▼ 2002.08



2002-08-01

『充たされざる者』

カズオ・イシグロ/古賀林幸訳/中央公論社(上下巻)
The Unconsoled - by Kazuo Ishiguro (1995)
★★★★

「あなたにもおわかりでしょう、ライダーさま。年寄りが、あの重要な転機に別の道を歩んでいたらどうなっただろうかと、ときどき夢想するのがどういうものか。町にとっても、社会にとってもそれは同じことです。ときどき過去の歴史を振り返っては、こう自問するんです。『ああ、もしもかくかくしかじかだったら、いまごろどうなっていただろうか……』と」(p.127/下巻)

これはすごいな……。カズオ・イシグロの第四長篇。世界的に有名なピアニストが欧州のとある町に招かれるという筋書きで、『浮世の画家』の画家や『日の名残り』の執事に続いて「特殊職業」の主人公を語り手にすえた話なのだけれど、とにかく冒頭から巻末まで、読者を困惑させずにはいられない、おそろしく矛盾と破綻にみちた奇怪な語りが繰り広げられる。

なにしろ、主人公ライダーの語る内容にはまるで一貫性を見出せない。この語り手は、誰かと出会うたびにその初対面の人物との(ありえない)「過去の記憶」を次々と思い出して平然と語りはじめ、出会ったばかりのはずの親子はいつのまにか自分の妻と息子ということになっているし、そこらで主人公を呼びとめる人物がよく見ると昔の幼なじみや学生時代の友人だったりする。自分の居合わせてもいない場面での他人の会話が記述されるのは当たり前。行動のほうも不可解なところばかりで、しきりに「とても忙しい」と口にしながら、時刻やスケジュールを確認しようともせず、つねに行きあたりばったりの言動で町をさまよっている。作中の時間は午後かと思っていたらいきなり朝になっていたりするし、主人公に声をかける町の住人たちも、唐突に場違いな長広舌をふるいだす奇妙な言動の人物ばかり。あげくの果てに、主人公の鑑賞する映画『2001年宇宙の旅』には、クリント・イーストウッドとユル・ブリンナーが出演している(!)と断言されるのだ……。などと、突っ込みどころを挙げていたらきりがない。

カズオ・イシグロの前三作(『遠い山なみの光』『浮世の画家』『日の名残り』)も「信頼できない語り手」の小説と評されたようだけれど、これほどリアリズムの文法を度外視した「ありえない」話が平然と語られるわけではなかった。それでいて本作の筆致はいわゆる幻想的なものではなく、一応明瞭な表現にはなっているので、何か細部の描写は正しいのに全体の構図が矛盾した「騙し絵」を見せられているような感覚をおぼえる。その賛否は別としても、とにかく「何だこれは?」という意味での強烈な印象を受けることは確かで、「《これは一体何なんだろう?》と思わせるものこそが最も小説の理想に近い」(奥泉光)とするならば、これもまたいかにもイシグロ的な「小説らしい小説」ということになるのかもしれない。

この作品にはイシグロがこれまで題材にしてきた日本も英国も、もちろん第二次世界大戦も出てこない。日英の文化を端正な筆致で表現する作家、という従来の批評の枠組を取り払って、自分の書きたいことを思いきり書いてみた、ということなんだろう。実際、この作品の多くの登場人物たちが抱えている、過去の取り戻せない人生の選択(あるいは失敗)といかにして折り合いをつけるかという問題、そして人はいつも自分の過去の物語を読み替えながら生きているという思想は、別に新たに出現した主題というわけではなく、イシグロがこれまでの作品でも一貫して描いてきたことには違いない。「何を描くか」よりもむしろ「何を描かないか」によって物語を浮かび上がらせる手法も、これまでの創作態度と共通するものだ。少し様相が異なるのは、従来の作品のようなそれなりに前向きな締めの地点が用意されておらず、物語が破綻したまま幕切れを迎えることだろうか(作中のコンサートと同様に)。題名の「充たされない(癒されない)者」たちは、主人公をはじめとする救いを求めていた作中人物たちであるのと同時に、放り出された読者や批評家のことでもあるのだろう……と考えてみると、これはとても意地悪な小説に思えてくる。

ただ、こういう不敵な実験作はある程度名声を確立した立場の作家でないと発表するのは難しいだろう(まして結構長い)。読者のほうも、たぶんこの作品をはじめに読んでも戸惑いを感じるほうが大きいのではないかと思うので、個人的には手放しで傑作とは言い切りたくないなあ……という気もする。

作中で交わされる会話には、いつも肝心の何かが欠落していて、いかに多くの言葉が費やされても、まともに意思の疎通が成立している場面はほとんど見られない。例えば、主人公はある場所で写真撮影に応じたせいで町全体に波紋を呼び、何度もそのことをなじられるのだけれど、なぜそれが非難されるのか、根本的な理由は誰も明瞭に語らないまま話が進む(このあたりはもはや不条理コメディの雰囲気)。こういった感覚で個人的に連想したのは、デヴィッド・リンチ監督の映画『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』だった。どちらの作品も、作中人物がものごとの真のありようを直視しまいとしている(ように思える)ために、作中の会話が不条理なものになり、事態は混迷を深めていくという点で、イシグロの小説に通じる要素があるのではないかと思う。

2002-08-03

『ウェルカム・ドールハウス』

Welcome to the Dollhouse (1995)
★★★

『ハピネス』のトッド・ソロンズ監督・脚本作品。周りからブス扱いされて友達もいない少女の日常生活を描いた「鬱屈した思春期」もの。『ハピネス』が良かったのでそれなりに期待したのだけれど、この作品は予想の範囲内の展開で、まだその前段階の習作という印象だった。皆に愛される幼い妹に劣等感を抱く主人公の少女の造形は、『ハピネス』の三女にひきつがれているだろうか。

このトッド・ソロンズ監督は「タブーを破る」のが売りの露悪的な作家として認知されているふしもあるけれど、僕は必ずしもこの人はそこに重心を置いているわけではないだろうと考えている。平たく言えば「性欲を超えた愛情はありうるのではないか?」という普遍的な問いを描くために、一般的な意味での性欲の対象外となる人物(もしくは関係)を登場させているのではないだろうか。それがこの作品では性的魅力を欠いた「ブス」の主人公で、『ハピネス』では例えば父親と息子の関係ということになる。本作における主人公のキスシーンなどは、まったく性的な魅力を感じさせないがために(少なくとも僕には)、そこに真摯な愛情を感じられるという場面になっていると思う。全般的にシニカルな人物描写で話を進めながら、要所ではそういったロマン主義的な場面を入れているのが効果的。

トッド・ソロンズ監督は『ハピネス』の次作、"Storytelling"もそのうち公開されるはずなので、ちょっと期待している。(『アメリカン・ビューティー』への皮肉も盛り込まれているらしい……)

2002-08-04

『フィッシャー・キング』

The Fisher King (1991)
★★★

テリー・ギリアム監督。ジェフ・ブリッジズ主演の人情ファンタジー。怪しいホームレスの英雄妄想に付き合わされ(『アンブレイカブル』)、ついでに不器用な男女の恋物語をお膳立てする羽目になる(『アメリ』)、というわけで、内容的には好みの傾向のはずなのだけど、いまひとつ乗りきれなかったのは、この話を2時間にまとめきれていない散漫な構成のせいだろうか。それにギリアムの「ずれた会話」の演出は、似た感じのコーエン兄弟あたりと比較してもいささかくどいように感じられる。

日常生活の隙間にファンタジー的な意匠をまぎれ込ませる構想は魅力的。

〔追記〕上でも少し書いたけれど、ジャン=ピエール・ジュネ監督の『アメリ』(2001)は、この『フィッシャー・キング』を下敷きにした作品だと思う。ジュネ監督は以前の『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』を見ても明らかにテリー・ギリアムの影響を受けている映画作家で、これまでの異世界ファンタジー路線から日常を舞台にした作品に方向転換するとき、先輩のギリアムの軌跡を参考にするのはきわめて自然な流れ。主人公「アメリ」の原型にあたるのが、本作の「恋愛大作戦」の対象になる不器用で引っ込み思案のヒロインだろう。

2002-08-05

『マーク・トウェイン短編集』

マーク・トウェイン/古沢安二郎訳/新潮文庫
★★★★

マーク・トウェインの作品選集。デビュー作らしい「噂になったキャラベラス郡の跳ぶ蛙」や、傑作とされる「ハドリバーグの町を腐敗させた男」などの作品を収録している。

基本的に、とてもありえない話をさも平然と語る「法螺話」的な内容のものが多く、それはしばしば「他人から聞いた」という名目の伝聞形式で語られる。主人公が何の根拠もないでたらめの記事を書きまくって話題を集める「私が農業新聞をどんなふうに編集したか」は、この作家の舞台裏に関する自己言及のようでもあった。

「百万ポンド紙幣」「エスキモー娘のロマンス」「ハドリバーグの町を腐敗させた男」など、人よりも金銭が主役になる、「金銭が人を動かす」構図の話が目立つのは、この作家の個性ということだろうか。

一番好みだったのは「百万ポンド紙幣」。「ハドリバーグの町を腐敗させた男」も、「善意の町」の偽善を暴く皮肉な寓話のような内容で、確かに興味深い話だった。法螺話めいた語り口も含めて、ダシール・ハメットの『赤い収穫』やジム・トンプスンの『ポップ1280』などはこの作品と呼応するのかもしれない(題名を見ただけでもそれらしいでしょう?)。というわけで、マーク・トウェインはさすがに他の作品ももうちょっと読んでおかないとまずいかなと思った。

2002-08-06

『時には懺悔を』

打海文三/角川文庫(1994)[amazon] [bk1]
★★★

「やっぱり探偵失格ですか」
「探偵という職業に、重い荷物を背負わせようとしても無理がある」
「そう決め付けることはないと思いますけど」(中略)
「ロックは生き方だ、という言い方はありえるかもしれないが、探偵は生き方じゃない」
「職業に徹しろと?」
「そして、すべての職業は卑しい」
「ああ、あなた最低」(p.200/HC)

厭世的な私立探偵と探偵入門者の女性が組む、という変則的な形式の私立探偵小説で、『女には向かない職業』の裏返しのような印象を持った。(たしか先輩の私立探偵が殺されて、その事件の謎を追う展開も同じだったはず)

障害児をめぐる家庭内の厳しい状況を事件に絡めているのは、どこかロス・マクドナルドみたいで悪くないし、いわゆる「傍観者」型探偵と「自警団」型探偵の立場の違いを扱っているのは、作者のジャンル的な自意識を窺えて興味深い(わかって書いている人だな、という感じを受ける)。ただ、ほとんど謎解き的な探索がなされないまま事件が解決してしまうので、この話は果たして「探偵」を登場させなければならない必然性があったのだろうか、という意味での根本的な疑問を拭えなかった。障害児をめぐる話を書きたいのなら、例えばソーシャル・ワーカーを主人公にしたほうが適切な選択のような気もしてしまう。

また、新米探偵のヒロインの行動原理の多くを「女の生理」に負わせているように見えるのは安易な感じがする。女性の台詞を書くのに「〜だわ」などの類型的な言葉遣いを避けようとしている点には好感を持てるけれど。

2002-08-10

『審判』

D.W.バッファ/二宮磬訳/文春文庫[amazon] [bk1]
The Judgement - by D.W.Buffa (2001)
★★★

『弁護』『訴追』の作者の三作め。前二作は未読。

リーガル・スリラーの枠組にサイコ的な要素を結びつけた趣向。この手の流行りものを集めた話はウィリアム・ディールの『真実の行方』(これは秀作)ですでに冷や水を浴びせられていると認識していたので、それをいまさらひねらずにやられてもなあ、という感想だった。謎解き的な構造も前半の時点で読めてしまう単純なもの。元運動部員の主人公(弁護士)と元学園のアイドルの回春ロマンスも楽天的すぎて興味が薄い。

犯罪とロマンス、ともにデニス・レヘインの第二作『闇よ、我が手を取りたまえ』を思い出させるところがある。人物造型の安易さもそれに近い感じで、個人的にはこういう米国産娯楽小説でお決まりの「美男美女」の人物造形には興味を抱けなくなってきた。とてもヒーローとは呼べないくたびれた人物ばかりを毎回主人公にしているスコット・トゥローのような作家は、やはり特異な存在なのだろうか。

さすがに法廷場面が始まるとある程度読まされてしまうし、平均的なページ・ターナー娯楽小説として及第点ではあるのだろうけど、それ以上の出来とは思えなかった。

2002-08-12

2002-08-13

『文章読本さん江』

斎藤美奈子/筑摩書房[amazon] [bk1]
★★★

谷崎潤一郎から井上ひさしまで、『文章読本』の諸々に突っ込みを入れ、ついでに世の中の作文教室や学校の作文教育などの流れを概括する。

斎藤美奈子については以前『妊娠小説』の感想で書いたように、この人は「これって結局××だよね」の「類型化突っ込み」が売りの文筆家だと思っている。今回は「文章読本」なんて、またずいぶん突っ込みがいのない題材を選んだなという印象で、きっと本人も途中でだんだん意欲が薄れてきたんじゃないだろうか。本書の構成は、遠い過去(明治とか)の話はやけに詳細なのに、現代に近づくにしたがって内容が駆け足になるという、意地悪にいえば中学校の歴史の授業のような感じになっている。

途中で意欲が薄れてきたんじゃないかと推察する理由はもうひとつあって、それはWebの普及によって「素人」の文章を公開できる場所が増え、本書の想定するような文章の「素人/玄人」の垣根をめぐる事情が大きく変わってしまったように思えることだ。このあたりの論点は最後の付け足しで少し触れられているものの、申し訳程度にすぎない。

ただ、『日本語練習帖』などのような書物が売れているらしいのを見ると、本書の着眼点もあながち的外れなものではなかったのかなとも思えるけれど。

たぶん直系の師匠格にあたるのだろう橋本治の著作(『よくない文章ドク本』)への言及があるのは興味深かった。

2002-08-16

  • m@stervisionリンク集からご来場の皆様、こんにちは。
  • ところで、m@stervisionさんの名前の由来は「主観」→「主+観」→「master + vision」という解釈で良いんでしょうか?
  • 開設日時系列順リンク集「あのころキミは若かった」。実をいえば当サイトは途中に移転しているので、本来の開設日は1999/10/01になると思います。
『文壇アイドル論』

斎藤美奈子/岩波書店[amazon] [bk1]
★★★

流行作家たちの当時の受容のされかた、既成の批評の角度に突っ込みを入れる趣向の評論(あるいはメタ評論)本。

取り上げられているのは、村上春樹、俵万智、吉本ばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫といった面々で、これは要するに「遅れてきた1980年代総括本」なのだと思った。さすがに斎藤美奈子の突っ込みの切れ味には感心するところもあるけれど、すでに「歴史」となりつつある過去の時代の言説を後知恵で切り刻んでいる感じは否めない。wad's読書メモの『文章読本さん江』評が「発想が10年以上古い」と指摘しているのは鋭いと思った。斎藤美奈子は有能な突っ込み手なだけに、自身を他から突っ込まれない「安全地帯」に置こうとすることが多いように見えるのが気になる。

内容的には、その作家に関する既成の言説の流れを整理して突っ込みを入れる「メタ批評」の部分と、著者独自の作家論を述べる「批評」の部分の混在にちょっと違和感をおぼえた。結局、僕の嗜好のせいもあるだろうけど全般的に「メタ批評」よりも「批評」の部分のほうが魅力的に見える。例えば、「どうせみんな謎解きゲームじゃん」的なちゃぶ台返しに収束する「村上春樹論」はさほど新鮮味がないけれど、『なんとなく、クリスタル』の二部構造に合わせて作者の活動に明快な切り口を提示する「田中康夫論」などは興味深く読めた。まあ、後半の文章のほうが、著者も書き慣れてこつをつかんできたという事情もあるのだろうけど。

2002-08-17

  • スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』(白水Uブックス)[amazon] [bk1]、今月再刊されていたんですね。
  • 次は待望の『エドウィン・マルハウス』が来るかも?
『凍てついた七月』

ジョー・R・ランズデール/鎌田三平訳/角川文庫[amazon] [bk1]
Cold in July - by Joe R. Lansdale (1989)
★★★

ハップ&レナード連作以前のノンシリーズ作品。(シリーズ一作めの"Savage Season"は翌1990年の発表)

活発な喋りで魅力的な私立探偵(ジム・ボブ・ルーク)を登場させながら(この探偵は『バッド・チリ』で再登場する)、彼をあくまで脇役に回して、物語の主人公は堅実な一般市民に設定しているのが興味深い。これはハップ&レナード連作の、暴れまわるレナードと振りまわされるハップ、という関係にも通じる。そして、ハップも本書の主人公リチャード・デインも、最終的には正当防衛以外の暴力行為で自分の手を汚すことはない。(個人的には、そのあたりの作者の配慮がわざとらしいようにも感じられるのだけど)

池上冬樹『ヒーローたちの荒野』で、「警察制度が機能する世界でヒーローが動くのが私立探偵小説であり、その世界からヒーローが意識的に遠ざかるのが冒険小説」という指摘がなされていたけれど、本書ではいかにして主人公たちが警察制度をあてにせず、自警団的な行動に出ざるをえなくなったか、という事情が周到に準備されている(そのひとつが、ローレンス・ブロックの『倒錯の舞踏』(1991)でも採用される「スナッフ・フィルム」という小道具)。その意味で、これは私立探偵小説がその形式を逸脱して冒険小説に接近する過程として読むことができるかもしれない。

昨年話題になったボストン・テラン『神は銃弾』は、「普通の市民が警察権力の及ばない無法世界へ導かれる」という意味で、このあたりの系譜を汲んだ作品だろうと思う。(僕自身は『神は銃弾』を評価していないけど)

2002-08-18

  • 村上春樹の新作『海辺のカフカ』公式サイト。何か新作映画みたいなプロモーションだな。
  • すでに発見済みの人もいるでしょうが、前言を翻して自分用のはてなアンテナを作成しています。脈絡のない内容なので、他人の役には立たないと思いますけど。(みんな似たような色なので、ちょっと色調を変えてみた)
『洞窟』

ティム・クラベー/西村由美訳/アーティストハウス[amazon] [bk1]
De Grot - by Tim Krabbe (1997)
★★★

オランダの作家のサスペンス小説。本のカバーには「ハイスミスとトンプスンの中間に位置する、現代ノワール小説の巨匠」(カーカス・レビュー)「非常に精緻な幾何学図」(ニューヨーク・タイムズ)などといった賛辞が並んでいるけれど、これは少なくともノワール小説ではないし、三章構成で時系列の提示をずらして「運命の不思議な交錯」を演出する手法は、『パルプ・フィクション』などの映画で見慣れた程度のもの。特に驚くような内容ではなかった(海外の書評のたぐいがいかにあてにならないものか、実感される)。この時系列構成のためか、前半部はほとんど主人公の視点で(その内面も)語られるにもかかわらず、あくまでも一人称叙述を避けているので、読んでいてぎこちない印象を与える。

2002-08-19

『フォロウィング』

Following (1998)
★★

『メメント』が大受けしたクリストファー・ノーラン監督・脚本の前作。モノクロ映像の低予算スリラー映画。

僕は『メメント』をあまり評価していないのだけど、この作品もいまひとつ感心しなかった。時系列構成をひねったすえに種明かしの提示が「登場人物の説明」によるものになっていて、お世辞にも謎解きの見せかたが巧いとはいえない。(かといって、別の何かがあるわけでもないので物足りない)

それとは別に、実のところこの監督の作家性はポール・オースターの小説に近いところがあるのではないかと思った。本作の主人公は、作家志望ながら都会の片隅で毎日意味のない「尾行」行為を繰り返している空虚な人物なのだけど、この種の登場人物はポール・オースターの探偵小説風の作品(『幽霊たち』など)に登場してもおかしくなさそうな感じがする。そう考えると、『メメント』の主人公の「何も見つからないまま、探偵行為そのものが自己目的化する」という感じも、いかにもオースター的な「空虚な探偵」と似ていなくもない。

最終的に話を「謎解き」に還元してしまう以上、それらのオースター的な要素は本筋を意図したものではないのかもしれない。ただ個人的には、下手なパズルで話を台なしにするするよりは、そちらの文学的(といえなくもない)な方面を伸ばしたほうがいいんじゃないかな……とも思うのだけど。

2002-08-20

『チャーリーズ・エンジェル』

Charlie's Angels (2000)
★★

WOWOWで放映していたのを視聴。どうも僕はこの種のお祭りバカ映画を受容する回路がないようで、これが新時代の娯楽映画だとしたら、別について行けなくてもいいや……と思ってしまった。どうせ主人公たちが勝つとわかっている『マトリックス』風のCGアクションは興味に乏しく、技術屋の自己満足くらいにしか思えない。

ところで「エンジェルズ」は探偵なので、これは一応ミステリ映画といえなくもない。この黒幕の設定は安手のスリラー小説でよく使われる展開だし。

2002-08-23

『彼岸の奴隷』

小川勝己/角川書店[amazon] [bk1]
★★★

「変なこと聞きますけど……いま自分がいる世界が夢なのか現実なのか、わからなくなったことってありませんか」(p.118)

『眩暈を愛して夢を見よ』の作者の前作。過去に凄惨なトラウマを背負った刑事ふたりが女性殺しの捜査に加わって暴走していく、というジェイムズ・エルロイ風の筋書きのクライム・ノヴェル。(やがて殺人事件は「幻の母親殺し」らしいことが判明するので、こちらもいかにもエルロイ的な題材といえるだろうか)

登場人物は誰もが自分の歪んだ欲望のままに行動し、暴力や犯罪、拷問そして人肉食などの残虐で「過激」な挿話がこれでもかと提示される。ただしそれらの描きかたはいかにも戯画的で、どこか真実味を欠いているように思える。作者自身は作中世界の「過激」さから一定の距離を置いていて、決して暴力描写に陶酔しているわけではないのだろう。(だから馳星周の推薦文の「これがリアルだ」みたいな表現は軽率な議論のように思うのだけど……)

『眩暈を愛して夢を見よ』を先に読んでいるので後出し的な批評になってしまうけれど、そういった「世界に現実味を感じられない」、いわゆる元「新人類」世代以降の感覚がこの作品にも投影されている。これは本書の一方の主人公である警察官・蒲生の造形に色濃い。

「じゃあ、あれかい。あんた、親父さんみたいになりたいとか、親父さんの遺志を継ぎたいとか、そういうんでデカになったってわけかい」
「そうじゃないですね。なんだろう……子どものころ、『太陽にほえろ!』とか『大都会』と かよく見ていたからかな……」(P.118)

「仕事も好きな食い物も、全部マンガとかテレビの影響で選んでいるわけだな、あんた」(p.183)

学園ドラマのイメージそのままだ。自分は、自分が通っている学校の現実の校長より、メディアを通して植えつけられたイメージの校長のほうをリアルに感じていたというわけか。苦笑しそうになった。(p.250)

この警察官は、現実世界の出来事よりも虚構の物語をリアルで身近と感じる一方で、周囲の人間関係にはほとんど関心を払わず、別居中の娘とは留守番電話を介して声を聞くだけの関係しか持てない人物として描かれている。

さらに終盤に到達する地点では、「記憶の改竄」「物語の捏造」といった志向性も顔を出してくる(このあたりはジム・トンプスンやアーヴィン・ウェルシュの作品などに通じるところがある)。『眩暈を愛して夢を見よ』での物語の壊しかたも、この延長上にあるのだろう。

群像犯罪劇としては、必ずしも充分に成功している作品とはいえない(例えば、クライマックスの場面で蒲生と変態やくざの八木澤を「共鳴」させるのであれば、事前にふたりをどこかで会わせておくべきだったように思う)。それでも、内容の「過激」さよりもむしろ現実認識の揺らぎ、リアリティを疑う醒めた態度において、どこか気になる作品なのは確かだ。

2002-08-25

『¥999』

フレデリック・べグベデ/中村佳子訳/角川書店[amazon] [bk1]
99 Francs - by Frederic Beigdeder (2000)
★★★

広告業界のエリート社員の空虚で荒んだ生活を描いたフランスの小説。作者自身も広告代理店の人なので、これは実体験にもとづく暴露本ということになるのだろう。

単なる「業界内幕」ものというのではなく、この作品の思想は、広告業界こそが現代の資本主義社会を扇動する巧妙なファシズムの担い手なのだという認識にもとづいている(ついでに、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が引き合いに出されてもいる)。だから「広告マン」の空虚な生活を描くことで、ひいてはそれに踊らされる現代社会全体の空虚さがあぶり出されるという趣向になっている。

睡眠不足のような病んだ文体は、『アメリカン・サイコ』や『ファイト・クラブ』などに通じるものがあり、何不自由のないエリートが理由のない犯罪に手を染める空虚な感覚は、チャールズ・ウィルフォードの『危険なやつら』を思い出させる。(そういえば、マイアミが舞台になるのも同じだ)

ありそうでなかった感じの小説で、興味深い内容だけれど、「国内限定」ではないかと思える要素がふたつあったのが気にならないでもない。

ひとつめは、章ごとに「一人称/二人称/三人称」「単数/複数」をめまぐるしく変えていく書法。これはフランス語ならきっと読者を巻き込むおもしろい試みなのだろうけど、人称意識の薄い日本語訳ではいまひとつその効果を感じ取れなかった。(当然、翻訳が悪いわけではない)

もうひとつは、実際のコマーシャル・フィルムの具体名や映像を引き合いに出して、読者に共時性をもたらそうとしているところ。これは、日本の読者にはなじみのない広告も多く、どうしても実感が湧きにくかった。

というわけで、「君も広告に操られているだろ?」的な作者の仕掛けは、日本の読者には届きにくいものになっていると思う。まあ、フランス人の作者がそこまで海外の読者を意識しなければならないいわれはないので、しかたないのだろうけど。

2002-08-31

  • everything COOLで絶賛の青春映画『ドニー・ダーコ』
  • ところで、スピルバーグ/キング路線(というものがあるとして)を受け継ぐ現在のエース格といえば、間違いなくM.ナイト・シャマランだと考えているのだけど、どうだろうか。
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