▼ 2002.11



2002-11-01

『ピクニック・アット・ハンギングロック』

Picnic at Hangingrock (1975)
★★★

ピーター・ウィアー監督作品。舞台は1900年、オ−ストラリアの女子学校の生徒たちが遠足で行方不明になった「神隠し」事件を描いた映画。作中の台詞「あの娘はボッティチェリの天使だ」というのが象徴的で、豊かな自然と神秘的な少女たちという絵画的なイメージ映像を愉しむ、雰囲気勝負の作品のようだった。個人的にはあまりぴんとこなかったという感想。

村上春樹『海辺のカフカ』の「遠足で神隠し」のエピソードはこの映画が元なのではないか、という興味もあって観たのだけど、確かに通じるところがある感じはする。

2002-11-02

『マルタの鷹』

The Maltese Falcon (1941)
★★★★

言わずと知れたダシール・ハメット原作、ジョン・ヒューストン監督・脚本、ハンフリー・ボガート主演の古典ハードボイルド映画。実は未見だったのでいまさら鑑賞。

レイモンド・チャンドラー原作(『大いなる眠り』)の『三つ数えろ』と較べると、ハンフリー・ボガートの乾いた酷薄さとはったり的な早口喋りはやはりサム・スペイドが適役で、フィリップ・マーロウとはまた違うような気がする。主人公のボガートが何を考えているのか観客にも説明されないまま話が進むのは、さすがにハードボイルドの原理に忠実な演出。終盤に丁寧な解説の台詞が入ってしまうのは当時の娯楽映画の要請からは仕方がないのだろうけど、現在の視点から見ると古くさい感じもした。舞台劇風の室内場面が多い。

ヒロインの悪女、ブリジット・オショーネシー役のメアリー・アスターがさほど綺麗に見えないのが弱い。この映画が謎めいて魅力的になるのは、出てきた瞬間から「こいつは変だ」という過剰な曲者臭を漂わせる卑屈なエジプト人(?)、ピーター・ローレが探偵事務所を訪ねてきてからで、このピーター・ローレ(ハンガリー出身)と巨漢の富豪シドニー・グリーンストリート(英国出身)のほとんど漫画的な脇役陣が、映画にコスモポリタン的、もしくはある種のファンタジー映画のような雰囲気をもたらしていた。異国の宝物をめぐる荒唐無稽な争奪戦を描いた話なので、これは適切な演出なのだろうと思う。(ボガート、ローレ、グリーンストリートは翌年の『カサブランカ』(1942)でも共演)

2002-11-03

『ふたりの男とひとりの女』

Me, Myself & Irene (2000)
★★★

ボビー&ピーター・ファレリー兄弟の『メリーに首ったけ』(1998)でブレイクした次の作品。ジム・キャリーとレニー・ゼルウェガー主演。未整理な脚本をナレーションで取り繕っている失敗作なのは確かだけれど、結構心地良く観られた。

ジム・キャリーが善悪の二重人格に分かれた警官を演じる「ジキル&ハイド」もの。といっても、その人格転移を脚本の段階でコメディの題材として活かしきっている感じはせず、もっぱらジム・キャリーの身体演技と「顔芸」を前面に出した内容。その達者さに感心はするけれど、笑えるかというとそうでもない。妻を寝取られたせいで町の人々から舐められ、しかしその結果生まれた黒い肌の息子たちとは親密な関係を築いている、といった主人公の基本設定は、ファレリー兄弟らしい社会的タブーを逆手に取った「政治的に正しい」感じでおもしろい。さらに、これで観客は最初の段階から主人公に好感を抱くことができる。レニー・ゼルウェガー(『メリー』に続いてヒロインを選ぶセンスが良い)を送っていく仕事を申し付けられたことから「無理やりロード・ムービー」が始まるのは、『或る夜の出来事』みたいな古典的枠組みを応用している感じもある。あとはもうちょっと話を練れていれば良い作品になった題材ではないかと思う。

主人公の姓が「ベイリーゲイツ」(Baileygates)で、これは『サイコ』の「ノーマン・ベイツ」を意識した命名なのかな(自動車を湖に沈める場面も『サイコ』を思わせる)。同じく『サイコ』を踏まえていた某エドワード・ノートン主演作(あえて名を秘す)と通じるところもある。

奥泉光講演会

11/3開催の奥泉光講演会@早稲田大学、を覗いて来たので、ちょっと感想。

実のことろ奥泉光に関しては、作家としてよりも一種の「小説論者」として見識を信頼しているところがあるので、その小説についての哲学や問題意識などを直接聞けたのはやはり嬉しかった。講演会慣れしている人のようで、堂々とした受け答え。司会の学生からの質問に答えて進行する形式になっていて、たしかに興味深い話題も出ていたけれど、どうせなら聴衆からの質問を受け付ける時間も取ってくれると良かった気がする。会場で見かけた顔見知りは、千街晶之さん、森英俊さん、福井健太さんなど(確認順)。

内容で印象に残っているのはこんなところ。

  • 「物語」と「小説を書くこと」はそれぞれ別のこと。
  • 日本文学では、自然主義の小説よりも「新青年」の作家たちの過剰な言葉に惹かれる。
  • 戦後の作家で凄いと思うのは、半村良と山田風太郎。
  • 欧米的な近代社会の確立されなかった日本では、話者がすべてを統括する写実的な三人称叙述は嘘臭く感じられる(そこで「なら本当のことを書けばいいんだ!」と勘違いしたのが「私小説」)。自分も含めて、日本の文学は歴史的にそのような問題意識を背負ってきた。
  • 一人称叙述の小説では多かれ少なかれ語り手が何かを「隠す」のがあたりまえ。
  • 夏目漱石もそのことを意識して小説を書いていた。例えば『坊ちゃん』の饒舌文体は、語り手の孤独の反動として表れている。

グレッグ・イーガンの『宇宙消失』を褒め上げていたのは納得。『宇宙消失』は「世界は無限に分岐しているかもしれない」という奥泉的な題材を、きわめて小説的な手法で具現化していた作品なので。

ちなみに、本人サイト「バナール主義」のエッセイは一応近いうちに更新するつもりがあるらしい。

新作『浪漫的な行軍の記録』は、読んでおこうと思う。

2002-11-04

『脚本通りにはいかない!』

君塚良一/キネマ旬報社
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★★★

『踊る大捜査線』などTVドラマの脚本家、君塚良一の『キネマ旬報』での連載記事をまとめたもの。脚本家の視点から映画の感想が書かれていて興味深かったけれど、ハードカバーで出すほどの充実した内容でもないかな。おまけとして採録されている脚本家養成クラスでの講義は、内容や表現が本編とかぶっているところが多くてあまり意味がないように思った。

映画やドラマに自分で結論のわかっている問題を盛り込むと「説教」になってしまう。そうならないためには、自分でも答えの出せない題材を取り上げれば良い、と断言していて、まあたしかにそういうものかもしれないと感心した。伏線を張るときはその伏線自体に面白味がないと、観客に「これは伏線だな」と気づかれてしまうという指摘は、ミステリ小説にも通じるだろう。

個別の作品評では、『マルコヴィッチの穴』を「書き直しなしの初稿の脚本」で突っ走っているのが新鮮で良い、と評しているのがおもしろい。好意的に紹介されているマーティン・スコセッシ監督『アフター・アワーズ』は観ておこうと思った。

2002-11-05

『天才マックスの世界』

Rushmore (1998)
★★★

『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のウェス・アンダーソン監督の前作。名門ラシュモア校に通う変な高校生、マックス・フィッシャー(ジェイソン・シュワルツマン)の巻き起こす騒動を描いた奇妙な青春映画。画面を無駄な情報で埋め尽くすオフビートな語り口、向かい合った人物を執拗に正面から切り返しで撮る奇妙な画面構図などは、このころから特徴的。主人公マックスの人物造型(「もと天才児」で、舞台の脚本を書いている)を複数人物に割り振って群像劇のような格好にしたのが『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』なのかなと思った。

なかなか洗練されていた『テネンバウムズ』に較べると脚本は思いつきに近い感じで、先が読めなくておもしろいという見方もあるかもしれないけれど、例えば医者のルーク・ウィルソン(『テネンバウムズ』ではテニスプレイヤーの次男)は何の意味があって出てきたのかとか、未整理に思えるところが目についた。

マックスの奇抜な言動、若さゆえの背伸びと空回りは、「床屋の息子」という社会階級を隠して名門私立校へ通うことの反動でもある(ように見える)。このあたりは正直なところ、米国の私立校と公立校の違いを体感していない者にはいまひとつ面白味が伝わりにくかった。

マックスの初恋の相手、未亡人の美人教師役のオリビア・ウィリアムズ(『シックス・センス』(1999)でブルース・ウィリスの妻の役をやっていた女優らしい)が綺麗で、類型的といえば類型的な役柄を抜群の説得力でこなしていた。ナオミ・ワッツなどと似た系統のあくのない清楚な美人で、日本では受け容れられやすいんじゃないかと思う。

2002-11-06

『ホテル・スプレンディッド』

Hotel Splendide (2000)
★★★

孤島の奇妙なホテルを舞台に、勝気な女シェフの来訪が奇矯な住人たちと淀んでいたホテルに波紋をもたらしていくさまを描く映画。テリー・ギリアム→ジュネ&キャロ路線の、グロテスクで自閉的な映像世界の構築、フリークス的な人物の造型などをきっちり踏襲している。悪くはないけれどいかにもスケールが小さい感じがした。

緩慢な滅びの途上にあった閉鎖的なゴシック世界に、新住人として前向きな女性がやってきて物事が動き出すという物語構図は、エドワード・ケアリーの小説『望楼館追想』と似ていなくもない。で、この映画と較べると『望楼館追想』はやはり良く出来ているなと思った。この映画の筋書きは最初からほとんど善悪の別がはっきりしていて、「新任の活発な女教師が旧弊な学校に自由と変革をもたらす」という古臭い学園もののような構図を出ていない。(「性格の歪んだ教頭」の類型通りの人物も登場している)

監督・脚本は英国の新人テレンス・グロス。主役の女シェフはトニ・コレット(『シックス・センス』の母親役)。カトリン・カートリッジ(2002年9月に急逝。賢そうで好きな女優だったので残念)が比較的重要な役どころで出ていて、さすがに存在感がある。

2002-11-07

『中二階』

ニコルソン・ベイカー/岸本佐知子訳/白水Uブックス
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The Mezzanine - by Nicholson Baker (1988)
★★★★★

ある会社員の昼休み――軽い買い物を済ませて、中二階のオフィスへ戻る帰り道のひととき。日常生活の些末事をめぐるミクロ的な考察を際限なく膨らませて、たったそれだけの時間の出来事を中篇に仕立て上げる。これはきわめつきの「トリビア小説」、その金字塔というべきだろうか。日常生活の描写をものすごい細かさで突き詰めて書いていったらどうなるだろうか、という誰もが一度は冗談まじりに思いつきそうな試みを、本当に貫徹してしまったのがこの小説だ。厳密にいえばこの小説は、現在の語り手が近い過去の「当時の自分」の思考をなぞる構造になっていて、人生のさまざまな時点の回想が入り混じる趣向なので、ある時点の意識の流れだけに的を絞った内容ではない。そのせいか時間的な緊密感は薄い気もするのだけれど、こういう「存在自体が冗談」のようなふざけた構想の小説は好きにならずにいられない。脱線に次ぐ脱線を気ままに繰り返す人を食った文体、とめどない注釈の山が特徴的。

身の回りの些細なものを緻密な観察で書き記すところは、スティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』(訳者は同じ岸本佐知子)に通じるものがある。ただし、この小説の過剰な微細さには、『エドウィン・マルハウス』のような「幼少期の発見に満ちた世界」という物語性すら与えられていない。その空虚な歪みがまた面白いのだけれど。

2002-11-08

『いまを生きる』

Dead Poets Society (1989)
★★★

ピーター・ウィアー監督。伝統ある寄宿学校に新任の革新的な教師が赴任してきて、生徒たちに活気をもたらすとともに周囲には波紋を起こしていく……というよくある話。この内容が、ロビン・ウィリアムズの緩急をつけた演技の説得力と、ジョン・シール(『イングリッシュ・ペイシェント』など)の流麗な映像(雪景色が美しい)でぎりぎり観られるものになっているのは感心するけれど、基本的に古臭い教訓話という印象は変わらなかった。ピーター・ウィアーには『フィアレス』のようなハードで風変わりな映画を撮ってほしい。

旧弊な制度に異を唱える新たな導き手がいわれなき罪を着せられて犠牲になるという構図は、キリストの逸話を背景にしたものなのかな。

2002-11-09

『殺人者たち』

The Killers (1964)
★★★

ドナルド(ドン)・シーゲル監督の犯罪映画。ヘミングウェイの有名な短篇小説の映画化という名目なのだけど、原作の「殺し屋」は殺される日を淡々と待つ男を描いたごく短い掌編で、これをそのまま映像化したらものの数分で閉幕になってしまう。だからこの映画でも、殺しの仕事は冒頭の数分で済んでしまい、そこから「なぜ男は抵抗もせずおとなしく殺されたのか?」という謎を起点にした探索がはじまる。その意味で、この映画の筋書きは『九マイルは遠すぎる』もびっくりの「些細な手がかりを土台に背景の物語を捏造してみせる」しろものなのだ。ヘミングウェイの原作がもともとその種の想像を煽る趣向のものであるにしても、原作と映画の関係としておもしろい例だと思う。

話の構造も、リー・マーヴィンと若い相棒の殺し屋二人組が(殺された男がかつて関与したと目される)過去の事件の関係者に話を聞いてまわる探偵小説的な進行になっている。たとえ明かされる真相が平凡なものでも、興味が持続しているのはこの探偵小説的な趣向のためだろう。

強奪計画を主軸にして過去と現在の時制の興味が同時に進行していく構成は、緻密とはいえないまでも結構考えられていて、タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』は『現金に体を張れ』とともにこの『殺人者たち』も参考にしているのではないだろうか(そういえば『現金に体を張れ』→"The Killing"、『殺人者たち』→"The Killers"と、似たような題名だ……)。幕切れはいかにも虚無的な感じで、カラー映画だけれどフィルム・ノワールの部類に入ると言っても良いと思う。

そんなわけで充分興味深い内容なのだけど、この映画で致命的に弱いと思うのは、自動車を運転する場面がちゃちな合成ばかりであること(おそらく低予算のうらみだろうか)。主要人物が自動車レーサーなので、レースの場面などは編集に苦労しているぎこちない感じが透けて見えてつらかった。リー・マーヴィンとアンジー・ディキンソンが同じく出演している姉妹編(?)の犯罪映画、『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(1967)の格好良い演出を見ているだけに。

ところで余談になるけれど、個人的に昔の映画を見ていてよく気になるのが、

  • 格闘場面で拳が相手から完全に外れている。
  • 自動車を運転する場面が合成はめ込み。

ということで、特に犯罪アクション系の映画ではたいてい格闘も自動車も重要な要素になるから、その点で結構「これは厳しいなあ」と感じることが少なくない。映画史にも撮影技術にも全然詳しくないので外れているかもしれないけれども、この二点のリアリティの基準が改善されたのは1960年代、つまりヌーヴェルバーグ〜アメリカン・ニューシネマくらいの時期なのではないかという気がする。この『殺人者たち』の格闘と自動車の場面の扱いは「それ以前」の時期の基準という感じがした。

ジョン・カサヴェテスやロナルド・レーガンが平気で出演していて、配役は現在の視点で見ると妙に豪華な顔ぶれ(未来の合衆国大統領がせこせこ犯罪計画を練っていたりする)。冷徹で動きの少ない主人公のリー・マーヴィンの隣で、いまでいう「多動症候群」のようなせわしない相棒が良い味を出しているのも印象的だった。

2002-11-10

『ゴスフォード・パーク』

Gosford Park (2001)
★★★★

ロバート・アルトマン監督の英国カントリーハウス殺人事件もの。英国が舞台の時代もの(設定は1932年)だからといっていつもと違う特別なことをやっているわけではなく、近作の『クッキー・フォーチュン』(これは「倒叙」ミステリ形式の筋書き)や『Dr.Tと女たち』(男たちは外で狩猟に、女たちは内で噂話に明け暮れるという人物配置も同じ)と印象はさほど変わらない。多数のひとくせある登場人物たちをさばき切る演出の技巧を愉しむ映画だろう。

ミステリ映画としては意外なほど手堅い造りで、個人的にはアントニイ・バークリーの小説などのような謎解きの構造そのものを壊しにかかる先鋭的な展開を期待していなくもなかったのだけど、これはこれで悪くない。(ミステリ的な構造では以前の『クッキー・フォーチュン』のほうがスリリングかもしれない)

それよりも、英国の探偵小説では従来あまり描かれてこなかった、屋敷内部の主人と使用人の階級格差に焦点を当てているのが興味深かった(過去の探偵小説作家には「使用人を犯人にしてはいけない」なんて宣言している人もいたけれど)。使用人たちの生活やディナーを準備する裏方の様子などをこれだけ丁寧に描いた映画はなかなかないだろうと思う。貴族階級の人物を冷笑的に、使用人をいくぶん好意的に描いて対比する構図はいささか類型的な気もするものの、この話の振りが謎解きの解決にもきちんと結びついているのには感心。階上の鼻持ちならない領主たち、階下の召使いたち、そして狂言廻しとなる米国ハリウッドから来訪してきた客人たち、それぞれの社会制度をカメラ視点で超然と俯瞰し、誰にも感情移入をしないアルトマン流の群像劇の手法が、巧く内容と噛み合っている。

主役にいちばん近いのが新米メイド役のケリー・マクドナルドで、何か見覚えのある顔だなと思っていたらこの人は『トレインスポッティング』(1996)の淫行少女、ダイアン役の女優だった。この映画ではその童顔の感じを残しながら綺麗になっていて良い感じ。無表情なところも役柄に合っている。個人的には好みなので注目したい。

2002-11-11

『室温』

ニコルソン・ベイカー/岸本佐知子訳/白水社
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Room Temperature - by Nicholson Baker (1990)
★★★★

たしかに僕は、こうして水曜日の昼下がりに娘を抱いてロッキンッグ・チェアに揺られている今も、少しの集中力さえあれば、任意に(あるいはほぼ任意に)抽出された二十分間から、その人の人生の全体像を復元できると信じている。その二十分間に切り取られたひと連なりの思考や出来事やその引き金となった背景、それらを元に連想を過去方向に培養していけば、その人を語るうえで重要な要素のほぼすべてを――人生哲学、ささやかな意見、悲しかったり嬉しかったりしたエピソードなどのすべてを――深くではないにせよ、網羅できると信じている。(p.67)

ニコルソン・ベイカーの第二作。前作『中二階』で、靴紐の結び方やトイレットペーパーのミシン目や牛乳パックといった日常生活の些細なものごとから、とめどない小宇宙的な考察の数々を引き出しでみせた緻密でミクロ的な筆致は相変わらず。ほんの短い時間に繰り広げられる際限のない連想と回想を再現する、という形式も『中二階』と似ていて、この小説も、若い父親が眠りについた幼い娘を見つめるひとときの思考をつづったもの。

「語りの装置」のような透明な観察者に近かった『中二階』の主人公とは異なり、この語り手は家族と私生活の話を頻繁に交えて、何を語っても最終的には妻と娘への愛情に帰着していく(その意味で、これは風変わりな「のろけ小説」といえるかもしれない)。そうやって私的な領域を前面に出してきたためか(かつて音楽の道を志していたものの挫折してライター業に転身している、という主人公の経歴も作者自身と似通っている)、『中二階』に較べると語られる話題の普遍性はいくらか薄れてきている気もするけれど、この独特の書法はやはり刺激的。たかが「鼻糞ほじり」にこれほどの言葉を費やしてしまう小説がかつてあっただろうか。

2002-11-12

『もしもし』

ニコルソン・ベイカー /岸本佐知子訳/白水Uブックス
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VOX - by Nicholson Baker (1992)
★★★

全篇、電話ごしの男女の性的な会話で構成されたテレフォン・セックス小説。ニコルソン・ベイカーの第四作で、これが全米でベストセラーになって名を知られるようになったらしい(現時点で未訳の三作目"U and I"は、敬愛する作家ジョン・アップダイクをめぐる自伝的なエッセイとのこと)。

日常生活の些細な物事をめぐる考察だけで構成された『中二階』もそうだけれど、こういう趣向の小説は誰でも思いつきそうで、たぶん実際にやってみると結構難しい。ニコルソン・ベイカーはさすがに独特の緻密な日常描写と、恥じらいをものともしない妄想力でこれを読ませる作品に仕立てていた。はじめに大枠を決めておき、その枠のなかで自在に言葉のゲームを連ねていく、というのはいかにもこの作家らしい書法。

電話の会話だけで構成された小説、というのが小説の形式としておもしろいのは、登場人物のどちらも相手の顔が見えず、言葉だけから相手の人物像を想像・構築しなければならないところ。もちろんこれは小説の読者が置かれる立場ときわめて似ている。言葉だけだから相手の話はどこまで本当なのかわからないけれど、逆に言葉の織りなす世界ならではの自在な妄想の飛躍と性的エクスタシーを感じることもできる(かもしれない)。

第一作の『中二階』はほぼ完全なモノローグ形式の叙述で、次の『室温』では語り手の妻子をはじめとする他者との関係も語られるようになり、今度の『もしもし』は完全に二人の人物のダイアログ形式。だんだんと語り手が肉体性を帯び、他者との人間関係が描かれるようになってきている。それにつれて、主人公のパートナーである女性の存在が、『中二階』では名前の頭文字"L"しか明かされなかったのに、『室温』では明確に愛情の対象として語られ、『もしもし』では対話のパートナーとして実体化する、というように作品のなかで大きな位置を占めるようになる。まあおもしろくはあるのだけれど、江川達也の漫画『東京大学物語』のようにどんどんセックスの話ばかりになりはしないかと若干の不安も感じる。

2002-11-13

『マグノリアの花たち』

Steel Magnolias (1989)
★★★

米国南部のルイジアナ州を舞台にした群像劇。ハーバート・ロス監督。

サリー・フィールド、シャーリー・マクレインなど、歳を重ねた女優たちを露悪的でも美化するでもなく、とても巧い使い方をしているのに感銘を受ける。お話はいわばNHKの朝の連続ドラマのダイジェスト版みたいな内容なのだけど、映像も人物描写も美しくて充分鑑賞に耐える映画。ただ個人的に、出産するのが困難な身体の女性が無理して子供を産もうとする、という展開を物語の柱にしてしまう話は、どうも物語のために悲劇を捏造している気がしてしまい好きになれない。(似たような他の作品では『オール・アバウト・マイ・マザー』とか。キリスト教圏とは避妊や中絶に関する意識が異なるせいもあるのかもしれないけど)

後にTVドラマ『ザ・プラクティス』で活躍するディラン・マクダーモットが、ジュリア・ロバーツの夫の役で出演していた(このときすでに弁護士の役だ)。「女の映画」なので印象は薄いけれど。

2002-11-14

『フェルマータ』

ニコルソン・ベイカー/岸本佐知子訳/白水Uブックス
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The Fermata - by Nicholson Baker (1994)
★★★★

「(事前にいろいろな人に読んでもらったが)主人公の自分の行為に対する自己弁護は、男性からはほぼ百パーセント支持され、私の妻を含めた女性たちからは完璧に拒絶され、嫌悪された。この本の面白いところは、『もしもし』とは異なり、男と女の根本的な違いを際立たせる試金石になる点だと思う」(p.337/「訳者あとがき」に紹介されている作者の発言)

ニコルソン・ベイカーの第五作。「時間を止める」特殊能力を持った男がこれまでの人生遍歴を振り返る自伝を書こうとする、という形式で語られる小説。ただしこの語り手はその能力を活用して世界征服をたくらんだりなどはまったくせず、ひたすら女の衣服をこっそり脱がして覗き見をすることに全精力を注ぎ込む生粋のオナニストなので(「この世の中に、マスターベーション以上に重要なことが一つでもあるか? 否。」(p.130)などと思いきり開き直ったりもする)、彼が時間停止の世界で繰り広げてきたあんなことやこんなことの思い出話が詳細に語られる。前作『もしもし』に続いて性的な妄想がとめどなく開陳される内容で、さらに主人公の創作するボルノ小説が作中作として挿入される(時間を止めて何をやっているんだか)。

例によってベイカー的な饒舌と緻密な描写、日常生活の些細なものを讃えるこだわりは架空の設定のもとでも冴えていて、時間停止能力を有する男の視点から見た世界がありありと目に浮かぶように再現されている。あり余る能力をものすごくしょうもないことにしか発揮しない、という主人公の性格は、作者自身のありかたと重なって見えなくもない。時間を超越した人物の試行錯誤を日常的な文法で描く方向性は、ケン・グリムウッドの有名な『リプレイ』あたりと近いだろうか(結末の付け方も似ている)。

ただ、こういう話はほんとに「男の子の妄想」を具現化したファンタジーなので(個人的には西澤保彦のSF設定もの、『七回死んだ男』や『人格転移の殺人』などにも似たにおいを感じる)、作者の開陳する性的妄想に全然共鳴しない人にはたぶん退屈だろうと思う。これでニコルソン・ベイカー作品、現時点で邦訳の出ているものにはひととおり目を通したことになるけれど、最初の『中二階』は万人にお薦めてきる傑作で、後の作品はちょっと留保付きにならざるをえないかなという感じだ。

ちなみに細かい突っ込みを入れると、時間停止中にテープレコーダーだけは動作するらしいのはちょっと都合の良い設定のような気がする。

2002-11-15

『踏みはずし』

ミシェル・リオ/堀江敏幸訳/白水Uブックス
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Faux Pas - by Michel Rio
★★★

任務から逸脱していく暗殺者の行動を追ったパルプ・ノワール的な筋書きを、内面描写のない無感情な(元来の意味でハードボイルド的な)文体で綴った小説で、ジャン=パトリック・マンシェットの『眠りなき狙撃者』あたりの感じに近いだろうか。ほとんど改行の入らない息の長い文体は、映像志向の描写と合わせて、映画における「長廻し」さながらの効果をもたらしている……はずなのだけど、訳文が不要に読点の多いぶつ切りの調子で(特に「彼は、〜した」と主語の後ろにいちいち読点を挟むのが鬱陶しい)、文章のリズムを損なっているような気がした。原文を見ているわけではないけれど、たぶん本来はこんなにぶつ切りの文章ではないはずだ。これは結局、文体で読ませる小説なのだろうと思うので、この訳文で評価するのは難しい。

主人公の口にするアフォリズムは、最初はたしかに惹かれたのだけど、何度も繰り返されるとさすがに格好つけすぎのような気がした。やたら戦闘が強くておまけに精力絶倫と、これでは何か願望充足的に美化されるヒーローの属性とあまり変わらないのではないだろうか。

2002-11-16

『ストーリーテリング』

Storytelling (2001)
★★★

トッド・ソロンズ監督の新作。今回のテーマはずばり「差別意識」で、たいてい誰でも多かれ少なかれ、自分よりもみじめな境遇にある他人を見て優越感を持ったり安心感を得たりすることがあると思う。そういうさもしい心情を、何かを語って人に見せる/観客がそれを享受する("Storytelling")行為、つまり映画そのものの構造と絡めてえげつなく風刺する内容。前半部の"Fiction"では大学の創作科の人間模様を題材に黒人差別と身障者ネタが語られ、後半部の"Non-Fiction"ではうだつのあがらないドキュメンタリー作家志望者(ソロンズ自身を思わせる風貌)が、息子の進学問題に悩む郊外の裕福なユダヤ人家庭を取材しようとする。

分量的には後半のほうがだいぶ長めで(時間比にすると1:3くらいだろうか)、こちらは作中作で『アメリカン・ビューティー』と同じ音楽を重ねて例の「ビニール袋が風に舞う」情景を真似た場面を挿入していたりと、あからさまに『アメリカン・ビューティー』(トッド・ソロンズの前作『ハピネス』と内容が似通っている)を皮肉った箇所がある。食卓で語られた「ホロコースト」の話題が最後にとんでもない伏線になっていたりと、ちょっと度肝を抜かれる毒の利いた展開になっていた。ただ、群像劇の構成になっていた『ハピネス』と異なり、特に後半は自身を投影した(と思われる)登場人物を主役にした内容のせいか、世間への悪意に固められた作家の脳内をそのまま覗き込んでしまったかのような後味の悪さが残る。これまでのトッド・ソロンズ作品『ウェルカム・ドールハウス』『ハピネス』では、外見や差別意識などの壁を越えて心の通い合う瞬間が描かれていて、それが作品の一抹の救いになっていたようにも思うのだけど、この作品ではもうそんな希望もなくどぎつい風刺と諧謔だけになっているのが何だか寂しい。

2002-11-17

『愛しのローズマリー』

Shallow Hal (2001)
★★★

ボビー&ピーター・ファレリー監督作品。外見ではなく「心の美しさ」が見えるようになってしまったらどうなるか、というたぶん誰もが考えたことのある発想を、映像のレベルで堂々と実践してしまった内容。観客を挑発するchallengingな趣向を前面に出しながら、ふたりはお互いに惹かれ合っているのだけど障害があってなかなか結ばれない、という古典的なロマンティック・コメディのパターンを踏襲してもいる。ファレリー兄弟らしい作品なのだけど、外見の醜いor障害のある人の心こそ美しい、というような発想が疑われないのは、絵空事とはいえいくらなんでも陳腐ではないだろうか。単にグウィネス・パルトロウの容貌が個人的にさほど好みでないせいもあるかもしれないけれど。まあ、『メリーは首っだけ』で「外見も内面も良い」ヒロインを造型した反動で、こういう話を撮りたくなる気持ちはわかる気もする。

『ハイ・フィデリティ』のおたくレコード店員でブレイクしたジャック・ブラックが主演に抜擢。大人になりきれない中年、という感じの役柄は今後も需要がありそうだ。

2002-11-18

『インディーズ監督10人の肖像』

ジェフ・アンドリュー/鹿田昌美訳/キネマ旬報社
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Stranger Than Paradise - by Geoff Andrew (1998)
★★★

デヴィッド・リンチ、ジョン・セイルズ、ジム・ジャームッシュ、コーエン兄弟など、1980-90年代に活躍した(している)、ハリウッドの主流から外れた位置で独自の作風を築き上げている米国のインディーズ系映画作家たちを特集した映画評論本。著者は英国の映画評論家らしい。好きな映画監督の作品が丁寧に論じられていて興味を持って読んだ。特に、日本ではほとんど論評を見かけないジョン・セイルズ(そもそも作品の紹介が滞っているのだけど)の作品評を読めるのが嬉しい。基本的に作品の内容だけを論評の対象にする態度で、『ブルーベルベット』(デヴィッド・リンチ)『希望の街』(ジョン・セイルズ)『ブラッド・シンプル』(コーエン兄弟)など、個人的に傑作と考えている作品を納得のできる文脈で褒めているので、ある程度信頼を置けそうな感じがする。タランティーノ関連で『パルプ・フィクション』に苦言を呈して『ジャッキー・ブラウン』を褒めているところなども印象的。

内容的には参考になる箇所も多いのだけれど、作品の粗筋紹介の分量が多くて、ガイド本としては構成が中途半端になっている気がする。すでにその作品を観ている読者には粗筋の紹介が長く感じられるし、論評は無難だけどものすごく斬新な切り口があるわけでもない。未見の読者には、とりあえずどの作品がお薦めなのかの情報が文章の中に埋まっていて探しにくい。(作品別に項を分けたほうが機能的に使い易いのではと思った)

オーソン・ウェルズをインディーズ映画の「祖父」、ジョン・カサヴェテスを「父」、マーティン・スコセッシを「兄」、と作中のたとえで位置付けているのがおもしろい表現。

「吹雪の山荘」映画

11/23公開のフランソワ・オゾン監督『8人の女たち』は「吹雪の山荘」ものらしい。『ゴスフォード・パーク』といい、近頃こういうアガサ・クリスティ風の古典ミステリの形式を借りる趣向が流行っているんですかね。

2002-11-19

『ファントム・オブ・パラダイス』

Phantom of the Paradise (1974)
★★★★

ブライアン・デ・パルマ監督・脚本の1974年作品。『オペラ座の怪人』を下敷きにしたダーク・ファンタジー風味の音楽映画。全篇が不安な悪夢のような雰囲気で、良くも悪くも落ち着きのない演出と映像が内容に合っている気がした。シャワー中を襲撃する『サイコ』流の場面があるのは、さすがにヒッチコック・フォロワーのデ・パルマらしい。音楽も良いのがあったけれど、ヒロインが舞台で歌うクライマックスの場面があまりぱっとせず、序盤の場面の印象のほうが強い(と思う)のはちょっと問題がある気がしないでもない。

これは周知のことだろうと思うけれど、漫画『ベルセルク』は明らかにこの『ファントム・オブ・パラダイス』を参考にしている。暗黒神になったグリフィスの格好(鳥のような仮面)はこの映画の主人公とまったく同じだし、「悪魔との契約」が物語の鍵になっているところ、すべてを奪われた男が地獄からよみがえる復讐劇という筋書きも似ている。もはや新たな「古典」になっているということだろうか。

2002-11-20

『ウィッチフォード毒殺事件』

アントニイ・バークリー /藤村裕美訳/晶文社
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The Witchford Poisoning Case - by Anthony Berkeley (1926)
★★★★

「先日読んだ本のなかに、なかなか啓発される文章があったんだ。(中略)"大半の探偵小説には退屈させられる。なぜなら、そうした小説が目指しているのは、犯人の正体を提示することだけだからだ。わたしが関心を持つのは、その犯罪がなされた理由なのである" わかるかい? 言い換えれば、こういうことだ。現実の世界で、人が殺人事件について実際に興味を持つのは(中略)探偵小説のような、巧妙に組み立てられたパズルではなくて、現に犯された、おそらくはじつにありきたりな犯罪を導くにいたった人間的な要素なんだ。現実の犯罪にはパズルの要素はめったに存在しない」(p.155-156)

『レイトン・コートの謎』に続くバークリーの第二作。探偵役ロジャー・シェリンガムの向かうところ敵なしの饒舌が全篇を覆い尽くす実験的な作品で、この本の分量にして半分以上はシェリンガムの発言で占められているのではないかと思えるほど。彼の論じる対象は法制度から毒殺論、探偵小説論、果ては女性論にまでおよび、ほとんど作者のエッセイと化しているような趣きもある。会話のやりとりの場面ばかりでこれだけ読ませてしまうのはさすがという感じで、特にシェリンガムが事件の関係者のひとり、ソーンダースン夫人を尋問する場面などは、かつてこれほど相手を小馬鹿にしきった慇懃無礼な探偵を見たことがあるだろうか、と思わせるようなスリルに満ちている。

謎解きの結末が『ジャンピング・ジェニイ』あたりと同じく、ひねりすぎて逆に腰砕けになっているのもバークリーらしい(その提示のしかたも構成的に苦しい)。実のところバークリーは結末を付けるのが得意とはいえないようで、どこかで法月綸太郎も指摘していたように、むしろ「中盤のサスペンス」の演出に注目すべき作家なのだろうと思う。

被害者の名がそのものずばり「ベントリー」で、これは『トレント最後の事件』のE・C・ベントリーへオマージュを捧げているということだろう。バークリーは他の著作でも明らかに『トレント最後の事件』を意識した創作をしているのだけど、これだけ直接的な言及があるとは思わなかった。

この作品より評判の良い前作『レイトン・コートの謎』はちょっと乗りきれないところがあったのだけど、少し読みどころを外したのかもしれないという気がしている。

2002-11-21

『半落ち』

横山秀夫/講談社
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★★

『陰の季節』『動機』の作者の初の長篇小説。といってもひとつの殺人事件をめぐって、章ごとに視点人物の変わる連作短篇集のような構成になっている。視点人物を警察官→検察官→新聞記者→弁護士→裁判官→刑務官と交替させていくことで、ひとりの被疑者が逮捕されてから刑務所に入るまでの刑事司法の流れを見せる構想。その趣向は悪くないものの、三十年前の小説を読んでいるかのような古臭い筆致と世界観は相変わらず。結局、短篇の題材を多視点構成で引き延ばした内容という印象も拭えなかった。

『動機』を読んだときにも思ったけれど、この作家のとりあげる題材はいわゆる「日常の謎」に近い(この小説でも殺人事件そのものではなく「なぜ被疑者は犯行後の二日間の行動を頑なに語らないのか?」の謎が焦点になっている)。そこに物語性を与えるために、浅田次郎風の中高年の感傷的な人情噺を持ってきているのがどうにも肌に合わない。地の文で登場人物の心情を高らかに代弁しはじめる押しつけがましい盛り上げかたも気になった(浅田次郎とか、あるいは宮部みゆきなどがよくやる手法)。「おやじ御用達作家」の域を出るものではないんじゃないかなあ、というのが正直な感想。

2002-11-22

『泥棒は詩を口ずさむ』

ローレンス・ブロック/田口俊樹訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
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The Burglar Who Liked to Quote Kipling - by Lawrence Block (1979)
★★★

ローレンス・ブロックの泥棒バーニイ・シリーズの一部、『泥棒は詩を口ずさむ』『泥棒は哲学で解決する』『泥棒は抽象画を描く』の三作をまとめて読む機会があったので、忘れないうちに所感を記しておきたい。

ローレンス・ブロックは、日本ではおもに探偵マット・スカダー・シリーズの作者として知られているけれど、本国ではむしろこの泥棒バーニイ・シリーズのほうが人気が高いらしい。確かに細部の会話やひねくれた語り口が都会的に洒落ていて、とても愉しく読める出来。日本では、軽妙なものより深刻なものが受けやすい土壌と、「本格」と「ハードボイルド」に二極分化した評価基準のせいで(本格読者からは「謎解きが薄い」と言われ、ハードボイルド読者からは「情感が足りない」と言われるだろう)、こういう作風の娯楽小説は評価が定まりにくいところがあったのではないかと思う。

このシリーズの基本路線は、次の三つの要素から成り立っている。

  • (A).稀少価値のある「お宝」が登場する。
  • (B).主人公が殺人の容疑をかけられる。
  • (C).主人公が関係者一同を集めて謎解きを披露する。

(B)と(C)は毎度それなりの趣向は凝らされているものの大筋は同じなので、作品によって変わるのは(A)の「お宝」の中身ということになる。ここに変わったお宝を用意することで、その物品の由来や特殊業界の話題といった情報、その所有権をめぐる駆け引きの話を盛り込めるようになっている(それは題名の固有名詞に反映されて作品の看板になる)。この小説では、キプリングの幻の詩集なるものを引っぱり出してきて、古本屋の店主におさまったバーニイの仕事場の話題も絡めながら、書物の話題を紹介しているのが面白い(『死の蔵書』にさきがけた古本ミステリの秀作としても読めるだろう)。

また(C)からわかるように、このシリーズは伝統的なパズラー探偵小説の形式を律儀に踏襲している。謎解きの過程が必ずしも精密なわけではないけれど、その点も注目されて良いところだと思う。

ところで、上記の(A)-(C)の要素をほぼ満たしている有名な古典作品がある。それは『マルタの鷹』で、後にブロックが『泥棒はボガートを夢見る』なんて題名の作品を書いているのを見ても、このシリーズで少なくとも映画版の『マルタの鷹』を意識していることは間違いないと思う。この作品でも、キプリングの幻の詩集をめぐってアラブの富豪やら怪しいシーク教徒やらの影が見え隠れする……などと、にわかに話がコスモポリタン的な色彩を帯びるところに『マルタの鷹』のにおいをかぎとれなくもない。

ただ、次の『泥棒は哲学で解決する』と較べると主人公の事件への巻き込まれかたに無理が出ている感じで、本をめぐる争奪戦の印象も薄い(キプリングの幻の詩集というのがぴんとこないせいもあるかもしれないけれど)。とりあえずバーニイがせっかく古本屋の店主の座に就いたので、古本にまつわる話をひとつこしらえておくのが主目的だったような気もする。

2002-11-23

『泥棒は哲学で解決する』

ローレンス・ブロック/田口俊樹訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
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The Burglar Who Studied Spinoza - by Lawrence Block (1980)
★★★★

泥棒バーニイ・シリーズの四作め。作者ローレンス・ブロックが作家として脂の乗りきっていた時期の作品で(他方のマット・スカダー連作もこのあと第一期のクライマックスを迎える)、これはたぶんシリーズ中でも一、二を争う傑作ではないかと思う。

今回の主題の「お宝」になるのは伝説的な稀少価値を有するらしい五セント硬貨で、例によってその争奪戦が殺人事件に発展する。ただし、この作品の原題にはその硬貨とは関係のない哲学者スピノザの名前が取られていて、これは作中で殺害される故買屋がスピノザを愛読する人物なのが由来。その点はシリーズの定式から逸脱しているものの、逆にこの故買屋の印象的な人物造型がこの作品の魅力になっている。

このシリーズの筋書きは、主人公のバーニイが殺人の容疑をかけられ、それを晴らすために真犯人を挙げようと奔走するのが基本になっている。そのとき、殺される被害者は主人公を事件に巻き込むための、プロットの都合による(読者にとって思い入れのない)駒になってしまいやすい。ところがこの作品で殺されるのは主人公のなじみの故買屋で、その人間的な魅力が読者にも事前に示される「惜しい」人物。このことが事件解明への興味を高めて、わざわざ教会での葬儀の場を借りて推理を披露するというはったりの利いた演劇的な趣向と併せて、謎解きのカタルシスをもたらしている。その推理自体も、関係者の職業的な肩書きから意外な犯人を導き出すという(それほど精緻な論理ではないにせよ)、NY派ミステリの大先輩、エラリイ・クイーンを想起させるような興味深い内容。

加えて、このシリーズは稀少な「お宝」をめぐる争奪戦に主人公が巻き込まれるという形式を採っているために、事件の発端が主人公と関係のない、小説の時系列の外部に設定されることが多い。そのため事件解明の段になると、背景事情の説明がどうしても不自然に煩雑化して流れが淀みがちになっていた。この作品では、そもそも主人公たちが硬貨を盗み出して故買屋に預けた行為が結果的に殺人事件の原因を生んでいて、そこの因果関係が物語内で完結した見えやすい構造になっている。これも作品がひときわ成功している要因のひとつだろう。まあ、あまり何度も使えない手かもしれないけれど。

2002-11-24

『泥棒は抽象画を描く』

ローレンス・ブロック/田口俊樹訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
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The Burglar Who Painted Mondrian - by Lawrence Block (1983)
★★★★

泥棒バーニイ・シリーズの五作め。前作『泥棒は哲学で解決する』が傑作だったのでそれに較べると謎解きのカタルシスなどは多少見劣りするものの、相変わらず遊び心に満ちた筆致を愉しめる。今回の「お宝」となるのは実在する画家モンドリアンの抽象画で、僕は美術の知識がまるでないため知らなかったのだけど こういう四角を組み合わせた絵を描いていた人なんですね。確かにこれではおそろしく複製を作りやすそうで、この作品ではそこに突っ込みを入れて「贋作が多すぎる」展開になるところが笑える。

主人公のバーニイは一人称の語り手と探偵役を兼ねているので、バーニイの見聞きした情報は読者も承知していることになる。ところが、そのままでは謎解きの答えが読者に判ってしまうことになるので、何らかのかたちで情報の意味を伏せる工夫が必要になる。この作品ではそこに叙述トリック的な趣向を導入しているのだけど、そういった語りの遊びがバーニイの悪戯好きの性格とよく合っていて、気分良く読める。

このシリーズは、本来は原語で読まないと面白味が伝わらないのかもしれない洒落た会話やひねくれた語り口の魅力をまがりなりにも再現してくれる、翻訳の田口俊樹の手腕にも感心させられる。

2002-11-25

『ディナーラッシュ』

Dinner Rush (2000)
★★★

NYの人気イタリアン・レストランで起こる一晩の出来事を描いた、時間・空間限定趣向の群像劇映画。演劇風の設定なのにさほど舞台劇らしい感じがしないのは、料理の場面でミュージック・ビデオ的な可変速撮影を入れているからだろうか。同じ空間で複数の出来事が同時進行するところを描く、というのはパズル的な面白味があって個人的に好きな趣向なので、わりと愉しめた。伏線を緻密に回収するわけでないのが、まあそれが自然主義ということなのかもしれないけれど、少し物足りないといえば物足りない。

ヴィヴィアン・ウーという中国系の女優は、僕の目には全然美人に見えないのだけれど、欧米基準では「アジアン・ビューティー」ということになっているのだろうか。『チャーリーズ・エンジェル』のルーシー・リューといい、東洋系の女優の出演機会が増えると、日本人の観客は今後も「この人は果たして劇中で美人という設定になっているのか?」と悩むことになりそうな気がする。

2002-11-26

『シンドラーのリスト』

Schindler's List (1993)
★★★★

スティーヴン・スピルバーグ製作・監督のホロコースト伝記映画。公開当時は「賞狙いの良い子ぶりっこ映画」なんて揶揄する向きもあったように記憶しているけれど、これは結構志の高い秀作だと思う。なんだか題材から反射神経的に判断している人が多いんじゃないだろうか。

この映画に描かれる主人公のシンドラーは、典型的な「英雄」といえる高潔な人物ではない。彼はもともと徹底した実利主義者で、迫害されているユダヤ人が安価で有能な労働力だったために工場主として庇護していたにすぎないのだ。そういう凡庸な普通人が時代の波に巻き込まれて、しかし結果的に彼しか行わなかった崇高で英雄的な行為に手を染めるところを描いているのがおもしろい。ヤヌス・カミンスキー(ポーランド出身)撮影の端正なモノクロ映像が冴えて、淡々とした空気のなかに不吉な死のにおいが刻印される感じがよく出ている。内容と手法の幸福な合致。

脚本を担当したスティーヴン・ザイリアンはその後ふたたび「実利主義者が成り行きから人道的行為に入れ込んでいく」という話を、こんどは自分が監督も兼ねて撮っている。ジョン・トラボルタが水質汚染訴訟に賭ける弁護士を演じた『シビル・アクション』がその作品だ。

2002-11-27

『フィルム・ノワールの光と影』

遠山純生編集/エスクァイアマガジンジャパン
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★★

フィルム・ノワールを特集したムック本。参考になる記事もあるものの、全体的な充実度はいまひとつ。ポール・シュレイダー(『タクシー・ドライバー』脚本など)のフィルム・ノワール論をはじめ、いくつか収録されている興味深げな翻訳記事は日本語訳が拙すぎて読むに耐えない(翻訳担当の細川晋という人は、巻末の作品解題も映画の周辺情報と粗筋しか述べていない無内容な文章ばかりで、申し訳ないけれどこの人は外れたほうが良かったんじゃないだろうか)。フィルム・ノワールの伝統を受け継ぐ1960年代以降の作品を論じるのにページを割いているのは良いけれど、そのなかで参考になる文章を書いているのは1970年代担当の上島春彦くらいなのが寂しい。他の論者は知識不足のために網羅的でない一作集中語りをしているような気がしてしまう。先に読んでいた新井達夫『フィルムノワールの時代』が良くも悪くも筆者の主観に偏った内容だったので、それとのバランスを取る役には立たないでもなかったけれど、残念ながら分量と値段の割には有益な情報の少ない本だった。

2002-11-30

『20世紀少年』

このところ漫画から遠ざかっていたので、いまさらながら浦沢直樹『20世紀少年』(小学館)を1巻から10巻まで読む。自分たちの少年時代に端を発した得体の知れない巨大な悪に立ち向かうため、大人になったかつての遊び仲間たちが再び集結するという、スティーヴン・キングの『IT』を思わせる話。現在の物語に重ねて少年時代の記憶を喚起しながら語ることで、荒唐無稽な大風呂敷に説得力をもたせる趣向、着想の新奇さや思想の深さよりも、皆の記憶にしまいこまれている既知の話をいかに集積して「総合漫画」、あるいは現代の神話に仕立て上げるか、というところで勝負しているところなども『IT』と通じる。アニメ映画『クレヨンしんちゃん/嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(大阪万博が年代的な象徴になるところも同じ)が部分的に似たようなことをやろうとしていたけれど、こちらの『20世紀少年』のほうがだいぶ射程が広いだろう。冒頭から飛ばしまくる思わせぶりな時系列操作だけでも、実力のある作家が好きなように書いている感覚を愉しむことができた。

「○○は誰か?」などの謎の連続で話を引っ張り続けるミステリ的な語り口の巧さには感心。でも「人物が重要な情報を口にしようとする→携帯電話が鳴って中断」みたいな手口を何度も繰り返すのはさすがにあざとい気がする。週刊連載ものだがらある程度しょうがないんだろうけど。

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