来る、というような意味の発言を監督自身がしていて、あまり付け加えることがない。まあ、たとえ筋書きがたいしたことなくても「いや、だって1950年代だから」と開き直れてしまうので、何か騙されたような気もしなくはないけれど、最後まで退屈せずに観られた作品なのはたしか。

同じ監督インタビューで、主演のジュリアン・ムーアの演技を絶賛しているのが目を惹いた。

「しかし彼女は凄い。『めぐりあう時間たち』のジュリアンは70年代以降のアメリカ映画の演技、つまりアクターズ・スタジオのメソッドによる内面表現をしている。心理や人格を表情やセリフ回しで明示する方法だ。ところが『エデン〜』のジュリアンはメソッド以前の演技作法、様式的な表現や抑えたセリフ回しで内面を暗示している。彼女はほとんど同じキャラクターを正反対の手法で演じたわけ。たいした才能だよ」

『めぐりあう時間たち』は未見だけど、比較してみると面白いのかな。

近頃やけに活動の目立つスティーヴン・ソダーバーグ&ジョージ・クルーニーのコンビが製作に絡んでいる(製作総指揮)。

2003-07-18

サラ・ウォーターズ『半身』(創元推理文庫)

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Affinity (1999)
★★★

英国の初紹介作家の、ヴィクトリア朝の監獄と心霊術を題材にした作品。評判の作品のようだけれどいまひとつその凄味がわからないまま終わった。

序盤で「牢獄もの」の常道といえる着地点の見当がついてしまい、後は遅々として進まない筋書きをもどかしく思いながらそれを確認するだけの作業になる。たぶん本来はそういう読み方でなく、ヴィクトリア朝時代の「異界」をめぐる耽美的な描写や雰囲気を堪能すべき小説なのだろうけれど。

また、物語を構成する「主人公の日記」のあいだにもうひとりの重要人物の日記(こちらは少し過去の時制)が差し挟まれる、という作為的なテキスト構造に何らかの物語的な必然性が用意されていることを期待して読んでいたのだけれど、特に意味はないようだった。

「監獄」と「霊媒」というふたつの「異界との境界」を描いていて、さらに主観的な「手記」を媒介するという構造をとっているので、読者は間接的にしか「異界」に接近できないことになる(また、退屈で窮屈な日常に倦んで「異界」に憧れる主人公の立場は読者の意識と重なるだろう)。これはいわゆるゴシック小説の定型に則っているとはいえそう。

2003-07-20

グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(ハヤカワ文庫SF)

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Reasons to be Cheerful and Other Stories (2003)
★★★★

『祈りの海』に続く日本独自選集の短篇集第二弾。さすがに興味深い作品が多かった。一部で、読者を試しているかのようなハードな描写が展開されて(「ボーダー・ガード」前半の「量子論サッカー」など)そこは別についていかなくても構わないだろうと感じてしまうところもあるけれど。

個別の作品で特に面白かったのは、冒頭の「適切な愛」と末尾の「しあわせの理由」。どちらも話の前提がシンプルで、自分がその立場だったらどうなるかと考えさせるシミュレーション性が高い。「適切な愛」は、これを巻頭に置くのか!という、読者の耐性を試すような挑発的な内容。正直なところ読んでいて気持ち悪くなってしまったけれどこれは作品に力のある証だろう。

明らかにミステリ小説の形式を踏まえているのが「愛撫」と「チェルノブイリの聖母」で、後者は特に小像を探す話だから『マルタの鷹』のフォーマットを念頭に置いているはず。ただしどちらの作品もとびぬけた面白さはないと思う。

「道徳的ウイルス学者」は、ちょっと『博士の異常な愛情』みたいな悪ふざけ作品。今回収録の作品は結構こういうブラックな調子の話が多い。

表題作「しあわせの理由」は、以前『20世紀SF』の1990年代編に収録されているのを読んだときにはさほど感心しなかった記憶があるのだけれど、今回改めて読み直してみたらなぜかとても素直に感銘を受けた。以前の長篇『宇宙消失』などにも盛り込まれていた、人工的な感情操作を受け容れたとき個人のアイデンティティはどうなるのか、というイーガン的な主題を真正面から追究した話で、物語と科学的背景の無理のない融合、考え得る問題を順々に適切なタイミングで提示していく周到な構成、そして読者が充分に「この主人公は自分だ」と感じられるようになってからさりげなく主人公に名前を与えるという心憎い演出に至るまで、実に申し分のない作品。我々はこの主人公と比較して、本当に「自分の選択」で好きなものを(そして恋人も?)選べているのだろうか、ということまで考えさせられる。注文をつける余地があるとすれば、話の運びに隙がなさすぎて『宇宙消失』のような無茶な「暴走」感を味わえないことくらいか。収録作を個別に採点するとしたらこれだけは★★★★★の出来。ちなみにこの作品はよく『アルジャーノンに花束を』を引き合いに出されるけれど、クラシック音楽と人工的な感情操作を結びつけているところから『時計じかけのオレンジ』の影も想起させる。

作品ごとに文章のタッチをがらりと変えている山岸真の翻訳も丁寧で信頼が置ける。

2003-07-24

若島正『乱視読者の英米短篇講義』(研究社)

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★★★★

若島正による英米作家の短篇小説ガイド。雑誌『英語青年』の連載をまとめたものらしい。

「英米短篇講義」といっても、ひとつの短篇を微に入り細にわたって詳細に分析したり、あるいは文学史の教科書のように英米の重要な作家を体系的に紹介するわけではない。取り上げられるのはあくまで若島氏にとって気にかかる作家たちで、その作家の作品そのものだけでなく、連想する他の作家・作品を次々と挙げる(ことでその作家の魅力を伝える)ところに多くの筆が割かれる。例えばトルーマン・カポーティの話題かと思ったら、いつのまにかロバート・R・マキャモンの『少年時代』(傑作!)を熱く語っていたりするので油断がならない。

若島氏はそうした連想を小説の「回路」という言葉で表現している。

いったんひそかな本の回路が作られると、その回路はひとりでにさまざまな事実を呼び寄せていくものである。(p.65)

ひとつの物語が知らないうちにまた別の物語を呼び寄せる、その個人的な秘密の回路に導かれて、わたしは小説を読んでいるし、書いているような気がする。(中略)おそらくはこうした回路が形成されていくのが、小説を読むという経験の意味なのだろう、とわたしは信じている。(p.211-212)

僕もここである創作物について書くとき、個人的に連想した他の作品の題名をたぶん必要以上に書き記しているのだけれど、それはこのような「回路」を見出すことに魅力を感じているからだと思う。そして、その「回路」はもちろん個人的な体験なのだけれど、ときには他人を巻き込む力を生み出すこともあるかもしれないということを信じているからだと。

論じられているのは未読の作品ばかりなのだけど、興味深く読める記事が多くてどの作品も読みたくなる。なかでもこれは読んでおかないといけないかなと思ったのは、トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』『夜の樹』、ミュリエル・スパーク「我が人生最初の年」、ジェイムズ・ジョイス『若き芸術家の肖像』あたり。他にもいろいろあるけれど。

記事単体でたぶんいちばん完成度の高いのは、『ライ麦畑でつかまえて』の饒舌文体(の裏に語り手の気づかない恐ろしい真実が隠されている)の先達としてリング・ラードナーを論じた「リング・ラードナーについてお話させていただきます」だろう。これは記事全体が一種の「叙述トリック」になっていて、その趣向自体が批評にもなっているという離れ業(一度こういうのやってみたい)。新聞の投書欄で「自作自演」の悪ふざけを繰り返していたというフラン・オブライエンの「元祖2ちゃんねらー」(とは書かれていないけど)的な側面に注目する「七つの顔を持つ男」も興味深い。

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