▼ 2002.09



2002-09-01

『俺はレッド・ダイアモンド』

マーク・ショア/木村二郎訳/ハヤカワ文庫[amazon] [bk1]
Red Diamond Private Eye - by Mark Schorr (1983)
★★★★

「弾丸が体にはねかえるとき、スーパーマンはタフだったか?」
彼女は考え込んだ。「そう思うけど」
「いや、タフじゃない。弾丸はただはねかえるだけだ。クリプトナイトに立ち向かう時にタフなんだ。彼を痛めつけるもの、恐ろしいものに立ち向かう時にタフになる」(p.291-292)

これはおもしろかった。うだつのあがらないタクシー運転手で、タフガイ探偵の活躍するパルプ・マガジンの架空の世界だけが唯一の愉しみだった男が、現実と妄想の区別がつかなくなって自身を愛読する主人公「私立探偵レッド・ダイアモンド」だと思い込み、「勘違いハードボイルド探偵」として世間に乗り出す。「現実と妄想のはざまに生きる新ヒーロー登場」という本の惹句が言い得て妙。(いまなら「電波ハードボイルド」ということになるだろうか)

映画でいえば、ウディ・アレンが『カサブランカ』に憧れるパロディ映画『ボギー!俺も男だ』、あるいは『アンブレイカブル』や『ベティ・サイズモア』などのような「虚構の物語が現実世界に流れ出してしまう」話と対応するだろう。

悪党を次々と殺し、美女を救い、気取った台詞を口にする「タフガイ探偵」の臭みが、この作品のなかでは「妄想だから」「勘違いだから」というパロディ性によって中和されるのが鋭い着眼点。戯画的なパロディとして愉快なのと同時に、伝統的なタフガイの探偵像をよみがえらせるには、こうした「最後の手段」的な方法論しかないのではないか、という厳しい批評性も感じなくはない(また、終盤の展開はかなり危険な皮肉をはらんでいるようにも見える)。作中の「レッド・ダイアモンド」はすでに同時代のヒーローではなく、かつての1930-40年代に書かれた「懐かしのヒーロー」という設定なのだ。

2002-09-02

『悪魔の呼ぶ海へ』

The Weight of the Water (2000)
★★★

出演者はショーン・ペン、エリザベス・ハーレイ、サラ・ポーリー、カトリン・カートリッジなど、個人的には結構な豪華キャストに見えるんだけど、日本では劇場未公開のビデオスルー作品。まあ、それもしかたないかなという内容だった。

過去(19世紀)の殺人事件と現在の人間関係が交錯するという、一時のトマス・H・クックやロバート・ゴダードの小説のような趣向の話。現在と過去をかろうじてつなぐ要素が「手記」というのは、いかにも小説的な発想だなと思っていたら、やはり原作の小説があるようだった。工夫のないモノローグと回想が散見されるのは、小説の内容をきちんと映像化しきれていない感じがする。カットバック構成で交互に進行する「過去と現在」の挿話に密接な関連性がないのは、観ていて苦しい印象。気だるい調子の音楽も、日本でいう二時間サスペンス的な感じでいまひとつだった。

ただ、エリザベス・ハーレイ様の水着&乳出し場面があるので、これは必見かも。

2002-09-03

今月は結構たのしみな映画の公開や書籍の発売が多いので、ちょっとまとめて書いてみる。

今月公開の注目映画:

刊行予定の書籍:

  • 09/10 中井拓志『アリス』(角川ホラー文庫)
  • 09/11 シェイマス・スミス『わが名はレッド』(ハヤカワ文庫HM)
  • 09/12 村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社・上下)
  • 09/20 パトリック・マグラア『スパイダー』(ハヤカワepi文庫)

2002-09-04

『恋は負けない』

Loser (2000)
★★★★

エイミー・ヘッカリング監督・脚本の青春ロマンス映画。詰めの甘いところもあるのは否めないけれど、ひさしぶりに出会った佳作なのでこの点数にしておきたい。

この作品がロマンティック・コメディの定石をきちんと押さえているために良いものになっている、ということはwad's映画メモのReviewで明快に論じられているので、そちらを参考にしてほしい。(ここでは別の切り口から書いてみる)

田舎から上京してきた学生が都会の大学にやって来て……という本作の筋書きが何を連想させるかというと、ひと昔まえに流行したTVドラマ「ビバリーヒルズ高校白書」だろう。「ビバリーヒルズ高校白書」は、ミネソタの田舎から華のLAの高校へ転校して来た主人公が、毎晩のようにパーティに明け暮れる都会の金持ちの放蕩息子たちの生活にも適応して、仲間としてうまくやっていく話だった。けれども、実際にはそんなに都合良く行くわけないだろ?というのは誰もが思うことのはずで、そこに突っ込みを入れるのが本作の基本構想だと思う。本作に登場する遊び人の学生たちの軽薄さは、ほとんど「ビバリーヒルズ〜」のパロディのようにも思えるし、彼らは最後まで田舎者で堅物の主人公を仲間と認めようとしない。その主人公ジェイソン・ビッグズはさすがに「ミネソタ出身」という設定ではないようだったけれど、いつもださい防寒帽を目深にかぶり、「それ『ファーゴ』の小道具か?」と笑われるところには、どうも「ミネソタ」の気配を感じないではいられなかった。(『ファーゴ』はミネソタ州の雪景色を舞台にした映画で、監督のコーエン兄弟もミネソタの出身)

そして本作では、主人公とヒロイン(ミーナ・スヴァーリ)による、素朴な(放蕩学生たちのダンス・パーティの対極にある)「NY無銭デート」のエピソードがとても魅力的に描かれている。金持ちでもセンス抜群でもない、それでも充分に素敵な青春の場面を切り取るという趣向で、特にこの挿話は本作の白眉だと思う。枠組みは古典的なおとぎ話でも、細部の描写は具体的で説得力があるのが良いところ。

ただ、脚本の綻びは少なくない。人に部屋を貸して帰ってきたら好きな女の子が睡眠薬で倒れているという、『アパートの鍵貸します』の本歌取り趣向を入れたいのはわかるんだけど、そもそも主人公は動物病院に間借りしている身なのだから、これを勝手にパーティ会場として提供してしまうのは、「いいひと」の主人公にはふさわしからぬ無責任な行いに見える(作者もさすがにそのことを承知しているようで、それ以降動物病院の人たちは劇中に姿を現さなくなる)。また、告白できない主人公の想いをヒロインが知る手段が、いかにも都合の良い「電話の立ち聞き」というのは、この種のすれ違い恋愛話を成就させる発想として拙いように感じた。エンディングで悪役たちに追い討ちをかける趣向も後味が悪い。(どうせなら主人公と同じく、作品も最後まで善人のふりを貫いてほしかった)

とはいえ、ドラマのようなゴージャス生活とは無縁の冴えない青春に讃歌を贈る構想、そして「無銭デート」などの細部の挿話には、好感を抱かずにはいられない。

2002-09-06

2002-09-07

『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』

The Royal Tenenbaums (2001)
★★★★

セピア調の画面構築、室内の装飾や小道具、登場人物の衣装などが隅々までやたら凝っていて、観る者を飽きさせない映画。話の内容はさして特別なものではないから騒ぐほどでもないような気もするけれど。

極端に戯画化された経歴の登場人物たちを配しながら、筋さばきは結構手堅い。かつての「神童」たち、いまはそれぞれ何かを失った登場人物たちの人生模様が絡み合い、ささやかな再出発に至るという図式は、例えば『ワンダー・ボーイズ』と似ている。『ワンダー・ボーイズ』のような渋めの人情コメディを、『アメリ』のような奇人たちの群像と凝った人工空間のもとで展開すると、こんな感じになるだろうか。登場人物がそれぞれ何を失い、物語のなかで何を得ることになるか、といったあたりに注目するとおもしろい。

架空の書物をひもといて見せる各章の導入部の趣向、そしてセピア調に統一された映像、という(かつてのジョージ・ロイ・ヒル作品を思わせる)やりくちで提示される本作の物語世界には、時代背景、あるいは何らかの時間的な要素を示す手がかりが著しく欠けている。また、これはデジタル的なものが徹底して排除された、アナログ志向のユートピア的な世界でもある。(誰も携帯電話を持っておらず、電話は全部レトロ調、音楽もCDでなくアナログのレコードでかけられる。ぼろぼろのタクシーが何度も出てくるのが印象的)

コミカルな内容にもかかわらず、実は作中に「墓参り」の場面が頻繁に出てくる(幕切れの場面も墓地だ)。かつての栄光は取り戻せないけれど、やがて来る「死」に向かって、できるだけ生の喜びを大切にしながら軟着陸すればよい、というような哲学が流れているのではないかと思った。(深読みするなら、映画というメディアそのものがそうした運命をたどっているということなのかもしれない)

俳優では、グウィネス・パルトロウが普通に「綺麗」という設定になっているのは苦しいような気もした。まあ、これは個人的な好みなのかもしれない。

2002-09-08

『キッスで殺せ』

Kiss Me Deadly (1955)
★★★

NHK-BSで放映されていたのを視聴。(国内ではビデオ化されていない作品らしいので、ようやく観られた)

ミッキー・スピレインのマイク・ハマーものを、ロバート・アルドリッチが監督した作品。筋立てはよくある感じの巻き込まれ型のハードボイルド探偵ものなのだけど、これがアルドリッチ印ということなのか、終盤の展開はほとんど『博士の異常な愛情』や『猿の惑星』などのような暗黒の風刺SFの世界に足を突っ込んでいる。この異様さのために、カルト的なフィルム・ノワールの名作として持ち上げられているのだろうか。ただ現在の視点で見ると、それはあくまで「当時の文脈を考えたらすごいね」という程度に評価される逸脱のようにも感じた。

マイク・ハマー役の俳優、ラルフ・ミーカーがいかにもそれらしい尊大さで良い感じ。「法秩序と警察をまったくあてにしない」「次々と誘惑されるものの本命以外の女とは寝ない」といったハマー的な行動規範もきちんと押さえられているようだった。この作品のハマーは、秘書のヴェルダや自動車修理工の男などの周りの仲間を平然と囮のように使って、犯人側からの反撃を引き寄せる戦略を採る冷血漢のようにも見えるのだけど、このあたりは製作者があえて用意した突っ込みどころなのかどうか、よくわからない。

2002-09-09

『僕たちのアナ・バナナ』

Keeping the Faith (2000)
★★★

エドワード・ノートン初監督作の、NYを舞台にしたロマンティック・コメディ。

恋愛に障壁などないように思える現代を舞台に、あえて「ユダヤ教のラビ」(ベン・スティラー)と「カトリックの神父」(エドワード・ノートン)という特殊職業の人物を主役にすえて、宗教の戒律という障害を持ち込んでいるのはおもしろい着想。伝統宗教のポップ・カルチャー化を目論むふたりの「宗教改革」が魅力的かどうかはともかくとして、米国の宗教の実態を知らない者にとっては「特殊業界もの」としてもそれなりに興味深く見られた。(ちなみに、ユダヤ教の戒律が恋愛の障壁になるミステリ小説といえば、フェイ・ケラーマンの『水の戒律』という作品がある)

肝心の三角関係のほうは、どうも葛藤を葛藤としてきちんと作れていない感じがした(「ユダヤ教徒以外とは結婚できない」という戒律をどうやって乗り越えればいいかは、誰でも展開の想像がつくだろうから)。けれども、ベン・スティラーと親友のエドワード・ノートンの「裏切り→和解」の関係が、そのままベン・スティラーと「信仰」の関係にも対応する、といったあたりの小技は効いている。願わくばこの話なら2時間以内にまとめてほしかったけれど。

ベン・スティラーの「NY生まれで背の低いユダヤ系のコメディアン」という属性と、エドワード・ノートンの「自分の監督作でみずから自虐的な役回りをこなす」という確信犯ぶりが相まって、ちょっとウディ・アレン路線を狙っているかのような印象もある。

ヒロインのジェナ・エルフマンは声が太すぎて、個人的にはちょっとつらいかなあ。

2002-09-10

『ラッシュライフ』

伊坂幸太郎/新潮社(2002.7)[amazon] [bk1]
★★★

お互い無関係のように見えた複数の登場人物たちの挿話が、やがてそれぞれ交錯する構図が見えてくる……という、映画の群像劇の手法を三人称多視点の書法で再現した作品。タランティーノ系の群像劇犯罪映画の、特に「パズル的」な部分を抽出すると、こんな感じになるのではないかと思った。(その一方で、おもに「悪ふざけ的」な部分を実践しているのが戸梶圭太ということになるだろうか)

連想した映画の題名を挙げると、『トゥー・デイズ』(複数人物の行動を交錯させる趣向、人生に敗れかけた者たちの「敗者復活戦」になっているところ)や『フォロウィング』(空き巣同士が鉢合わせをする展開、作中の時間軸のずらしかた)など。

前作『オーデュボンの祈り』で「未来を予知する案山子」が殺害されていたのと同様に、本作でもすべてを見通せる予言者らしき人物を排除する計画が進められていて、どうやらこの作家の小説では、「名探偵の死/不在」というのが物語の柱になっているように思える。つまり、すべてを見通せる名探偵の「神の視点」が不在になった状況のもとで、複数の登場人物がそれぞれ全体像を知らないままパズル的に連鎖していく、といった感じの世界観。以前『トレント最後の事件』について書いたことがあるけれど、探偵小説で「名探偵の推理」を否定した場合、話をパズル的に収束させようとするなら、おそらく「複数人物の行動が意図せずに交錯する」という趣向を持って来るしかない。本作ではそこを、映画の群像劇、特にタランティーノ系の犯罪劇の路線に結びつけているのが興味深かった。

群像犯罪劇としては、人物造形の魅力や細部の洒落っ気などがいささか物足りない気もするけれど(その点、例えばジェリー・レイン『本末転倒の男たち』などは洒落ていて良かった)、独特の構想を持ったおもしろい作家だと思う。

2002-09-11

『首切り』

ミシェル・クレスピ/山中芳美訳/ハヤカワ文庫HM[amazon] [bk1]
Chasseurs de Tetes - by Michel Crespy (2000)
★★★

フランス産のサスペンス小説。企業を解雇された失業者たちが、有名な再就職斡旋会社の招きで人里離れた孤島に集められ、選抜のための研修に参加するが、それはやがて残された椅子をめぐるいびつな争奪戦になり……という、『斧』で『そして誰もいなくなった』で『バトル・ロワイアル』な話。リストラ中年の再就職を意地悪なサスペンスに仕立て上げる趣向は『斧』のほうが時期的に早いし、奇怪な犯罪劇と日常の家庭生活とが平然と同居している『斧』のほうが構想としても先鋭的に思える。すべてがご破算になった地点から、これまでの経緯の回想が語られる……というフィルム・ノワール的な語りの構造も、読み手に結末への興味を薄れさせている感じがした。

2002-09-12

『〈映画の見方〉がわかる本』

町山智浩/洋泉社[amazon] [bk1]
★★★★

いわゆるアメリカン・ニューシネマの時期の代表作を、歴史的な時代背景・製作の経緯・モデルとなった事件・関係者の発言など、裏舞台の事情を踏まえながら語りなおす映画論集。個々の論点はどこかからの切り貼りが多そうな気もするけれど、僕はこのあたりの映画に関するまとまった記事をほとんど読んだことがなかったので、おそらく多くの資料を集めたうえで要点を押さえて紹介している本書は、お勉強的な意味でもわりと参考になった。

論述の対象になっているのは、『2001年宇宙の旅』『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』『猿の惑星』『フレンチ・コネクション』『ダーティハリー』『時計じかけのオレンジ』『地獄の黙示録』『タクシードライバー』『ロッキー』『未知との遭遇』と、誰もが知っている有名作。アメリカン・ニューシネマの運動全体に関しては、『俺たちに明日はない』(1967)で旗揚げして『ロッキー』(1976)で終止符を打たれた、という流れで紹介されている。その歴史的な評価を本文中から端的に抜き書きすると、

  • 1967年から76年にかけての時期は、勧善懲悪の「ハリウッド・エンディング」を拒否した映画ばかりが製作された特異な時代だった。
  • このとき、映画はただの「見世物」ではなく、脚本家や監督たちの「作品」になった。
  • しかし結局、その後の80年代のアメリカ映画は、論議を招く内容を避ける安全な「製品」に堕してしまう。
  • 1970年代はハリウッドとアメリカ映画の「思春期」だったのだ。

といったところ。まあ、1980年代以降も「勧善懲悪」に縛られず、独自の「作品」を産み出している映画作家はいるだろうと思うけれども(例えばデヴィッド・リンチやコーエン兄弟など)、それらはたいていハリウッドの主流派から外れているといえばそうなのかもしれない。

あとは個別の作品評の感想など。

  • 『2001年宇宙の旅』と『地獄の黙示録』がどちらも「オデュッセイア」を下敷きにしているらしいのは興味深い指摘。
  • 『2001年宇宙の旅』について観光疑似体験映画の「シネラマ」、『地獄の黙示録』についてドキュメンタリー映画『世界残酷物語』を引き合いに出しているのが目新しい。
  • ちなみに僕は『地獄の黙示録』を観て、ディズニーランドのアトラクションを連想した。(「ジャングル・クルーズ」「カリブの海賊」など)
  • 『2001年宇宙の旅』の基本構想はよく「哲学的」「難解」と言われるけれど、『幼年期の終り』を読んでいる人ならすぐに理解できる内容だと思う(逆に見通しが良すぎるくらい)。要するに「オーヴァーロード」が出てこないでモノリスに姿を変えただけなので。
  • 『ダーティハリー』は未見なので観ておこうと思った。(主人公像が私立探偵小説における「自警団」路線の思想と近いような)
  • 『時計じかけのオレンジ』が「アンチ・キリスト」ものだとするなら、やはりキューブリックとジム・トンプスン(『ポップ1280』)は共鳴するところが大きいのだろうな。

全体的に、米国社会の民族問題に絡んだ言及が結構しっかりしている。これらは日本でただ映画を観ているだけではわかりにくいところなので、興味深かった。(著者の他の本ではもっと詳しく語られているようなので、そちらも読んでみたい)

2002-09-13

『わが名はレッド』

シェイマス・スミス/鈴木恵訳/ハヤカワ文庫HM[amazon] [bk1]
Red Dock - by Seamus Smyth (2002)
★★

おれは悪玉なんだ。こんなことをやってるおれを、あんたら嫌悪すべきなんだ。おれは憎むべき男なんだ。おれみたいな男のことは"おれのキャラクターを好きになってくれ"と言わんばかりの小説で読むんじゃなくて、犯罪実話記事で読むんだ。そいつを忘れるな。(p.169-170)

『Mr.クイン』の作者の第二作。前作に続いて、今度は「レッド・ドック」なる職業的犯罪者の計画の顛末が語られる。『Mr.クイン』は結構愉しめたけれど、この作品は前作でも見られた小説技巧への意識の薄さがどうにも気になってしまい、あまり感心しなかった。大きく物足りなかった点をふたつ挙げておくと、

1.語り手が交替しても小説の語り口が変わらない

本作は、職業犯罪者レッド・ドック、若い娘ルーシー・ケルズ、サイコキラー「ピカソ」の三者がかわるがわる語り手を務める一人称多視点の構成を採っている。ところが、語り手が交替しても文章の語彙、語りの調子にあまり変化がなく、世界を見る視点が移り変わっている感じがほとんどしない。これは翻訳を通しているせいばかりではないと思う。

2.主人公の犯行動機が作為的に「謎」として伏せられている

前作の主人公クインがビジネスのために犯罪計画を練る「仕事人」だったのに対して、今回の主人公レッド・ドックは犯行の裏に物語的な真の動機を隠し持っている。それが犯行の経過のあいだは語られないまま「謎」として宙吊りになり、最後に動機が明かされることでこの小説の「裏の物語」が示されるという趣向。ただ、例えば『悪童日記』のような感情を排した語り口ならともかく、この作品はそれぞれの語り手が自分の内面を饒舌に語っているにもかかわらず、主人公の犯行動機だけを意図的に伏せているので、読んでいてとても作為的な印象を受ける。また、主人公の動機の中核を明かせない制約のために、彼の人物像の輪郭が曖昧なものになっている感じがした。(前作のクインは個別の作戦の狙いを説明しないことはあったけれど、犯行計画全体の目標設定は明確にされていたと思う)

これらの小説技巧的な違和感を抜きにしても、主人公と因縁のある人物が次々と結びついてしまう筋書きは、さすがに都合が良すぎて安易な印象を免れなかった。

2002-09-14

『サイン』

Signs (2002)
★★

ううむ、どうしたことだシャマラン……。期待していたM・ナイト・シャマラン監督・脚本の新作だけど、これはどう考えても不発弾だ。早くもネタ切れ、というわけじゃないことを祈りたい。

これまでけれん味とどんでん返しで世間の評判になってきた監督が、腕試しのつもりか突如何のひねりもない筋書きの映画を撮って周囲を逆に驚かせる、という意味で、この作品はデヴィッド・フィンチャー監督の『パニック・ルーム』(2002)と立場が似ている。どちらもヒッチコック風の閉鎖空間スリラーで(おそらくこちらは『鳥』を意識している)、片親家庭を脅かそうとする侵略者を撃退する筋書き。病弱の子供が肝心なところで発作を起こすのも同じ。そして、単調で面白味に欠けるのも同様だった。

ただ、懐かしいジャンクSF/ホラー的な妄想を、あくまでリアリズム的なホームドラマの枠組みで実現する、というこの監督の作家性が出た内容の作品ではあると思う(ちなみに「近親者の死」にともなって「神への信仰」が問われるのは、以前の作品『翼のない天使』の語りなおし)。前半で提示された各登場人物の特性が終盤でひとつの構図につながる趣向は、やはり「伏線/解決」のミステリ的な素養を窺わせる。

対象物をなかなか直接「見せない」ことで想像による恐怖を煽る、という手法がかなり徹底されていて、こだわりを感じさせる。

しかし、全世界を襲撃させておいて、結局ひとりの聖職者に信心を取り戻させるだけ……というのは、話のスケールが大きいのか小さいのか。

2002-09-15

『ケイブマン』

The Caveman's Valentine (2001)
★★★

サミュエル・L・ジャクソン主演のミステリ映画。原作者のジョージ・ドーズ・グリーンが脚本にも参加している。たぶんもとから映像志向の強い作家なんだろう。

内容はほとんど原作に忠実だったと記憶している。公園の洞窟で日々の暮らしを送り、世界は悪役の「怪光線」に狙われているとしきりに主張する電波親父が探偵役になる「特殊探偵」もの。『フィッシャー・キング』(これもNYが舞台)でロビン・ウィリアムズの演じていた妄想ホームレスをミステリの探偵役に持ってくると、こんな感じになるのではないかと思った。妄想の悪役を追いながら事件を解決してしまう主人公像は、『俺はレッド・ダイアモンド』(同じくNYが出発点)に似ていなくもない。

原作を読んだときにも感じたことだけれど、主人公の造形が個性的なわりにプロットが典型的な私立探偵小説を踏襲しているので(虐待場面を撮ったビデオテープが鍵になる、など)、その点はちょっと物足りない。例えば『マザーレス・ブルックリン』(これもNYが舞台か)くらい謎解きの筋道が壊れていたほうが、「特殊探偵もの」としての興味は持続したように思う(そうするとカルト作になってしまうかもしれないけど)。主人公の行く先々で都合良く手がかりが提供される展開も気にかかった。伏線の提示は結構巧くて感心。映像は冬のNYの雰囲気が出ていて悪くない。

2002-09-16

『クレイマー、クレイマー』

Kramer vs. Kramer (1979)
★★★

ダスティン・ホフマン主演の離婚騒動ホームドラマ。前半、妻に出奔された仕事人間の夫が「新しい父親」として目覚めていく描写は説得力があって良かったけれど、子供の養育権をめぐる裁判が前面に押し出される後半はいささか扇情的で退屈な感じがする。原題からしても、当時はまだこういう家庭内のもめごとを裁判で決着する事象が目新しかったのだろうか。ダスティン・ホフマンの等身大の父親ぶりはなかなか格好良く撮れていて、室内場面など映像も端正で心地良い。(撮影:ネストール・アルメンドロス)

アカデミー賞界隈で評価の高かった作品。もう社会への「反抗」はいいから身近な「家族」を問い直そうぜ、という気分が1980年代の潮流だとするなら、時期的にこの作品はそのさきがけということになるのかな。

2002-09-19

『MOMENT』

本多孝好/集英社(2002.08)[amazon] [bk1]
★★

いや、構想は鋭いと思うんだけどなあ……。

作者の前作『ALONE TOGETHER』を読んだとき、

  • 超自然を用いない範囲でも書けるのではないか。
  • 個別の依頼/遂行を反復する話の進めかたは、長篇よりも連作短篇に向いている。

という点が気になっていたのだけど、この作品は、超自然的な設定を用いない範囲で書かれた連作短篇集で、そこにきちんと作者らしい味も発揮されている。

さらに「死期の迫った末期患者の願いを叶える」という主人公の立ち位置がひときわ独特で、物語の探偵役として興味深いものだった。ここでの主人公の事件に対する振る舞い、世界を観察する視点の角度は、限りなく「死者の意思を代弁する」超越的な立場に近づいている。そもそも、ミステリの探偵役の主な任務は「殺人事件を解決する」ことである以上、その立場は何らかの意味で「死者の意思を代弁する」性格を帯びざるをえないはずだ(だから「幽霊探偵」という設定も考案されているのだけど)。ただし原理的に(超自然的な設定でも用いないかぎり)死者からの依頼を直接受けることはできない。この作品の設定は、そういったミステリの基本構造を踏まえながら、超自然を使わないぎりぎりの地点で「死者の代弁者」の視野に肉薄しかけている感じがあって、興味を惹かれた。

そんなわけで構想は申し分ないように思えるのだけど、例によって村上春樹作品を模したような「モラトリアム学生」の主人公による語りが鬱陶しく、読むのがきつかった。特に、将来設計を何も考えないまま、交換留学生のテストを「洒落で受けたら」受かったので留学に行く、と宣言するくだりには、ほとんど嫌悪感をおぼえてしまう。

2002-09-22

古谷利裕さんの偽日記(200209/18)で、映画『アンブレイカブル』の奇怪さが指摘されていて興味深かった。

『笑いながら死んだ男』

デイヴィッド・ハンドラー/北沢あかね訳/講談社文庫[amazon] [bk1]
The Man Who Died Laughing - by David Handler (1988)
★★★★

「あたしはハリウッドに育ったの。現実ではないわ。ここではすべてが見せ掛けなの。見せ掛けが現実なのよ」

かつて天才作家と賞賛を浴びながらもスランプに陥って第二作を書けず、いまは有名人のゴーストライターを請け負っているリハビリ休業中の作家、スチュアート・ホーグ(ホーギー)を主人公にしたシリーズの一作目。探偵役としての主人公の立場が独特でおもしろい。有名人の「自伝」を書き上げる仕事のためにインタビューを重ねる設定で話が進められるので、ある人物の過去の経歴を延々と探っていくというロス・マクドナルド的な探偵行為が、物語内でも「仕事」として必然性のあるものになっている。

結局、これは「有名人の過去のゴシップを掘り返す」話になるわけで、普通ならワイド・ショウ的な覗き見趣味に流れてしまいそうな内容なのだけど、若くして栄光と挫折の両方を味わった(ゆえに他人の名声に対しても超然とした態度を保てる)主人公の透徹した視線が、そのあたりの俗悪さから作品を救っているように思えた。

ハリウッドが舞台になるので映画関連の言及も多い。落ちぶれた元スターの屋敷に住み込み、やがて不穏な犯罪に巻き込まれる……という筋書きは、映画『サンセット大通り』を連想させた。

ただ、このシリーズはたしか他の作品もそうなのだけど、自伝の取材がスリラー的な事件に発展してしまうところに若干の強引さを感じなくもない。また、この作品に関しては、主人公を関係者とのロマンスに巻き込んでしまうので、誰を悪者にするつもりなのかある程度逆算できてしまうのが少しひっかかった。

ところで、若くして世間の評判を集めながら第二作を書けない作家といえば、マイケル・シェイボンの『ワンダー・ボーイズ』(1995)の主人公もまさにそういう人物だった(まあ、さして珍しくない設定といえばそうだろうけど)。そもそもマイケル・シェイボン自身がそういう経歴の作家らしい。彼の第一作『ピッツバ−グの秘密の夏』(1988)が本書と同年に発表されているのは「奇遇」という感じがする。

2002-09-23

今月の「映画秘宝」を拾い読みしてみたら、町山智浩の連載のお題はデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』『ブルーベルベット』だった。『ブルーベルベット』は「少年探偵団+猟奇」だから江戸川乱歩だ!という指摘は悪くないと思う。イングリッド・バーグマン出演の『ジキル博士とハイド氏』(1941)を参照しているという説も興味深かった。(『ジキル博士とハイド氏』はどう考えてもリンチ好みの話だ)

『真夜中のトラッカー』

ジョゼフ・ハンセン/池上冬樹訳/早川書房[amazon] [bk1]
Nightwork - by Joseph Hansen (1984)
★★★

「多くのことが愛と呼ばれます」デイヴが言った。「そして、もっともそれらしくないものが愛だとわかるのです」(p.22)

ゲイの保険調査員、デイヴ・ブランドステッターを主人公にしたミステリ・シリーズの一冊。シリーズ途中の作品にいきなり手をつけてしまったせいか、いまひとつぴんとこなかった。

作者ジョゼフ・ハンセンについては、GAY PASSAGE特集ページで紹介されている。そこで引用されている作者の言葉によると、ゲイの探偵を登場させたのは、あえて伝統的なタフガイ探偵の役を同性愛者に振ることで、従来の(なよなよした)ステレオタイプから逸脱したゲイの人物像を描く意図があったらしい。逆に、「ハードボイルド探偵の役割をこなすゲイ」ではなく「ゲイという属性を持つ探偵」としてこの主人公を眺めると、多くの私立探偵の抱える定型的なマッチョ性(事件関係者の女性と出会うと必ず「品定め」をする、など)から解放された探偵像を提示できているのが興味深い、ということになるのではないかと思う。

この作品で気になったのは、扱われる事件が結局、経済問題に端を発したものに見えること。被害者とその家族は貧民街に住んでいて、経済的な困難から危険な「夜の仕事」を請け負うようになったことが事件の契機になっている。そして、それを調査するブランドステッターは経済的に恵まれている(彼がジャガーで乗り込んでいくと貧民街では目の敵にされるので、わざわざ車を乗り換えることになる)。このため、話全体が何というか「先進国が勝手に発展途上国の心配をしている」感じに思えてしまい、探偵の個人的な動機と重なるものを感じられなかった。

2002-09-24

絶妙のネーミング・センスと無茶な更新量で人気を誇ったフットボール・ニュースのサイト「352」に復活の気配。>0-0 <empate>

リーガ・エスパニョーラ第3節の「ソシエダ×ベティス」が好試合だった(3-3!)。両チームとも良い選手が揃っているなあ。

2002-09-25

『スパイダー』

パトリック・マグラア/富永和子訳/ハヤカワepi文庫[amazon] [bk1]
Spider - by Patric McGrath (1990)
★★★★

日記をつけるのは、過去と現在の区別が曖昧になるのを防ぐためだったはずなのに、むしろつけはじめてからのほうが混乱はひどくなった。(p.120)

パトリック・マグラアの第二長篇。決して出来の悪い作品ではないけれど、期待が大きかったせいか個人的にはいくぶん評価にためらわれるところ。いわば搦め手から、おいそれは無茶だろ、といった構造で平然と怪しい語りが連ねられる『グロテスク』や『閉鎖病棟』と較べると、こちらははっきりと「記憶を歪曲/捏造する」当事者の視点から正攻法で物語られる。このため趣向がある程度見通せて「理に落ちて」しまう感じを否めなかった。ミステリ小説の分野だと、マーガレット・ミラーの精神崩壊系スリラーやトマス・H・クックの「記憶」もの、あるいは映画なら最近のデヴィッド・リンチ監督作品など、部分的に共通する例を思いつけるためもあるだろうけど。(ただし、本来はこの作品のほうがクックやリンチよりも時期的に早い)

主人公の書く「手記」の作中での位置付けがはっきりしないのも気になった。この小説は主人公が部屋でノートに日記を書き綴るという設定で語られるのだけど(それが叙述の信憑性の揺らぎにもつながる)、その日記の外の記述も同様のレベルで小説のテキストとして提示される。その区分けが必ずしも明確にされていないので、読んでいて釈然としない感じが残った。

丹念に描写される語り手の過剰な精神不安、「におい」などの映像化できない(小説ならではの)表現への執拗なこだわりなどは、さすがにこの作家らしい。例によって、語り手が自分の見てもいない場面をもっともらしく描写しはじめる「信頼できない」怪しい叙述の構造も健在だった。加えて、これまでの既訳作品の底意が見えないひねくれた感じとはいくぶん異なり、叙述の揺らぎに語り手の悲哀を汲み取れる内容なので、その意味では意外に一般受けしやすい作品かもしれない。

〔追記〕★3にしておくのはさすがに気がひけてきたので★4に変更。

2002-09-26

『ホラー小説大全 増補版』

風間賢二/角川ホラー文庫[amazon] [bk1]

18世紀のゴシック・ロマンスに始まり、前世紀の「モダンホラー」とそれ以降に至る、ホラー小説の歴史を概括する評論本。

本書の意義は、巻末対談で滝本誠の発言している「ひとつのジャンルをトータルに語りきるというのは評論家にとってひとつの夢だけどなかなか果たせないものです。『ホラー小説大全』のように歴史的にきちんとやったのはあるようでない」(p.406)ということに尽きる。個々の作品・作家評は駆け足なのでブックガイドとしては弱いけれど、ある作家がホラー小説の流れの全体のなかでどのような位置を占めるのか、といった概略を把握する辞書的な意味で参考になった。特に、20世紀以前の時代に関する記述はあまり読んだことがなかったので貴重。

個人的に興味深かったのは、ゴシック・ロマンスが語りの入れ子構造、テキストの多重化といった趣向をすでに取り込んでいることを指摘している箇所。このため語られる内容は「信頼できない」曖昧なものになり(伝聞形式の入れ子構造という意味では、時代は下るけれどジェラルド・カーシュ『壜の中の手記』などはその典型だろう)、それは「何が現実なのかわからない」という不安や猜疑に充ちた世界観を、物語内容だけでなく小説の構造にも反映させたものである、ということになる。『グロテスク』以降、つねに小説の語りの構造にひねりを加えているパトリック・マグラアの「ニュー・ゴシック」路線も、このあたりの積み重ねを踏まえたものなのだろう。(それはキングやクーンツ以降のハリウッド映画的な娯楽小説に対して、小説でしか達成できないものを描こうという異議申し立てでもあるのではないかと思う)

ところで、本書では長期の半引退状態から「過去の人」扱いになっているロバート・R・マキャモンは、今年"Speaks the Nightbird"という作品で復活を果たしているようだ。>Robert R. McCammon

2002-09-29

「ベティス×バルセロナ」は、ベティス完勝(3-0)。3点目は今節のベストゴール決定かな。これは誇張でなく、現時点のベティスは世界最強レベルじゃないか?

『ハートレス』

スティーヴン・P・コーエン/鷺村達也訳/早川書房
Heartress - by Stephen P. Cohen (1986)
★★★

NYのスラム街を舞台にしたハードボイルド探偵もの。探偵役になるのがまだ若い青年で(ただしマット・スカダーのようなアル中でもある)、大人たちの汚れた世界で自分なりの理想を貫こうとする主人公の態度、そして人生を諦めかけて自堕落な暮らしを送っていた彼の「再生」の過程が事件の展開と重なるところに独自性がある。

青春ハードボイルドという意味では、ドン・ウィンズロウのニール・ケアリー連作はまだ書かれていない時期の作品なので、たぶん作者の念頭にはフレドリック・ブラウンの『シカゴ・ブルース』があったのではないかと思う。『池袋ウエストゲートパーク』もこれに近い感じがする。

スラム街の再開発と不動産事業を背景にしているのは、ジョン・セイルズ監督の映画『希望の街』(傑作)みたいで興味深かった。

ただ、女性登場人物の扱いが類型的で、そこから先の展開が予想できてしまった(これは最近読んだものでは『笑いながら死んだ男』も同様)。「ヴァン・ダインの20則」ではないけれど、謎解きにロマンスを絡める場合は、ある程度類型を外すことを意識してもらわないと苦しい。謎解きの意外性を主眼にした話でない以上、先が読めてしまうこと自体は仕方ないのだけれど、作品世界がお約束の作り事にすぎないことが見えてしまうのは興醒めでしかないと思う。

2002-09-30

オンライン書店bk1は2002/10/01から、合計購入額1500円以上で送料無料,サイト運営者自身の購入にもポイント還元の運営方針に変わるらしい。これはどう見ても、amazon.co.jpと張り合うということだろうな。bk1のほうが全般的に書籍の品揃えが良いので、利用者としては便利になりそうな感じ。

『アモーレス・ペロス』

Amores Perros (2000)
★★★

メキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。舞台はメキシコ・シティで、互いに関係のない三つの挿話が「自動車事故」を軸にして交錯するという『パルプ・フィクション』風の構成を採ったオムニバス映画。『パルプ・フィクション』を好きでない者としては警戒気味だったのだけど、思ったよりも良い出来だった。これで尺が2時間を大きく超えず、最後の説明的な台詞がなかったら★4でも良いくらい。

若手の新人監督らしく映像が特徴的。揺れ続ける手持ちカメラ映像、そして構図と採光、特に室内照明の格好良さはスティーヴン・ソダーバーグ監督の『トラフィック』(2000)に近い。内容的にもちょっと『トラフィック』を思い出させた。単に「スタイリッシュな映像」の誇示に終始するのではなく、物語的にもメキシコ・シティの断面を立体的に描き取ろうする意図をそれなりに感じられる。一見すると本筋に関係のないかたちで、別の挿話に結びつく場面をあらかじめ提示する、といった気の使いかたも悪くないと思った。

ただし、各話とも「家族の絆を破る者は痛い目を見る」という因果応報に帰結してしまうのは窮屈な感じもする。(これはカトリックの信仰を背景にしているためなのだろうか)

構成から見てもタランティーノを敬愛しているだろう製作陣なので、さすがに暴力描写は生々しい。近い過去に交通事故などに関係したことのある人と、犬の死骸を見るのが苦痛な人には、気分が悪くなること請け合いなので鑑賞をお薦めしない。

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