▼ 2002.03



2002-03-01

『三つの小さな王国』

スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸訳/白水Uブックス[amazon] [bk1]
Little Kingdoms - by Steven Millhauser(1993)
★★★★★

ミルハウザーの作品集は『イン・ザ・ペニー・アーケード』『バーナム博物館』と読んできたけれど、比較的長めの分量の中編を収録しているせいか、本書がいちばん良くまとまっていて内容的な密度も濃いように感じた。前二作が必ずしも悪いわけではないものの、『イン・ザ・ペニー・アーケード』の一部のミニマリズム的普通小説でも、『バーナム博物館』のいかにもな趣向の実験小説でもなく、やはり本書のような物語性と文学的趣向とを両立させた路線が、この作家の本領という気がする。収録された三篇とも、ミルハウザーらしい「架空の世界」へのこだわりを堪能できる秀作。別格の長編『エドウィン・マルハウス』は残念ながら絶版のようだから(どこかで復刊してくれないかな……素晴らしい傑作なんだけど)、初めての読者はこの作品から手をつけてみてもいいかもしれない。

以下は各作品の感想。

「J・フランクリン・ペインの小さな王国」

新聞漫画のかたわら、自宅で手書きのアニメーション製作に没頭する漫画家を主人公にした物語。静かで繊細な筆致の「職人芸術家」もので、『イン・ザ・ペニー・アーケード』収録の「アウグスト・エッシェンブルク」に近い。(「マックス」という脇役の立ち位置も似ている)

主人公がどうしてアニメーション漫画の創作に惹かれるのかを示唆した(小説としてはいささか過剰な逸脱にも思える)文章が、作者ミルハウザーの志向をよく伝えていると思う。

いわゆる写実的な漫画に較べれば、アニメーション漫画の方が、映画の虚偽をずっと正直に表現しているといえる。なぜなら漫画はみずからの虚構性に歓喜し、ありえないものに酔いしれるジャンルだからだ。(中略)アニメーション漫画とは、不可能性の詩にほかならない。そこにこそその高揚と、ひそかな憂鬱とがある。現実を故意に侵犯するこの作り物は、事物の締めつけからの心躍る解放である一方、同時に、単なる幻影、死を出し抜こうとする悪あがきにすぎない。そのようなものとして、それはあらかじめ挫折を運命づけられている。それでもなお、現実の締めつけを叩き壊すこと、宇宙の蝶番を外して不可能なものを流入させることはどうしようもなく重要なのだ。(p.123)

ミルハウザーの小説は、現実から解放された「小さな王国」を創造することの魅惑を緻密に描くかたわら、その世界がそもそも何らかの「ありえない」立脚点の上に成り立つ虚構の詐術にすぎないことをいつも意識して書かれている。それはこの小説自体も、架空のアニメーション漫画の映像を文章だけで創造してみせるという、原理的に「あらかじめ挫折を運命づけられ」た、それでもなお魅力的な物語形式をあえて採用しているのと対応する。

「王妃、小人、土牢」

原題は "The Princess, the Dwarf, and the Dungeon" =「プリンセス、ドワーフ、ダンジョン」。つまりこれはファンタジーRPGの世界(たぶんテーブルトークの)を元にした小説で、ボードゲームから物語を捏造する短編「探偵ゲーム」(『バーナム博物館』所収)の趣向と類似している。登場人物それぞれの心理と行動がやけに分析的・説明的に描かれているのは、彼らがゲームの駒でもあるからだろう。ひねくれた「小人」の人物造形が愉しい。

「展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(1810−46)の芸術」

架空の画家の各作品の解説が、その画家の呪われた人生の断片をなぞり、結果的に画家の「伝記」になってしまう趣向の作品。「架空の伝記」、作品に封じ込められた実人生の影、全編に漂う死と滅びの予感など、これまでの作品でいえば『エドウィン・マルハウス』にもっとも近いかもしれない。また「ロバート・ヘレンディーンの発明」(『バーナム博物館』)と同様、エドガー・アラン・ポーの小説のように不吉な雰囲気も感じさせる(ポーの小説は作中の絵画の具体的なモチーフにもなっている)。先の「J・フランクリン・ペインの小さな王国」とともに、「映像を文章で創造する」ねじれた趣向の作品なのも興味深い。

どれも既存の作品の題名を挙げたことからもわかるように、これまでと明らかに違う「新機軸」を感じさせる作品ではない。ミルハウザーはどちらかといえば、いつも「小さな王国」(これはミルハウザーの作風を集約したような言葉だと思う)をめぐる似たような物語を、繰り返し書き続ける作家のようだ(彼の小説で描かれる芸術家がたいていそうであるように)。それがこれほど飽きさせず、豊かに感じられるのは、その「小さな王国」がいつも複数形であること、つまり読者それぞれの「夢想する力」を呼びさまし、フィクションとは、小説とは何だろうかと考えさせる構造になっていることによるのではないだろうか。

ちなみに、現時点で邦訳されているミルハウザーの単行本はこれで読み尽くしてしまったことになる(あとはアンソロジー収録の短編など)。同じ柴田元幸の訳している作家のなかでは、たとえばポール・オースターほどの知名度を日本で得てはいないようで、まだ翻訳もそれほど進んでいるとはいえない。とりわけ長編は『エドウィン・マルハウス』しか訳されておらず、ピューリッツァー受賞作の "Martin Dressler : The tale of American Dreamer"(1996) までも未訳のまま残っているのは残念(題名が『エドウィン・マルハウス』みたいで気になる)。ちょっと検索をかけてみたかぎりでは、読んだ人はみんな褒めている作家のようなのだけど(特に『エドウィン・マルハウス』はたいてい絶賛されている)、広く宣伝をするには適さない作風ということなのだろうか。

訳者の柴田元幸もいわく、

もともと万人に受けるタイプの作家ではないとはいえ、訳者としては、日本でのミルハウザーは、まだまだ届くべき人のところに届いてないという気がしている。(『三つの小さな王国』訳者あとがき)

だそうなので(というか、僕もいまさら読んでいるのだし)、興味を持った人はぜひ読んでみてほしいと思います。

2002-03-02

『地獄の黙示録 特別完全版』

Apocalypse Now Redux(1979,2001)
★★★★

劇場公開が終わりそうだったので慌てて観てきた。いまさらながら、この映画をまともに鑑賞したのはたぶん今回がはじめて。

いわゆる「戦争映画」というよりは、川を上る道中でいろんなイベントと遭遇する、基本的なロード・ムービーの構造になっている。ちょっと突飛な連想かもしれないけれど、これはディズニーランドのアトラクションに近い構図なのではないかと思った(「ジャングル・クルーズ」とか「カリブの海賊」ですね。ちなみに一応、映画の後半にはディズニーランドへの言及がある)。主人公たちの行く先々で、「ワルキューレ爆撃」(これは映画館で観られて感動!)や「プレイメイト慰問」「花火のような橋の爆破」などのいかにも祝祭的なショーが催され、彼らはほとんど単なる傍観者としてそれらを見物する。

まず、印象に残るのは音楽と映像。ドアーズの "The End" とワーグナーの「ワルキューレの騎行」が使われているのは有名だけれど、後者の「ワルキューレ」をはじめ、この映画では特に前半、音楽が単なる後から追加されたBGMでなく、実際に登場人物が劇中で流している設定になっている場面がいくつもあるのが興味深い。楽曲とそれ以外の音が同じレベルで混ざり合っているので、ヘリコプターのプロペラ音までもが音楽の一部のような役割を果たしている。この手法は、個人的にはピンク・フロイドの「狂気」を連想させるものだった(時期的にもたしか合っているはず)。全体的に音楽がかなり突出していて、ちょっとミュージカル的な恍惚さえ感じさせる映画だと思う。また、ヴィットリオ・ストラーロの撮影もさすがに壮麗で素晴らしい。

登場人物で抜群に良い味を出しているのは、ロバート・デュバルのキルゴア中佐。『キャッチ22』なんかに出てきそうな乾いた酷薄さを体現していて、この人の登場する前半部は退屈しない(「ワーグナー効果」もあるだろうけど)。逆に、後半で出てくるマーロン・ブランドのカーツ大佐(および、デニス・ホッパーのフォト・ジャーナリスト)の人物造形はいまひとつ魅力がないように感じた。特に「東洋の奥地で根を張るカリスマ的人物」が「禅問答をする巨漢の坊主」というのは、いかにも類型的な発想でちょっとがっくりする。(余談ながら、このカーツ大佐の原型は『黒い罠』の巨漢の悪徳刑事、オーソン・ウェルズではないかという気もする。「異郷のカリスマ」「善悪の基準を超越している」といった設定が近い……などと言っていると、『フリッカー、あるいは映画の魔』みたいだけど)

「特別完全版」で追加されたらしい場面については、他はともかくフランス人と会食する場面は説教じみているだけで退屈、ほとんど不要のように感じた。プレイメイトの再登場する場面は奇妙で悪くない。それ以外では、主人公のマーティン・シーンの心情説明モノローグが意外なほど多いのが気になった(映画的に洗練されていない印象を与えた)けれど、これは元のバージョンでどうだったのかよくわからない。ちなみにマーティン・シーンの顔はたまに『ゴッドファーザー』(1972)のアル・パチーノに似ているように見える瞬間があって、『ゴッドファーザー』でのマーロン・ブランドの役柄を考えると、これはやはり神話的な「父殺し」の物語でもあるんだろうなと感じた。

いま手元にないので正確な引用はできないのだけど、小林信彦の『映画を夢みて』(ちくま文庫)に、彼の『地獄の黙示録』全米公開版の初見の感想が載っている。

  • 前半の爆撃場面は黒澤映画の活劇にも劣らない迫力。
  • カーツ大佐の登場する終盤の場面は、大作をまとめるだけの説得力に欠けた。
  • 特に、ウィラードとカーツが一度も同じ画面に入っていないのは致命的。(マーロン・ブランドが途中で降りたから?)
  • さすがにものすごい力作だが、傑作にはなり損ねた映画。

といった論調で、いま読んでもそれなりに妥当な評価ではないかと思った。

2002-03-03

「夜の姉妹団」

柴田元幸編訳『夜の姉妹団』(朝日文庫)[amazon] [bk1]に収録されていた、スティーヴン・ミルハウザーの短編(表題作「夜の姉妹団」)を読む。少女たちの秘密結社と、その真相にたどり着けない大人たち。小品だけれど、懐かしい「子供の世界」を描きながらそこに決して「到達できない」という、ミルハウザーらしい世界観の示されている短編だった。

これは柴田元幸が雑誌で担当していた、未訳短編を翻訳する連載をまとめたものらしい。他にも良さそうな作品があったので読んでみようかな。

2002-03-04

『赤い影』

Don't Look Now(1973)
★★★

ニコラス・ローグ監督の英国スリラー。ヴェネツィアを舞台にした幻想的な作品。

後から気がついたのだけど、原作はダフネ・デュ・モーリアの小説だった(未読)。いわれてみれば確かに「悪い予兆がことごとく現実になる」というこの作品の不安な妄想めいた世界観は、いかにもデュ・モーリアらしい(『鳥』に収録されている作品でいえば「林檎の木」に近い)。「鳥」で兇暴な野鳥たちがなぜ襲ってくるのかわからないように、デュ・モーリアの描く「日常を侵犯する不安と脅威」には理由がない。だからこの映画の結末は必然的なものなのだろうと思う。絵画的な映像の美しさが際立っているのもデュ・モーリア的。

2002-03-05

『エンゼル・ハート』

Angel Heart(1987)
★★★★

ウィリアム・ヒョーツバーグの原作は未読。私立探偵ものとオカルトを融合させた新機軸の作品、といった文脈て語られることが多い。

映画のほうは結構原作に忠実な映像化らしいけれど、1950年代を舞台にしたゴシック調の映像の完成度が素晴らしく、特に映画の前半は凡庸な画面構図の場面がほとんどない。かなり感心する出来だった。原作が長編小説なので、必ずしもまとめきれていないように思える部分もあったものの、これだけ雰囲気を出せていれば合格だろうと思う。ただ「光る目」の演出はありきたりで不要に感じたけれど……。

裏読みの好きなミステリ読者でなくても、結末で明かされる趣向は途中でだいたい想像がついてしまうのではないかと思う。謎解きものというよりは、ひねりのある心理的ホラー映画として観たほうが正解かもしれない。

『セブン』『ファイト・クラブ』のデヴィッド・フィンチャーあたりは、確実にこの映画の影響を受けていそう。

2002-03-06

『世界の終わり、あるいは始まり』

歌野晶午/角川書店(2002.2)[amazon] [bk1]
★★★★

少年犯罪の疑惑を父親の視点から語る、という導入から、石田衣良の『うつくしい子ども』(語り手が当事者の兄)の父親版みたいな話かと思いきや、そのうち筋書きはアントニイ・バークリー的によじれはじめ、全体的には裏「重松清」とでもいうべきちょっと異様な趣向の小説になっている。小説的な処理としてはさほど洗練されていない気もするけれど、いわゆる「酒鬼薔薇」事件以降、流行気味の社会派少年犯罪ものの枠組みに、この種の趣向をぶち込んだのは結構大胆な試みで感心した。

このような人を食った趣向なら、視点人物をもっと突っ込みどころ満載の楽しい人物にしたほうが個人的には好みなのだけど(例えば『墜落のある風景』)、本作はもともと東野圭吾の『秘密』のように、あえて無個性な人物を非日常的な状況に直面させてその反応を確かめる「シミュレーション小説」的な話でもあるので、ある程度しかたのないところなのかな。

映画『息子の部屋』の宣伝文句から別の展開を想像してしまい、本編を観に行ってがっかりした人(僕のことだけど)は、この小説を読んで補完してみるのもいいかも。

2002-03-07

『だからドロシー帰っておいで』

牧野修/角川ホラー文庫(2002.1)[amazon] [bk1]
★★★

現実と妄想が交互に語られる二重構成。字義通りの意味で「ダーク・ファンタジー」と呼びたいような趣向の小説だった。

これは牧野版『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なのだろうなと思いながら読んだ。あるいは『ベティ・サイズモア』でもかまわないけれど。この二作の映画はどちらも本作と同様、『オズの魔法使い』を何らかの意味で下敷きにしていることでも共通する。(前者はミュージカル映画版の「モノクロ/カラー」の色分け構成を連想させるし、後者でレニー・ゼルウィガーの演じるヒロインが暮らしているのは「カンザス州」の田舎町だった)

現実と妄想が交錯する地点のやたら陰惨な光景は、ジャン・ヴォートランの『グルーム』みたいで良い(捏造される「作中作」が一人称叙述になるのも『グルーム』と似ている)。途中まではこの意地悪なメタフィクション構造がかなりおもしろかったのだけど、終盤になるといきなり『スイート・リトル・ベイビー』と同じような落としかたになってしまうので、もうそれは読んだよと思うし、これまでの前振りの話とは問題がずれているようにも感じる。全体の趣向は興味深かっただけに、ちょっと残念。

2002-03-08

『13』

古川日出男/角川文庫[amazon] [bk1]
★★★

人と異なる色彩感覚を持って生まれ、長じて天才的な映像作家となる人物を主人公にした物語、というと結構興味を惹かれる設定なのだけれど、どうも結局力及ばずといった感じ。

主人公の橋本響一の色彩感覚と映像製作の話、「13」とアフリカの奥地で聖母となる少女の話、ハリウッドの新鋭映画監督の新作の話、それぞれ一応の接点は用意されているものの、物語のなかでほとんど有機的に連環していないので、散漫な印象を与える。例えば、主人公の独特の色彩感覚に関して緻密な描写がなされるのは小説の冒頭部のみで、あとは思い出したように映像を獲得する挿話が紹介され、果ては「南米で修行を積んだ」「癒し映像のカルト的作家」といった伝聞の情報が語られるだけになっていく。この構成だと、読者は主人公の映像世界を共有することができない。また、これはある程度しかたないのかもしれないけれど、作中作の「映画監督の新作」の概要があまり興味を惹かれるものではなかった。

言語化しきれない「色彩」や「映像」をあえて文章でつむいでいく、というような志向(次作の『沈黙』は「音楽」を題材にしているようだ)、そして創作そのものを題材にしたメタフィクション趣向などは、スティーヴン・ミルハウザーの作風(『三つの小さな王国』を参照)を想起させるものがあるだけに、惜しいなあという感想。

それにしても、主人公が「最初から天才」なのは『アラビアの夜の種族』の魔術師と同様だし、アフリカ編の「自分を白人の出自と思い込んでいる黒人」と似たような類型の話もやはり『アラビアの夜の種族』に出てきていた。話の引き出しが少ないんじゃないかな……という気もする。

2002-03-09

『群衆』

Meet John Doe(1941)
★★★★

フランク・キャプラ監督の1941年作品。新聞社を首にされそうな記者のバーバラ・スタンウィックが、紙上で "John Doe" という架空の人物についての記事をでっちあげる。評判になったその人物の「実体」を演じさせるために選ばれたのは、もと野球選手で失業中のゲイリー・クーパー。彼の演じる架空のヒーロー "John Doe" の人気は新聞やラジオを通じて合衆国全土に広がり、各地で熱烈な支持者の団体を生むが……という話。

マスメディアの内幕を描いた社会風刺寄りの作品で、そのわりに楽天的な幕切れになっているのはどうもとってつけたような、いささか白々しい感じを受ける。その意味では必ずしも映画として成功しているとはいえないのかもしれないけれど、批評的な論点はいろいろ見出せて興味深い作品だった。

まず、この映画は明らかに「偽キリスト」をめぐる寓話として語られている。ゲイリー・クーパーの扮する "John Doe" の(読み上げる)発言には「隣人を愛せよ」という以外の内容はなく、さらに「クリスマス」への律義なこだわりがやけに強調される。(幕切れの場面は、これもキリスト教をめぐる話だったラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』と似ている)

ほとんど空疎な内実しか与えられていない虚像が、「不況下の希望の星」としてひとり歩きし、宗教めいた熱狂的な支持を集める戯画的な展開は、「マスメディアを利用した独裁者」として台頭したヒトラーの率いるナチス・ドイツを念頭に置いたものに違いない。(いうまでもなく、すでに欧州では第二次世界大戦が始まっている時期だ)

さらにいえば、この "John Doe" そのものが「映画」の象徴なのだと見ることもできるだろう。人の書いた話を俳優が演じるという、いわばでっちあげにすぎないものに、多くの人が列をなして集まり、それぞれの物語を投影して喜んだり感動したりする。そしてまた、その影響力ゆえ政治的に利用される危険もある、ということ。

このようにいろいろとシニカルな連想を誘う筋書きの映画なのだけれど、それらの問題はきちんと収束しないまま、とりあえずのハッピーエンドへと流れていく。なので映画全体としては、話のまとめかたがぎこちない、結末の説得力に欠ける、といった感想を与えるような出来になっているのは否めないと思う。(ハリウッド的な制約のためにこういう奇妙な感じになっているのだろうか)

『市民ケーン』(1941)や『サリヴァンの旅』(1942)とは時期が近い。共通した題目は「メディア的人間の虚像と実像」といったところだろうか。大恐慌が物語の前提として機能しているところも『サリヴァンの旅』と似ている。

ちなみに、最近の映画で本作に近い部分があると思うのは、『エドtv』(マスメディアの企画で平凡な男が有名人に仕立てられる)とか『ペイ・フォワード』(未見だが博愛ネットワークが全米に広まる話らしいので)あたり。

2002-03-14

『真夜中のサバナ』

Midnight in the Garden of Good and Evil(1997)
★★★

クリント・イーストウッド監督作品。

ジョージア州の美しい町、サバナを舞台にしたミステリー映画。町の風景や瀟洒な室内を映した画面がとても綺麗で(撮影:ジャック・N・グリーン)、ぼんやり観ているだけでも心地よかった。町の人々それぞれの風変わりな生活の断面を紹介する趣向も良い。

主軸になる犯罪劇のほうはちょっと物足りない。何も予備知識を入れなかったので、この映画に原作があることも知らないまま観たのだけど、いかにも「元の原作があるんだろうな」と思わせる、既定の事実関係をなぞった「再現映像」を見せられているような印象だった。ベストセラーになった人気作品らしい原作本を尊重しすぎて、映画化に際しての脚色が足りなかったのではないかと思える。話の設定を台詞で長々と説明している場面が多いし、また例えば、事件の重要な鍵になる点として「死体の硝煙反応」の問題が出てくるのだけど、これは映画内ではほとんど伝聞で語られるだけなので、映画的に演出された描写になっていない。同年に並んでアカデミー作品賞候補に選ばれた『スウィート・ヒアアフター』(傑作)で、アトム・エゴヤンの脚色が冴えわたっていたのを考えると、もうちょっと何とかならなかったのかなという気もする。

出演はジョン・キューザックやケヴィン・スペイシーなど。ケヴィン・スペイシーは「口の達者な容疑者」のうえに「同性愛者」という、自家薬籠中のものに違いない役柄を余裕で演じている(逆にいえば、あまり配役の意外性だとかは感じられない)。でもどちらかといえば、彼ら俳優たちの演技を見せるというよりは、ゲスト出演しているらしい実在の町の住人たちの生活を紹介するほうに主眼が置かれているようだった。特に女装の黒人、「レディ・シャブリ」が強烈な印象を残す。

2002-03-15

『告発者』

ジョン・モーティマー/若島正訳/ハヤカワ・ミステリ[amazon] [bk1]
Dunster - by John Mortimer(1992)
★★★★

英国の実力派作家の初紹介作。第二次世界大戦中の戦争犯罪をめぐる騒動を軸に、「心配性」の語り手である会計士フィリップ・プログマイアと、その学生時代からの因縁の仲である「迷惑な正義漢」のジャーナリスト、ディック・ダンスター(原題はこの人の名前)の微妙な関係を描いた物語。作者はTVや舞台の脚本家の経歴もあり、弁護士としてのキャリアも積んだ人らしいから、それらの経験を活かした業界内幕もののようなおもむきもいくらかある。

過去の因縁の絡ませかたなんかはロバート・ゴダードを思わせなくもないけれど、筆致はもうちょっと軽妙な感じ。いわゆるリアリズムとは違うものの人物を戯画化しきっているわけでもない、というような描写の配分が安定していて、いかにも英国の職人作家らしい味わいの佳作だった。ダンスターの悪びれない人物造形が興味深く、それを直接描写するのではなく別の人物の主観的な語りで間接的に浮かびあがらせていく構成も良い。

わりと先読みのできてしまう展開が少なくないので、さほど凄みは感じないけれど、こういう英国らしい洒落た娯楽小説の好編をたまに読むのも悪くない。

2002-03-16

『犯罪心理捜査官』

When The Bough Breaks(1993)
★★★

wad's 映画メモで絶賛のサイコ・スリラー映画。女性捜査官が連続猟奇殺人犯を追う話。謎解きものの形式で話が進みながら、最終的にはホラー色が強くなって、事件の全容はきちんと説明されないまま終わってしまう(ように思える)ので、ちょっと違和感が残った。丁寧に見返せばもう少し腑に落ちる造りなのかもしれないけれど、例えばデヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』のようにその説明の足りなさが悪夢的な浮遊感を醸し出しているというよりは、内容と構成がかみ合わなかった面も否めないんじゃないかという感じを受ける。また、女性捜査官が精神病院で事件解決の手がかりを得て、犯人の巣窟である地下室へと向かう展開は、いくらなんでも『羊たちの沈黙』に酷似していて気になった。ただその地下室の場面は、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』のような異様な緊迫感に満ちていて良い。

主演のアリー・ウォーカーの精神的に壊れた感じが強烈(過去に何らかの犯罪の被害者になって、そのために犯罪捜査官の道に進んだことが示唆されている)。この主人公が少しもロマンスもしくは性犯罪の標的にならないまま話が進むのは、潔い手法で好感を持てた。そういえばこの人は当時の流行を反映してか「プロファイラー」の名目で派遣されているはずなのだけど、作中ではプロファイリングらしきことなんて一切していなかったような。

2002-03-17

『思春の森』

Maladolescenza(1977)

ロリータ映画の金字塔として知られる作品(らしい)。大人のいない森のなかで、思春期の少年と少女たちが反道徳的な遊戯にふける、という『蝿の王』の男女三人版のような話。イアン・マキューアンの『セメント・ガーデン』にも似ている。

妖精のように描写される金髪の少女が(いわゆる「ファム・ファタル」的な役どころ)、個人的にはさほど可愛く見えなかったので、ちょっと乗り切れなかった。また、ビデオで観たのだけど、幻想的な場面にモザイクが入りすぎていてだいぶ興醒め(まあ、しょうがないんだろうけど……)。無修正版でないと正当な評価をするのは難しそうだ。

2002-03-18

『カンバセーション/盗聴』

The Conversation(1974)
★★★★

『地獄の黙示録』が良かったので、フランシス・フォード・コッポラ監督の旧作を少し見返している。これは「盗聴屋」を主人公にした不安妄想系のスリラー映画で、同時期の『ゴッドファーザー』二部作に較べるときわめて地味な作品だけれども、さすがに秀作。現実的な意味ではほとんど何も起こらないまま、一点の疑惑から不安な妄想が膨らんでいく過程を描く、といった趣向の話で、コーエン兄弟の『バートン・フィンク』に似ていると思った(個人的には、ジム・トンプスンの『残酷な夜』にも近いと感じる)。主人公のジーン・ハックマンが全編を通してほとんど他人とまともな会話を交わさないまま終わる、という冷えびえとした孤独感が結構すごい。

コッポラの映画といえば音楽的な演出が有名だけれど、この映画でも、録音した会話の音声を執拗に場面へかぶせていく手法が、主人公の不安の高まりと対応していて効果的。特に依頼主の「専務」と会見する場面は、たぶん秒単位の緻密さで構成されているんじゃないだろうか。

政治的な含みのある映画ではないものの、時期的に見て「盗聴屋」といえばやはりウォーターゲート事件は想起せざるをえないところ。劇中の会話では、主人公や他の盗聴職人が、大統領選挙やトラック組合の年金横領事件(当然ジミー・ホッファ絡みだろうな……)で暗躍していたことも示唆されている。なので『アメリカン・タブロイド』(「盗聴屋」のウォード・リテルが主人公格)以降三部作の関連作品のひとつとして、ジェイムズ・エルロイのファンも観て損はない映画だろうと思う。

2002-03-19

『フェリスはある朝突然に』

Ferris Bueller's Day Off(1986)
★★★

ジョン・ヒューズ監督・脚本作品。学校をさぼって街へ繰り出す「スーパー高校生」フェリス君の一日の生活を描いた話。「遊ぶことは良いことだ」という楽天的な価値観が疑われないまま話が進むのは、いかにも1980年代らしい雰囲気(だから、遊びを邪魔しようとする校長は悪者になってしまう)。あの時代の「終わらない学園祭」的な感じを懐かしむには悪くないけれど、いま見ると、主人公の享楽主義的な行動が結果的に周りの人の幸せをもたらす、という構図を、脚本の段階でもうちょっとパズル的に組めているとまた別の興趣があったかなという気もしないではない。主人公を取り巻く小道具(パソコンやシンセサイザーなど)が当時は先進的で格好良かったのだろうなと思った。

主人公がカメラに向けてやたら饒舌に語りかける(ウディ・アレン的な?)演出がちょっと特異で、似た手法の『ハイ・フィデリティ』(2000)でのジョン・キューザックの役柄には、この「フェリス君」の三十路を描く、という裏の意図があったのかもしれない。そう考えると、『ハイ・フィデリティ』映画版はまさに「学校をさぼって遊んでばかりいたら、こんな大人になってしまいました」という青春映画の後始末のようなお話なんだな。

2002-03-20

『時間のなかの子供』

イアン・マキューアン/真野泰訳/中央公論社
The Child in Time - by Ian McEwan(1987)
★★★

イアン・マキューアンの1987年の長編小説。マキューアンの経歴を見ると、この人は1970年代後半から1980年代初頭にかけて、『最初の恋、最後の儀式』(1975)、『ベッドのなかで』(1978)、『セメント・ガーデン』(1978)、『異邦人たちの慰め』(1981)といった短編集および中編小説を発表したあとは、しばらく演劇や映画の脚本などの仕事に転進して、本作が久しぶりの小説復帰作、しかもこれまでにない分量の長編小説ということになる(『セメント・ガーデン』と『異邦人たちの慰め』は中編程度の短い作品)。だからこの作品は実質的な「再デビュー作」といっても良いくらいの位置づけではないかと思われる。

内容的にも、これまでに作者の描いてきた狭い「秘密の世界」の性的倒錯とはだいぶ目先が異なり、サッチャリズム批判を反映した社会風刺や、子供を喪失した親の悲哀といった、社会的・時間的な広がりのある「大人らしい」題材が盛り込まれている。それらが十全に機能しているかというとちょっと疑問で、社会風刺小説としても、子供の喪失と再生を描いた物語(ラッセル・バンクス『この世を離れて』とか)としてもいくぶん中途半端な印象を与えるし、終盤のまとめかたがおもに伝聞形式の説明に頼っているのはどうも巧くない(『黒い犬』あたりもそうだった)。交通事故の情景をやたら緻密に描写してみたり、妄想としか思えない変な場面が次々と挿入されるのは、この作家らしい奇妙な感じで良かったけれども。また、本作はおそらく意図的に従来の一人称叙述を避けて、主人公視点の三人称叙述を採用しているのだけど、一人称叙述に戻った『愛の続き』の完成度を見ると、この作品も一人称叙述で、カズオ・イシグロの小説のような「信頼できない語り手」ものにしても悪くなかったのかなという気がしないでもない。(語られているのが現実の出来事なのか、主人公の妄想なのか区別のつかないところは、まさにそんな感じがする)

主人公のスティーヴンは児童文学作家として知られる人物で、その設定には「子供の世界」のインモラルを描いて論議を呼んだらしい(短編「自家調達」など)作者マキューアン自身の経歴が明らかに投影されている。その意味でこれは多分に「私小説」的な作品といえるだろう。主人公が作中で子供を喪失し、その受容と再生の過程が描かれる、というこの小説の基本構図は、過去の作風とはまた違った地点からの「再出発」を目指す作者自身の立場と重なり合う。

ただ、相変わらず「秘密の世界」の「性的倒錯」は一応語られている。これ以降のマキューアン作品はある意味で、彼の出発点となったそれらの要素を、社会や政治や家庭などの「大人の世界」といかに結びつけるか、という試行錯誤を繰り返しているのかもしれない。

2002-03-21

『裏窓』

Rear Window(1954)
★★★

言わずと知れたアルフレッド・ヒッチコック監督の有名作。ヒッチ作品は過去にある程度観ているけれど、これも含めて内容はほとんど憶えていない。なので新鮮な気分で見直せた。

この映画でおもしろいのは、主人公のジェイムズ・スチュアートの視点が「映画」そのものについての自己言及になっているところだと思う(彼の職業はカメラマンだ)。他人の人生を覗き見して勝手にあれこれ思案すること。自分は身動きできないまま他人の危機にはらはらすること。台本を書いて他人に役を演じさせること。彼の行動のどれもが何らかの意味で映画の構造と対応している。

グレイス・ケリーの演じる恋人の人物造形がいかにも古典的で、いま観るにはちょっとつらかった。この時代の女優たちは内心どんな思いで、こういう頭の悪そうな役を演じていたんだろうか……などと考えてしまう。主人公の「覗き見」行為のいかがわしさがとりあえず社会正義に転化して、突っ込まれないまま終わるのも何だか居心地が悪い。先頃観たフランク・キャプラの『群衆』もそうだったけれど、皮肉な展開を盛り込みながらも、最後はとりあえず幸福に締めなめればならない、という時代的な限界を感じる。

素人探偵の妄想推理が話の主軸になり、ロマンス的な興味が並行するという意味では、アントニイ・バークリーの『最上階の殺人』と似ていなくもない(集合住宅が舞台なのも同じだ)。

ちなみにこの映画の「素人探偵の陰惨な妄想」「他人の生活を覗き見」の構図は、デヴィッド・リンチ監督の『ブルー・ベルベット』に受け継がれている(リンチはオールタイムベストに挙げるくらい『裏窓』をお気に入りなのだそう)。犯罪の真相が明示されないまま終わるのも共通している。また「覗き見」群像劇という意味では、ロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』あたりも『裏窓』に通じるのかな。

2002-03-23

『ワイルド・アット・ハート』

Wild at Heart(1990)
★★★★

デヴィッド・リンチ監督の1990年作品。『ブルーベルベット』(1986)の後で、有名なTVシリーズ『ツイン・ピークス』(1990)と同時期にあたる。バリー・ギフォードの小説が原作らしい。

のっけから、ニコラス・ケイジが暴れる! ローラ・ダーンが泣きわめく! という異常にハイテンションな導入ではじまる怪作。彼らふたりの行きあたりばったりの逃避行を軸にしたロード・ムービーの形式が、「結末を決めない」ままで映画を撮りはじめかねないリンチの無責任な作風と巧く合致していて、結構愉しめた。リンチ映画でおなじみの「夢と妄想」の迷宮世界は直接登場してこないのだけど、『オズの魔法使い』のモチーフを重ねているのがそれらしくはある。

主演のニコラス・ケイジはコーエン兄弟の『赤ちゃん泥棒』(1987)に似た感じの路線で、頭の悪い「激安人間」((c)戸梶圭太)の純情を抜群の説得力で演じていてちょっと感動的。個人的には、『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』や『彼らは廃馬を撃つ』の主人公に通じるような底知れない不穏さをも感じる。(何をやらかすかわからないという意味で)

ホテルの従業員が全員フリークス風だったり、道中で血みどろの交通事故と遭遇したり、やたら歯の汚い男の笑みを見せられたり、といったリンチらしい奇妙な場面が不意に露出するのもスリリングだった。作中の音楽や服装があからさまに「ださい」のは、ここまで徹底していると、登場人物たちのあまりにも陳腐で安っぽい台詞や行動の数々と合わせて、何か確信犯的な選択なのだろうとしか思えない。その後のタランティーノ登場以降(『レザボア・ドッグス』は1992年)、パルプ・フィクション的な意匠を取り入れた映画が隆盛することを考えれば、かなり先鋭的な実験作ということになるかもしれない。そして、これだけ平然とださく安っぽいスタイルを究めることで、どこか別の(深遠な?)境地にたどりつきかけたような作品は、後にもほとんど出ていないのではないだろうか。

ただ編集面で、登場人物の思い出話や主観的な回想がそのまま映像化される、という古典的なフラッシュバックの挿入のしかたがいかにも安易なのは気にならないでもなかった。

途中、ニコラス・ケイジの演じる主人公が恵まれない家庭環境で育ったらしいことが語られ、またローラ・ダーンの実家もすでに崩壊していることが強調される(炎はその象徴か)。つまりこれは、いわゆるアダルト・チルドレン的な人たちがいかに現在の境遇から逃れ、新しい家庭を築きあげられるか、という話でもあるのだと思う。終幕は幸福な場面で締められるものの、それが永続的なものになるかは何も保証されていない。

2002-03-24

「ミステリマガジン」5月号

エラリイ・クイーン特集を拾い読み。小山正さんの論考「殺戮者ドルリイ・レーン」が興味深かった。若島正の有名な「明るい館の秘密」にも通じるような、古典再検証もの。ドルリイ・レーンものはもともと別名義で発表されているのだし、「最後の名探偵」といった感じの批評的な存在として構想されている面はあるのだろうな。

2002-03-25

第74回アカデミー賞

第74回アカデミー賞の結果が発表されている。

主演俳優賞は、決め手がなくてとりあえずシドニー・ポワティエ祭りになったような気もする。デンゼル・ワシントンの『トレーニング・デイ』はいかにも演技賞狙いの企画のような感じで、どうも好感を持てなかったのだけど。

それにしても日本でまだ封切られていない作品が多い。関連作品で個人的に期待しているのが、ロバート・アルトマン監督の "Gosford Park" で(作品賞・監督賞などで候補、オリジナル脚本賞を受賞)、これは1930年代の英国の田舎屋敷を舞台にしたミステリ映画らしい。いかにも「黄金期」めいた舞台設定の確信犯ぶりが気になるし、監督がアルトマンなので、例えばアントニイ・バークリーの小説のようなひねくれた話になっているんじゃないかと思われる。実際、少し前の『クッキー・フォーチュン』(1999)も「倒叙ブラック・コメディ」とでもいったような、ミステリ的にも興味深い筋書きの映画だった。

2002-03-26

『素晴らしき哉、人生!』

It's a Wonderful Life (1946)
★★★★

フランク・キャプラ監督の代表作にして、アメリカン・ファンタジーの古典的な名作。さすがに感心した。主役のジェイムズ・スチュアートが素晴らしく、妻のドナ・リードも綺麗で良い。

クリスマスの夜に飛び降り自殺をしようとする男を止める、という物語の大枠は『群衆』とほとんど同じで、主人公が「現代のキリスト」的なヒーローとして語られるのも共通している。主人公は貧しい人にも誇らしい生活を送る機会を、と唱える清廉な理想主義者で、彼がパンとワインを配る場面なども紹介される。「虚構のヒーロー」をめぐる社会風刺めいた構図が目立って、人情ものとしては不徹底な出来になっていた『群衆』を、もういちど正攻法で語りなおす意図があったのかもしれない。この映画では、主人公の半生を通じた人物像と社会的活動がきちんと肉づけされていて、その種の内容的な矛盾は生じていない。主人公が単なる理想的な英雄としてではなく不器用な面も描かれ(恋人になかなか素直な気持ちを伝えられなかったり、不機嫌なときは家族に当たり散らしたりもする)、それを助ける「天使」はなぜか冴えないおっさんの姿をしている、といったファンタジーと人間味のバランスも絶妙。

前半部の構成は主人公のこれまでの人生をダイジェストで紹介する趣向になっていて、これが大恐慌から第二次世界大戦へと至る米国の現代史を映しているのも興味深い(この後継者が『フォレスト・ガンプ』だろうか)。この部分の発想はおそらく、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』(1941)を参考にしているのではないかと思った。『市民ケーン』における人生遡行の終着点は【少年時代のそり遊び】だったけれど、本作はまさにその場面からはじまり、人生の時系列順に(つまり『市民ケーン』とは逆の順番で)語られる。『市民ケーン』が「アメリカは物質的に繁栄したかもしれないけど、何か置き忘れてきたものもあるよね」という懐疑的な話だったとすれば、『素晴らしき哉、人生!』は対照的に「不況や戦争で結構苦しかったけれど、これからはきっと良いこともあるよね」という感じの明るい話になっている。

後半部には天使の案内で「もし自分が存在しなかったら」の可能世界を主人公が遍歴する、というSF風味の趣向が盛り込まれていて、当時はきっと目新しい試みだったのだろうと思われる(この後継者が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』か)。いま観ると個人的には、どうしても金策がつかなくて自殺しか選択肢がない、という現時点での問題に、これまで君の積み上げてきた人生は無意味ではなかったんだよ、と応じるのは、答えとしてずれているような気もするけれど(実際、経済上の問題は天使の介入とは直接の因果関係のないところで解決されている)、最後が丸くおさまってそれらの要素も一応結びついているので、さほどの違和感はおぼえない。

2002-03-27

『上海から来た女』

The Lady from Shanghai(1948)
★★★

オーソン・ウェルズ監督・脚本・主演の犯罪映画。金と地位のある男と、結婚生活に不満を抱いている妻の夫婦のもとに、放浪の若い男が雇われて……という『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』でおなじみのフィルム・ノワールの典型を踏んだ作品で、『深夜の告白』と同じように、すべてが終わった地点から「あの女に出会ったのが運の尽きだった……」式の回想が物語られる。意外にもフーダニットの興味がある筋立てで、主人公の知らないところで事件が起きているため、殺人事件の犯行人物が誰なのか最後のほうまでわからない構造になっているのがおもしろい(犯人の指摘される場面は、「誰も信じられない」というノワール的な世界観を強烈に印象づける)。夫が妻の行動を監視するために探偵を雇って話がややこしくなっているところは、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』の原型かもしれない。

2002-03-28

『死者の書』

ジョナサン・キャロル/浅羽莢子訳/東京創元社[amazon] [bk1]
The Land of Laughs - by Jonathan Carroll(1980)
★★★★

ジョナサン・キャロルの第一作。主人公が作家の伝記を書こうとする、という構図のもとで、創作の魔術をひねくれたかたちで題材にしているところは興味深いし、散りばめられる謎めいた挿話が、最終的に伏線として一点にまとまっていく(ミステリ的といえなくもない)構造になっているのも良い。でも小説としては少しだけ物足りなく感じてしまったのは、後半に明かされる「世界の法則」の説明がいまひとつわかりにくくて、ちょっと歯切れの悪いものになっていたからかもしれない。主人公がどちらも魅力的な若い恋人と年上の女に二股をかける、というロマンスの筋書きも、もうちょっと願望充足的でないかたちで書かれても良いのではないかと思う。とはいっても、創作家の秘密を題材にして「世界の創造」を話の中軸に持ってきているところは、スティーヴン・ミルハウザーの作品などにも通じるものがあって(源流はボルヘスの小説らしいけど)好感を持てる。

ちなみに、普段はあまりこういう読みかたはしないのだけど、この小説に関しては映画の引用が多いせいか、脳内で登場人物に映画俳優をキャスティングしながら読んでいた。モラトリアム文系男の主人公トマス・アビイは、ジョン・キューザック(『真夜中のサバナ』『ハイ・フィデリティ』)で文句なし。若い恋人のサクソニー・ガードナーは、『ギター弾きの恋』のサマンサ・モートン(一応ウディ・アレンつながり)、映画スターの父親はクリント・イーストウッド(『真夜中のサバナ』つながり)あたりでどうか。作家の娘アンナ・フランスにはイザベラ・ロッセリーニというのを思いついたけど(親が超有名人)ちょっと違うかも。

2002-03-29

『第十七捕虜収容所』

Stalag 17(1953)
★★★

ビリー・ワイルダー追悼記念ということで、この1953年の監督作を観る。このあたりはワイルダーの作風の転換期にあたるようで、これ以前の監督作は『深夜の告白』(1944)や『サンセット大通り』(1950)などシリアス系の作品が多く、以降は『麗しのサブリナ』(1954)『アパートの鍵貸します』(1960)など、ロマンティック・コメディ路線の作品が目立つようになる。

第二次大戦時のナチス・ドイツによる連合軍兵士の捕虜収容所を舞台にした話で、いうなれば「収容所コメディ」のジャンルの作品(最近でいえば『ライフ・イズ・ビューティフル』が典型的だろうか)。非人間的な監視環境のもとでも明るいユーモアを発揮して生きる、というような構図の話。コメディとしてはいくぶんぎこちない感じもするのだけど(それに下ネタが続くのはちょっと飽きる)、ただし笑いをかき消すような強烈に肌寒い場面があって、それは捕虜たちのあいだで、監視側のナチス将校との密通を疑われた「間違った容疑者」が白眼視され、袋叩きの標的になるところだ。これは明らかに当時のハリウッドの「赤狩り」を風刺したものだと思われる(「ドイツ→ソ連」と敵が変わっただけと考えればわかりやすい)。

ユダヤ系のビリー・ワイルダーは両親をナチス・ドイツの強制収容所で亡くしているのだそうで、この作品はもともと舞台劇の映画化らしいのだけど、いったいどんな覚悟で撮影したのだろうかと想像すると、ちょっとそれだけで泣けてくる。

2002-03-30

『ビューティフル・マインド』

A Beautiful Mind(2001)
★★

本年度アカデミー賞受賞作品。だからといって過度の期待をしたつもりもないのだけど、あまり良い感想を持てない映画だった。

少し仕掛けのある話で、未見の人の興味を削ぐかもしれないため以下は隠し文字にしておく。

  • これは『シャイン』(実在のピアニストの半生をもとにした映画で、天才の話かと思わせてやはり精神病との闘いと癒しみたいな話になる)の枠組みに『ファイト・クラブ』的な趣向を足しただけじゃないの? いまさらそんな程度の話をもっともらしく見せられてもなあ。
  • そもそも、主人公がしきりに雑誌を切り抜いている時点で、暗号解読の仕事が主人公の脳内妄想なのは明示されているのではないだろうか。映画の演出がこれをサプライズ的な仕掛けとして引っ張りたがっているようなのは腑に落ちなかった。
  • 主人公ははじめから社交性を欠いた「変人」として描かれているので、ジェニファー・コネリーと良い仲になるのはいかにも「本当らしくない」挿話に思える。この女性の存在そのものが「主人公の妄想」の一部であってはいけない理由がよくわからなかった。

ラッセル・クロウの演技は細かい仕草まで研究して頑張っているようだったけれど、『シャイン』とか『ザ・ハリケーン』とか、この種の実在人物の伝記ものは近頃、俳優の演技力の品評会みたいになっているふしもあって素直に賞賛する気になれない。ジェニファー・コネリーはさほど良い役とも思えないし、本人もなんだかやつれた外見で特に魅力を感じられなかった。

ゲーム理論(なのか?)の着想が酒場の与太話から生まれる、などの冗談とも本気ともつかない挿話は悪くなかったのだけど、もうちょっと全体を短い時間でまとめられないものかと思う。

2002-03-31

『ブラックホーク・ダウン』

Black Hawk Down(2001)
★★★

リドリー・スコット監督の戦争映画。果たして娯楽映画としておもしろいのかと問われるとちょっと困るのだけれど、メッセージもドラマも徹底して排除された、ほとんど戦闘のみが描かれるストイックで唯物的な戦争映画で、これはこれである種の極限に近づいた実験作として興味深い。少なくとも、同時期公開の他の大作(『ビューティフル・マインド』とか)にくらべれば、劇場で一見する価値のある映画ではないだろうか。

作戦や戦況は一応示されているものの、さほど親切な解説は入らないので、結構注意深く観ていないと何が起こっているのか脈絡を見失うかもしれない(その意味でも観客の参加を要請する映画だと思う)。僕は軍事の知識に疎いので、実のところ完全についていけた自信がないのだけど、とりあえず市街戦で「RPG」(対戦車用の小型ロケット・ランチャーらしい。大車輪の活躍)がきわめて有効なのは了解できた。当初の任務(要人誘拐)そのものはとっくに終わっているのだけど、米国軍は負傷者などがいれば全員回収しなければならないので戦闘が泥沼化するんですな。

ただ直近の実話をもとにしているためか「再現映像」的な窮屈さもあって、アンチ・ドラマ趣向の実験的な戦争映画ということでいえば『シン・レッド・ライン』のほうが個人的には好きかな……

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