▼ 2002.07



2002-07-01

ワールドカップ日記(その9)

【韓国 2-3 トルコ】

三位決定戦。試合内容はちょっと大味だったけれど、両軍の選手が手をとり合って挨拶するさわやかな幕切れには文句のつけようがない。良い光景を見せてもらった。

トルコはハサン・シャシュが休みで、ハカン・シュキュルとイルハンのツートップで先発を組んだ。特徴だった中盤の速いパス回しは失われたものの、FWの連係で(これまで遠かった)得点には結びついている。まあ、この試合の状況だけでは参考にならないけれど、どちらを取るのか悩みどころかもしれない。

この日も活躍のトルコGKリュシュトゥはキックの精度も高いようで、彼の最後尾からのフィードがそのまま得点につながった場面もある。前回のフランス大会でも感じたことだけれど、GKは優秀な選手でも言葉の壁などがあって比較的国外へ出る機会が少ない。その結果、ワールドカップは各国の(あまり見る機会のない)優秀なGKの活躍を見られる格好の場になっているように思った。

【ブラジル 2-0 ドイツ】

決勝戦。それにしてもカーン様がこれほど巷の人気を集めるとはちょっと予想外の展開だった。試合はまさにその主役、GKカーンのファンブルをロナウドに押し込まれてドイツの敗戦。試合後の情報ではその直前の接触プレイで手を負傷していたらしい……ということで、伝説がまたひとつ増えたことになるのだろうか。試合終了前から感動で泣きじゃくるロナウドの姿が印象的だった。イングランドのベッカムもそうだけど、ワールドカップでの借りはワールドカップでしか返せないものなのかもしれない。

ドイツの采配は結果論からいえば、ビアホフを投入するのならクロスを狙えるツィーゲももう少し早く見たかった。でもバラック不在のわりによく攻めていたとは思うけれど。

2002-07-02

「バット男」

「群像」2002年2月号に掲載されていた舞城王太郎の短篇「バット男」を読んだ。

舞城王太郎の作品としてはたぶんはじめて、独特の投げやりな犯罪/殺人描写がほとんど出てこない小説で、そのせいかこの人ならではの味が足りない感じがする。あのジャンク的な犯罪描写は思いのほか、舞城の作品世界の根幹を成していたのかもしれない。

強烈な個性の男女のやりとりを傍観者的な立場で眺めている語り手の「僕」、という巻き込まれ型の物語構図は、村上春樹の諸作品を思い出させる。(以前の作品でも、レイモンド・カーヴァーやポール・オースターなど、「春樹系」の文脈でおもに紹介されてきた海外文学の作家への言及があったし、これは本人も意識しているのではないかと思う)

さらに、基本的にダイアログではなくモノローグ志向の作家である、という点も村上春樹と共通している。何というか、この作品で描写される会話は、どれも同じ人の言葉のようで、異質な声がぶつかり合っている感じがしないのだ。そのあたりがこの作者の今後の課題かなとも思うのだけど、ただしウェブテキストとの親和性は相当に高いといえるのかもしれない。(作中には某巨大掲示板らしき媒体も登場する)

2002-07-03

『その言葉を』

奥泉光/集英社文庫[amazon] [bk1]
★★★

奥泉光の初期作品「その言葉を」と「滝」を収録した中篇集。

「その言葉を」は、高校時代の旧友に偶然再会したらまったく別人のようになっていて……という話。「青春の終わり」の物語という意味では『葦と百合』を連想させるし、ジャズ音楽を前面に出しているところは後の『鳥類学者のファンタジア』の原型のようでもある。これが奥泉光の出発点にあたる作品なのかなと思う。特に、ジャズのテナーサックスをひそかに練習していた旧友を評しての主人公の言葉、

他者との交わりを離れたところでは、ドラムスがただの騒音製造機でしかないのと同様、テナーサックスは鈍重な吠え声を発する馬鹿なの器械にすぎず、孤独の鍛練に価値があるのは、それがひたすらセッションの「実戦」に向けられるものだからで……(p.34)

といった記述は、そのまま『鳥類学者のファンタジア』における主人公と曾祖母の音楽に対する立場の違いに結びついているだろう。(それはもちろん、作品を世間に発表しはじめたばかりの新人作家の立場とも重なるはずだ)

「滝」は山奥で生活を送る宗教団体(のような組織)の少年たちの話。特におもしろくはなかったような……。「『滝』は夢の中から生まれた小説だ」という作者あとがきの自作評は、他のいくつかの奥泉作品にも当てはまるかもしれない。

両作品とも、初期の作品だけに文章がまだちょっと弱いような感じを受ける。現在の奥泉の文章力がそれだけ卓越しているということでもあるのだけれど。

2002-07-04

『PNDC/エル・パトレイロ』

El Patrullero (1991)
★★★

メキシコを舞台にした警官もの。主人公が新米の交通巡査なので、いわゆる「刑事もの」映画というよりは、ジョゼフ・ウォンボーの警察小説(『クワイヤボーイズ』の感想を参照)などのような「パトロール警官の日常」を描いた話に近い。

前半は新米警官が汚れた現実世界と折り合いをつけていく過程を描くという、さほど珍しくない構図の話。物語の中盤で主人公が足を負傷してからの演出が独特で、終始足を引きずって行動する主人公の不安定な視点をしつこく追っているのが興味深かった。

2002-07-05

『ぬかるんでから』

佐藤哲也/文芸春秋[amazon] [bk1]
★★★

佐藤哲也の短篇集。この作家の小説を読むのははじめて。正直なところ、この種のつかみどころのない短篇小説はあまり得意でないので評価しづらい。長篇作品も読んでおこうかと思う。

どの作品も、他人の夢を覗き込んだかのようなシュールな情景が、それに反した律儀でユーモラスな文体で語られる(律儀であることがユーモラスになるという、ちょっと独特の筆致)。「夢」的だと感じるのは、話の導入部と後半の展開にほとんどつながりがない構成になっているからだろうか。

表題作の「ぬかるんでから」は、世界が破滅に瀕した黙示録的な状況下で妻が人々の救世主になるという、ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』と類似した話(読みくらべてみると興味深いかもしれない)。朝の通勤風景が異様な世界へとねじまがっていく「とかげまいり」には、R.A.ラファティの「町かどの穴」のような法螺話の才能を感じた。

2002-07-06

『ヒーローたちの荒野』

池上冬樹/本の雑誌社[amazon] [bk1]
★★★★

「本の雑誌」連載のコラムをまとめたもの。いわゆるハードボイルド小説の批評集。私立探偵小説の従来の伝統を踏まえたうえで、対象作品にしっかりと分析的な論点を示してくれるので勉強になる。例えば、「警察制度が機能する世界でヒーローが動くのが私立探偵小説であり、その世界からヒーローが意識的に遠ざかるのが冒険小説」(p.29)とか。かつての内藤陳などの印象で、ハードボイルド批評なんてどうせ評者が勝手に感動している「男泣き」系の文章ばかりなんでしょ、と思っている人も、本書を読んでみると考えが変わるかもしれない。

ただ、元の連載時の分量が限られているので、まとめて読むともうちょっと突っ込んだ論評や、他の作品への言及も読んでみたくなるのもたしか。(それだけの余力のある評論家だろうと思うので)

当時人気を集めた『マークスの山』や『テロリストのパラソル』に疑念を呈しているのは痛快。好意的な文脈で紹介されている北方謙三『棒の哀しみ』や打海文三『時には懺悔を』などは読んでおこうと思った。

あと、ひとつ気になったことを書いておくと、この種の批評本の巻末には、取り上げられている作品名の索引が必要だと思う。

2002-07-17

  • サム・メンデス監督の新作、"Road to Perdition"アメリカTV/映画ノーツ)。内容には疑問もあるようだけど、コンラッド・ホール撮影のギャング(ノワール?)映画というだけでも一見の価値はありそうだ。

2002-07-19

『マーティン・ドレスラーの夢』

スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸訳/白水社[amazon] [bk1]
Martin Dressler: An American Dreamer - by Stephen Millhauser (1997)
★★★★

名作『エドウィン・マルハウス』以来になる、待望のミルハウザーの長篇翻訳が遂に刊行されたわけだけれど、この作品に『エドウィン・マルハウス』の完璧な精巧さを期待してしまうといくぶん肩透かしかもしれない。ただし、『エドウィン・マルハウス』はほとんど神の領域に達しかけた奇跡的な傑作なので、いかにミルハウザーといえどもあれを超える作品をふたたび書くのは至難の業だろう。この作品はミルハウザーの最高作とはいえないにしても、それなりに良い小説ではあると思う。

ミルハウザーのように一定傾向の小説を書き続けている作家に関しては、どうしてもこれまでの作品とどこが共通してどんなところが異なるか、といった視点を意識して読まざるをえない。その意味で、この作品はいかにもミルハウザーらしい要素と、一見ミルハウザーらしからぬ新機軸の展開とが同居しているのが興味深かった。

いかにもミルハウザー的だと感じるのは、ひとりの人物の伝記のような物語形式で、何らかの精緻な芸術作品を創造すること、内なる世界を具現化することにすべてを注ぎ込む人物の姿を描いているところ。これは柴田元幸の解説でも指摘されているように、「アウグスト・エッシェンブルク」や「幻術師、アイゼンハイム」「J・フランクリン・ペインの小さな王国」などの中短篇で繰り返し語られてきたパターンの長篇版ということになる。マーティン・ドレスラーの建造するホテルの内部描写が、後半になるととめどない想像力の波に押し切られて、いつのまにか実現不可能な夢幻的領域に入り込んでいくところなども(建物の描写は短篇「バーナム博物館」を想起させる)いかにもミルハウザーらしい筆致。主人公の創作に対して、それを商品として消費する一般大衆と、批評する評論家たちの言説が配置される構図は、これまでの作品と同じく作者の創作論、小説論を重ねて読むこともできる。(書くたびに本が分厚くなり、徐々に支持者もついていけなくなって離れていく……という展開は結構ありそうだ)

逆にミルハウザーらしからぬ意外な展開に見えるのは、主人公のマーティン・ドレスラーに商才と社会的野心がありそうに思えるところ。「アウグスト・エッシェンブルク」や「J・フランクリン・ペイン」などは、子供の心を持ったまま大人になったような、外界への興味を持たない職人的な芸術家だから、彼らが世間に認められるためには、主人公ほどの芸術的な才能はないかわりに世知に長けた、いわば主人公の世俗的な分身のような人物の仲介が必要とされた。本書のマーティン・ドレスラーはアメリカ的な独立独歩の実業家でもあるので、その種の人物の協力を介さずに成功をつかむことができる(後半で職業的な広告屋を雇ってはいるけれど、それ以上の重要な存在になるわけではない)。このあたりの展開は、「建造する/成長する」という二重の意味での「ビルドゥングス・ロマン」の線を狙っているのかと思わせるものの、最後まで読めば、このマーティン・ドレスラーもやはりミルハウザー流の夢想家に変わりはないのだとわかる。社会的な成功に見えたものは、たまたまその途上で交わった通過点にすぎないのだ。

ただ、作者ミルハウザーがこの作品で、みずからの得意とする夢想的な芸術家の物語と、いわゆるアメリカン・ドリーム的な成功とをクロスさせる構想を試みているのは確かだと思う。それが成功しているかというと微妙なところで、この作品に関していえば、これまでミルハウザーの選んできた「自動人形」「奇術」「アニメーション映画」などの儚い「幻術」の世界と、アミューズメント・パーク的なホテルを建造するという本書の題材は、必ずしも合っていないのではないかと感じた。実体のある建築物はひとりの力で造られるものではないので、作品の構築が主人公の内なる想像力を具現化するという側面も弱くなっている。(そのあたりをぼかした書きかたをしているので、文章の歯切れが良くない感じもした)

ちなみに、マーティン・ドレスラーの活躍したのは20世紀初頭あたりの時代のようだけれど、その少し前、1890年の米国の国勢調査で「フロンティアの消滅」が宣言されていることは記憶しておいてもいいかもしれない。つまり当時は、アメリカに未開拓の地はもうなくなったという認識が広まっていた時期だった。水平方向の拡大が打ち止めになれば、やはり垂直方向に目が向いてくるわけで、おそらくマーティン・ドレスラーはそんな時代の申し子でもあるのだろう。

2002-07-20

『沢蟹まけると意志の力』

佐藤哲也/新潮社(1996)
★★★★

「するとなにかね、この連中が仲間割れをしてわたしにひどい口のきき方をするのは君の指導の成果なのかね」
「そういうことになります。つまりわたしも企画統括部の連中に負けないほど研究をしたわけです。その結果わかったのですが、複数の改造人間がいる場合、個々の改造人間は他の改造人間に対して必ず無意味な自己主張をして協力関係を初期の段階で破壊してしまうのです。様々なケースを見てパターンを研究しましたが、例外は劇場版くらいで概ねにおいて共通しているというのがわたしの結論です。世界征服を狙う組織の改造人間は集団行動に馴染めない自滅的な因子を背負っていると考えるべきでしょう」(p.153)

佐藤哲也の第二長篇。頭から尻まで飄々とふざけきった法螺話小説で、これはおもしろかった。特撮ヒーローものの滑稽なパロディでも、官僚的な企業社会をコミカルに皮肉った風刺小説でもあるけれど、何よりここには言葉の力(もしくは「堅牢強固な意志の力」?)だけで世界を捏造してみせる、小説の歓びがある。クライマックスがいまひとつ弱い気もするので、これが完成型の傑作だとは思わないけれど、たしかに興味深い作家だと感じる。本筋のはずの「沢蟹まける」の話に全体の半分程度の分量しか割かれない、確信犯的な脱線ぶりもすごい。

書きかたで独特なのは、同じフレーズや会話をしつこく反復することで滑稽さを演出している箇所がやたら目立つこと。これは落語か何かのリズムなのだろうかと思ったけれど、「SFマガジン」2002年8月号の著者インタビューで、佐藤哲也が筋金入りのモンティ・パイソン愛好家らしいのを知って納得した。「モンティ・パイソン」のコントは、有名な「スペイン宗教裁判」ネタをはじめ、執拗な繰り返しそのものが笑いを生むという手法(まだそれをやってたのかよ!という突っ込み)をよく採用しているからだ。本書に登場する、特撮ヒーロー、企業組織、通勤電車、老婆の昔話などのモチーフは、どれもそんな反復と形式化によって構成されるものでもある。

読みながら連想したのは、清水義範の短篇「猿蟹合戦」で、これは昔話の猿蟹合戦を司馬遼太郎の文体で語ってみせるパロディ小説(個人的にはこれを読んでから、司馬遼太郎の作品をまじめに読めなくなった)。猿蟹合戦を下敷きにしているところだけでなく、内容と語り口の齟齬によっておかしみを出すという構想にも通じるものがある。

2002-07-21

『妻の帝国』

佐藤哲也/早川書房(2002.06)[amazon] [bk1]
★★★★

佐藤哲也の第三長篇。私の妻の内職は「独裁者」だった……!という構図のもとで、「民衆感覚」なる直感に支配された独裁国家の革命の行方を描いた仮想ポリティカル小説(というと半分嘘のような気もするけど)。前二作『イラハイ』『沢蟹まけると意志の力』で展開された、この作者らしい「論理的に導かれる不条理」の味を保ちながら、地に足のついたリアリズム小説の文法に近づいているのが興味深い。大きな嘘の枠組みの上に、もっともらしい細部の描写を積み重ねる手堅い書法。舞台を現実の日本(と思われる国)に設定して、語りの構造も前二作のように超越的な立場ではなく、語り手が物語内の(不自由な)主人公としても行動する一人称叙述になっているので、物語性は強くなっている。

革命の中枢から外れた普通人を視点人物に据えることで、仮想歴史の社会情勢を立体的に描きとる、という戦略は悪くないけれど(佐藤亜紀の『戦争の法』と似た構造だろうか)、そのために終盤の落としどころが弱くなっている感じがした。『沢蟹まける〜』にも似たようなところがあったので、この作者は物語の幕を下ろすのが得意でないのかもしれない。

作者あとがきによると、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』とソルジェニーツィンの『収容所群島』を踏まえて書かれたそうだけれど、それとは別に僕が読んでいて思い出したのは、ジョーゼフ・ヘラーの名作『キャッチ=22』だった。どんなところが似ているかといえば、

  • 人々が決まりや論理に「忠実すぎる」ことによって、不条理で滑稽な状況が生まれる。
  • 細部の整合性にこだわって大局を忘れた会話が繰り返される。
  • 人の自由意志よりも文言や書類が優先される。
  • そのため郵便配達員が権力を握っている。

などといった点。全体的に「官僚制の悪夢」を描いた話で、誰も逃れられない空洞の論理(「キャッチ22」と「民衆感覚」)が物語世界を覆っているところも共通する。

ちなみに、この話のハードボイルド版にあたるのが、ドナルド・ジェイムズの『モスクワ、2015年』ではないかと思う。(ただ単に「妻が政権幹部」つながりという気もするけど)

2002-07-22

『イラハイ』

佐藤哲也/新潮文庫(1993)
★★★★

佐藤哲也の第一作。これも良かった。架空の王国「イラハイ」を舞台にした小説。行く先々で無意味に論理的なやりとりが繰り返されて、本筋から脱線しつづける独特の語り口を堪能できる。

先に書いた『妻の帝国』の感想で、ジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』を連想したと述べたけれど、この作品にも『キャッチ=22』的な要素がふんだんに盛り込まれている。(むしろパロディ的なこの作品のほうがその印象は強いだろうか)

柴田元幸は『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)で、『キャッチ=22』を次のように評している。

実際、論理のよじれを主たるギャグ源としているように思えるこの小説で、もっとも典型的な笑いは、むしろ人々が論理にあまりに忠実に従うことによって起こる。(中略)論理が杓子定規に守られることによって、仕事は進まない。仕事が進まないくらいならいいが、たとえば人の命を守ることよりも論理を一貫させることのほうが優先されるとなれば、笑い話では済まない。(p.94-95)

佐藤哲也の小説でも、しばしばこれと似たような「人々が論理に忠実すぎるために話が進まない」展開が見られる。

別の者は屋根穴職人が五人もいることを指摘し、屋根に穴を開けて脱出しようと提案したが、並み居る屋根穴職人は誰もがその仕事を断った。屋根穴職人にとって屋根の穴とは上から開けるべきものであり、間違っても下から開けるべきものではなかったからである。ふたりの大工も同じ仕事を断った。屋根穴職人ができないと言ったことを大工がすれば、友情を損なうことになると考えたためである。石工に頼んで壁を崩してみてはどうかと言う者もあったが、石工仲間の関係が傷つくのを恐れて当の石工は拒絶した。(中略)/こうなれば誰の目にも、打つべき手が断たれているのは明らかであった。(p.167-168)

王は歯軋りをして奴隷の肩を踏みにじり、兵士たちに命じて足場を崩して縄を切れと叫んだ。この命令に兵士たちは戸惑い、その戸惑いを代弁すべく隊長が前に進み、王に向かってこのように言った。
「失礼ですが、足場を崩せば塔に登るための手段は縄だけになり、その縄を切り落とせば塔からは最早降りられません。もし足場を崩して縄を切り、なおかつ窓を塞げというご命令であれば片道を覚悟の決死隊が必要になります。わたしには部下にそのような任務を強要することはできません」
すると王は首を傾げてこのように言った。
「足場を登って縄を切り、窓を塞いでからまた足場を伝って地上に降り立ち、その上で足場を崩せば済むことであろう」
王の言葉に兵士たちは顔を背けて口々に不満を漏らし、ある者が小声で命令はすり替えられたと仲間に耳打ちすれば、また別の者は声をひそめて我々の目前でたった今、不正が行われたのだと呟いた。(p.280-281)

これらの場面では、登場人物がそれぞれ些細な論理的整合性にこだわり続けるあまり、本来の大きな目標は見失われてしまっている。だから『イラハイ』の世界のなかでは、事態は一向に解決の気配を見せないし、物語はいつまでも前進しないまま(本筋のはずの「冒険物語」はほとんど先へ進展しないまま放置される)、思わぬ方向へとよじれ続ける。

2002-07-23

『君に愛の月影を』

Les Caprices de Marie (1969)
★★★

フィリップ・ド・ブロカ監督のロマンティック・ファンタジー。英語版のビデオで観た。

フランスの小村で暮らしていた若い女を米国の大富豪が見初め、彼女を愛する内気な主人公は身を退こうとするが……という話。俗世から隔離されたユートピア的な小村の描写が美しく、これをめぐって物語が展開される構図は名作『まぼろしの市街戦』を想起させる。後半にこの監督らしい、「夢の世界」と現実が逆転する着想が用意されているのはさすがに心地よい。結婚式を遅延させることで話を進める手法は、『或る夜の出来事』なんかを連想させた。

主人公が最後まで積極的な行動に出ないまま、恋物語を成就させているのは物足りない。全体に愛すべき佳作ではあるものの、その域を超える作品ではないと感じた。

2002-07-24

『ゴースト・オブ・マーズ』

Ghosts of Mars (2001)
★★

ジョン・カーペンター監督の新作。ゾンビホラー風のB級活劇で、どうもこの種のジャンルの映画はどこを愉しめばいいのかいまだによくわからない(『死霊のはらわた』なども何が良いのかわからなかった)。回想モードを重ねる構成も安易。こういうのをアメリカ開拓史なんかと重ね合わせて持ち上げる言説も飽きたなあ。

音楽(byカーペンター)が必要以上の派手な大音量で印象的。

2002-07-25

『セコーカス・セブン』

Return of the Secaucus 7 (1980)
★★

ジョン・セイルズ監督の第一作。学生時代の仲間たちの再会を描く「同窓会」もの。あまりぴんとこない内容だった。この趣向では登場人物それぞれの個性がある程度誇張されていないと区別がつきにくいし、1960年代の学生運動を留保なしに懐かしがられてもいまさら共感のしようがない。

奥泉光が、多くの作家は自分の青春を清算するところから創作をはじめる、といった内容のことを書いていたけれど(『その言葉を』あとがき)、ジョン・セイルズもそういう人なのかな。

2002-07-26

『ダスト』

Dust (2001)
★★★

ミルチョ・マンチェフスキー(『ビフォア・ザ・レイン』)監督作品。NYスラム街のチンピラが、忍び込んだ家でなぜか老婆の語る波乱万丈の「英雄譚」を聞かされて……という話。要するに「物語についての物語」の映画で、現代文学系の小説で試みられていそうな感じの趣向。その路線をきちんと踏襲した作品だとは思うものの、どうも既視感をおぼえる展開が多かった。古い写真から20世紀を縦断する物語を捏造する構想は、リチャード・パワーズの小説『舞踏会へ向かう三人の農夫』を思い出させるし、ねじれた時系列構成のすえに結局「飛行機で隣の乗客に打ち明け話をする」展開が挿入されるのは『スウィート・ヒアアフター』などで見たことがある。

2002-07-27

『クレイジー/ビューティフル』

Crazy/Beautiful (2001)
★★★

カースティン・ダンスト(という読み方に従うことにする)主演の青春映画。富裕家庭の不良白人娘と貧しいヒスパニック系の青年が恋に落ちるという、異人種/階級間ロマンスもので、ジョン・セイルズ監督の『ベイビー・イッツ・ユー』を思い出した。(これはユダヤ系の優等生とイタリア系の不良青年の恋愛もの。優等生/不良の配置は男女逆だけれど、男のほうがやたらハンサムなところは似ている)

富裕家庭で育てられた自堕落な娘、というのは昔からよくある類型の登場人物だけれど(ドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』など)、本作のカースティン・ダンストほどの説得力を持って演じられているのはほとんど見たことがないような気がする(しかもそれなりに魅力的なのが怖い)。これは一見の価値があると思うものの、幕切れがいかにも楽天的に思えるのを見ると、ティーンズ・アイドル映画の企画のはずが、俳優の演技力のために一瞬A級映画に見えてしまうという(『トレーニング・デイ』のような?)現象だったのかもしれない。

『スパイダーマン』では賛否両論のようだったけれど、この映画のカースティン・ダンストは良いと思う。

2002-07-28

『プレッジ』

The Pledge (2001)
★★★

ショーン・ペン監督作品(出演はしていない)。ジャック・ニコルソン演じる定年退職した刑事が、引退直前に担当した少女殺人事件の犯人探し(遺族と交わした「約束」を果たすこと)の妄執に埋もれていく話。

犯人探しの「探偵」行為が妄想の域に達するという話はさほど珍しくないものの(『ブラック・ダリア』とか)、ここまでそれを貫徹した作品は稀有かもしれない。その意味で、ミステリ読みとしてはそれなりに一見の価値はある作品ではないかと思った。ただし、この種の破滅型/精神崩壊系の話はもはや一種のパターンになっている気がして、そこを突き破るような新味は感じられない。ジャック・ニコルソンがこの役柄というのは『シャイニング』と同型のように思えるし。

ナボコフの『ロリータ』の主人公は運命の少女(ロリータ)と同居したいがためにその母親と結婚する選択をしたけれど、本作の主人公は少女を「犯人を釣り上げるための餌」として泳がせる目的でその母親と同居する(道端の店を買った主人公が「釣りが目当て?」と問われるのはダブル・ミーニング)。その徹底した鬼畜ぶりにはさすがに驚いた。特に女性の観客は相当な嫌悪感をもよおすのではないかと思う。

フランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション/盗聴』にも似ているだろうか。

2002-07-29

『グリフターズ/詐欺師たち』

The Grifters (1990)
★★★

ジム・トンプスン原作、ドナルド・E・ウェストレイク脚本作品なので、さすがに見ないわけにもいかないだろうかといまさら鑑賞。ただし個人的に、原作の『グリフターズ』はトンプスンの歪んだ母子相姦的な性向があからさまに出ているのを除けば、あえて映画化するほどの魅力的な作品とは思えない。この映画版も、男は誰も信じられず、女はいつも相手を裏切る、といった感じの古風なパルプ・ノワールを再演しているようにしか見えなかった。コーエン兄弟やデヴィッド・リンチが登場してきたあとに、こういう昔風の犯罪映画を撮らなくても良いだろうと思うのだけど。

また、「異様に若い母親」役のはずのアンジェリカ・ヒューストンが全然若々しく見えないので、トンプスンの原作にあったいびつな三角関係の雰囲気が薄れている。

監督はスティーヴン・フリアーズ。マーティン・スコセッシも製作に絡んでいるようだ。(そういえば、いま思うと『タクシードライバー』はジム・トンプスンの『死ぬほどいい女』に似ているかもしれない)

2002-07-30

『ヒーロー/靴をなくした天使』

Hero (1992)
★★★★

スティーヴン・フリアーズ監督、ダスティン・ホフマン主演作品。

wad's 映画メモでも指摘されているように、明らかにフランク・キャプラの『群衆』を下敷きにしている作品。マスメディアによって作られたまがいもののヒーローが人々に「希望と感動」を与える展開、飛び降り自殺しようとする男を止めようとするクライマックスの場面の演出は、ほとんどそのまま『群衆』をなぞっていて、あの作品を現代風の味つけで語り直そうという狙いなのだと思う。

キャプラ映画の語り直しという文脈では『未来は今』(1994)や『ショーシャンクの空に』(1994)(どちらもティム・ロビンス主演だな)にさきがけているし、飛行機事故をきっかけに普通人が英雄に祭り上げられる話でいえば『フィアレス』(1993)よりも早い。そんなわけでこれはなかなか興味深い作品だった。

『群衆』はキャプラ映画にしてはかなり皮肉な展開を盛り込んだ話なのだけど、それだけに楽天的な幕切れが内容とそぐわない不徹底なものにも見えた。本作は「ヒーロー」の役割をふたりの人物に分担させることで、そのあたりを巧妙に乗りきっているのに感心する(逆にいえば、『群衆』を知らない人がこの作品を観て愉しめるかどうかはわからない)。ダスティン・ホフマンが本当にけちなこそ泥なのも、ちょっとひねくれた感じで良い。

主人公が事故現場で靴を片方失くして、靴のサイズが幻のヒーローを探す条件になるのは、いうまでもなく「シンデレラ」。ホームレスが偽者の英雄になるのは「王子と乞食」あたりだろうか。これはもう「現代の御伽噺」をやりますよ、というのをあらかじめ宣言しているのだと思う。

ちなみにもう一作、『群衆』を語り直している最近の作品を挙げておくと、ロン・ハワード監督の『エドTV』(1999)。これも主人公がせこい小人物なのが良かった。

2002-07-31

『エイトメン・アウト』

Eight Men Out (1988)
★★★

ジョン・セイルズ監督・脚本。1919年にメジャーリーグのワールド・シリーズで起きた八百長スキャンダルを題材にした映画。鉱山町での労働紛争を描いた『メイトワン1920』(1987)に続いて、1920年前後を舞台にした「歴史的事件」再現ものということになる。ジョン・セイルズ作品には珍しく、チャーリー・シーンやジョン・キューザックなど、結構顔を知られた俳優が出演している。

「野球の八百長事件」というのは、映画で再現するには難しい題材だなと思った。というのは、映画の俳優というのは野球の素人なわけで、いくらそれらしく舞台を揃えても、彼らがボールを投げたり打ったりする場面は草野球にしか見えない。なのでその映像から、あのワールド・シリーズの舞台が汚されてしまった……ということのスキャンダル性や、あるいは八百長に加担している選手としていない選手のプレイの熱情の差などを、本気で感じとるのは困難だろう。

似たように歴史的スキャンダルを題材にした映画で、人気クイズ番組のやらせ事件を描いた『クイズ・ショウ』という作品があったけれど、あれは題材がTV番組なので少なくとも映画で再現するのに向いた話ではあったと思う。(それとは別に、いまだったらあの程度のやらせは全然スキャンダルにならないので、内容的にぴんとこない、という問題はあったけれど)

題材になった「八百長」事件に言及した文章を見つけた。

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