▼ 2001.08



2001-08-04

『千と千尋の神隠し』

2001
★★★

宮崎駿・脚本&監督の新作。

前作『もののけ姫』の迷走ぶりと興行的な大当たりにはどちらも首をひねったものだけれど、今回はその反動もあってか、だいぶあっさりめの異世界訪問ファンタジーになっている。「ナルニア国物語」や『オズの魔法使い』なんかを連想した。いつもの「人類と自然の共生を模索」みたいな主題は遠景に溶け込んで、少女の「ひと夏の体験」的な筋書きが主軸になる。

序盤では少女の成長物語の体裁をとるかと思わせたものの、実のところこの主人公の少女は一貫して「何が自分の大切なものか」を見失わず、その確信が物語内で疑われることもない(少女が結局「自分の名前」を失わないままなのはその象徴だろう)。一時の欲得に踊らされて自分を見失ったり、だいじなものを見つめなおしたりするのは、あくまで主人公と出会う周りの人物だ。(かれらの姿と「バブル崩壊で放棄されたテーマパークの跡地」という舞台設定の対応には作者の底意を感じるけれど、まあそこは遠景ということで)

物語の枠組みは古典的なものだから(善良で素直な主人公は当然危険にさらされないのだし)、そこをいかにうまくまとめあげるのかが自然と興味の対象になる。その点で中盤あたりの、主人公が意図せずに他者を動かして騒動を巻き起こしていく展開は、結構技巧的な組み立てで愉しめた。「作中人物に見えるもの」と「観客に見えるもの」の差をきちんと意識した話づくりが個人的に好みというのもあるだろうけど。

ただ全体の構成をみると、異世界への「導入」と「帰還」の部を担うはずの序盤と終盤の説得力がどちらも弱めで気になった。冒頭の両親の行動はまるで「もののけ」にでも憑かれたかのように不自然だし(声優のまずさがその印象に拍車をかける)、後半は主人公に課される試練がえらくあっけないため、物語のなかで何かを「乗り越えた」感触がないまま終わる。特に終盤の駆け足ぎみの展開は、(昨年の『となりのやまだくん』の興行成績があまりに芳しくなかったとかで)慌てて製作せざるをえない事情があったのかな、なんて邪推してしまいたくなった。あとは「白竜が魔女に弟子入りした理由」など多くの背景事情を解説しないまま放置しているのはなかば確信犯にしても、後半まで効いてくる「小道具伏線」が川の神からもらった魔除けの団子だけというのはちょっと物足りない。

佳作でわりと愉しめたけれど、はじめとおわりの切れ味が良くないのは異世界訪問ものとしてどうも弱いんじゃないかということで。

『善人はなかなかいない』

フラナリー・オコナー/横山貞子訳/筑摩書房[amazon] [bk1]
A Good Man Is Hard to Find - by Flannery O'connor
★★★★

フラナリー・オコナーの作品選集。収録作は「善人はなかなかいない」「強制追放者」「森の景色」「家庭のやすらぎ」「よみがえりの日」の五編。

表題作の切れ味もさすがだけれど、分量的にも長めの「強制追放者」が象徴的でいちばん印象に残っている。

この「強制追放者」では、都合三人の人物が交替で物語の視点人物をつとめる(だから短編としてはややおさまりの悪い構成かもしれない)。そしてその三人が三人とも、利己的で怠慢で守旧派の、つまり好ましからぬ人物として描かれる。これはもちろん人の醜い面を戯画的に誇張した書法なのだけれど、それらがまったくの他人事かというとそうでもなく、読んでいくうちにわれわれ読者も、ひとつやふたつはかれらの反応に同調してしまう箇所があるのではないだろうか。そういう意味で、これは読者の倫理を試すような居心地の悪い小説だと思う。まさに「善人はなかなかいない」ということ。

そしてかれらの醜い小市民ぶりが暴露されてしまうのは、「勤勉・無欲・先進的」と文句のつけどころのない移住者が闖入してきたせいでもある。この構図はたとえば、スティーヴン・ドビンズの『水の棺の少年』の前半で、改革派の新校長に対してぬるま湯的な現状を維持したい守旧派の教師たちがねちねちと嫌がらせを繰り広げる展開に似ている。人間の好ましくない面を意識的にあぶりだすという点で、ジム・トンプスンその他の「ノワール」作家とも通じるところがあると思う。

ほかでは、きまじめな青年とニンフォマニアの娘の邂逅が奇妙な緊張をもたらす「家庭のやすらぎ」も良かった。拳銃はいうまでもなく「男根」の暗喩なのだろうな。

『夢幻会社』

J・G・バラード/増田まもる訳/創元SF文庫[amazon] [bk1]
The Limited Dream Company - by J. G. Ballard, 1979
★★★

バラードの小説はミステリ風味の小品『殺す』を読んだきりで、まともに読むのはこれがはじめて。本書は作者の集大成的な作品らしくて、これは、(1)作者の魅力がわかりやすく詰め込まれている、とも、(2)作者の世界になじんでいないと何をやっているのかよくわからない、とも解釈できそうなところだけど、読んでみた感想は「どうも後者だったかな」というかんじだ。

全編、「性」と「死」そして「飛翔」に彩られた夢想がほとんど脈絡なくつむがれる。明らかに「SFじゃない」のはともかく、たとえば似たような「性的妄想たれ流し」系小説の津原泰水『ペニス』にしても、「信頼できない」一人称語りや実験的文体の頻発といった叙述構成のひねりがあるわけで、そういった興趣もないまま思いつきにまかせたような描写が続くのは、読んでいてちょっと散漫に思えた。

2001-08-06

『ペニス』批評

石堂藍氏の藍読日記(7/5)で、津原泰水『ペニス』(双葉社)の感想。

性的な妄想小説。作品の構造がどう読み取っても壊れるように精緻に作られているので、ハードコアの純文学読者、もしくは構造的ミステリの愛好者に薦められる。

これは必ずしも好意的な批評ではなさそうだけど、明晰な読みで興味深い。僕はいちおう後者の「構造的ミステリの愛好者」に近いのだろうな。

2001-08-08

ミステリ系

ミステリ系更新されてますリンクに入れてもらったようです。

紹介経路が増えるのはありがたいけれど、このところ当方のミステリ色はだいぶ薄れているような気がする。先月書いた上半期回顧覚書なんかでも、まともな謎解きものはひとつも挙がっていないしね。

『渦』

Maelstrom, 2000
★★★

カナダの新鋭というふれこみのデニ・ビルヌーヴ脚本・監督。カナダ産の映画とはいえケベックが舞台のため、話されるのはおもにフランス語。外見的には恵まれた(しかし内面の孤独も抱える)女性が、不慮の事故から運命の「渦」に巻き込まれていくさまを、意図的に不安定なカメラで執拗に撮る。

とりあえず主演女優のマリ・ジョゼ・クロ−ズはシャープな美貌でなかなか魅力的。冒頭からクローズアップされる青い瞳の美しさに吸い込まれる。化粧が崩れたり、洗面所で吐いたり、シャワーを浴びながら気が遠くなったりの体当たり演技的な場面も連発で、ちなみに乳房と陰毛の露出もあり。(最近はこういうの珍しくないような気もしますけどね)

映画としてさほど新鮮な興味は感じなかった。時系列の提示を少しひねって、ささいな偶然で運命が変転する展開を見せるのは、『パルプ・フィクション』以降、「新感覚」と称する映画で幾度も見せられていささか食傷気味だし(それらことごとくがどうでもよかったと思う)、落ち込む場面でわざと明るい音楽を鳴らすミスマッチの皮肉は、『ハピネス』のほうが巧妙だった気がする。

この作品を観たかぎりでは、先輩格のアトム・エゴヤン(『スウィート・ヒアアフター』)ほどの才能ではなさそうな感想。

2001-08-09

『深夜特捜隊』

デヴィッド・グーディス/井上一夫/創元推理文庫
Night Squad - by David Goodis, 1961
★★★

ジム・トンプスン、チャールズ・ウィルフォードとならんで米国パルプ・ノワールを代表する作家の、数少ない邦訳作品のひとつ。

汚濁に満ちた暗黒街「スワンプ」を舞台に悪党たちが入り乱れる、典型的なハードボイルド/ノワール小説。主人公が刑事くずれの与太者で、「ギャングの用心棒」と「警察の特殊部隊」のあいだを二重スパイ的にふらつく設定は、エド・レイシイ『さらばその歩むところに心せよ』なんかの1950年代の「悪徳警官もの」に近いものを感じる。人物の行動が正義や誇りなどではなく、ことごとく個人的な動機(歪んだ復讐とか)にもとづいているのも、そのあたりの作風と共通しているところ。

ただ良くも悪くも普通の撃ち合い小説の文法で進むため、ジム・トンプスンみたいなねじくれた諧謔や、『さらば――』のような熱気ある語り口といった突出した個性も見られず、その点はちょっと物足りない。(主人公が警察バッジを相手に延々と「会話」するのは独創的といえるかもしれないけど……)

2001-08-11

『明治断頭台』

山田風太郎/ちくま文庫[amazon] [bk1]
★★★★

明治新政府初期の東京を舞台にした連作探偵小説。いったん解決した個々の短編にまた新たな解明が示され一本の線のもとに結ばれる、いわゆる「連鎖式」のお手本のような二重底の構成になっている。本格ミステリ色の強い技巧的な連作集。

それぞれの事件で「実行犯が誰か」はほぼ判明していて、興味の焦点は犯行手段をめぐる物理トリックに絞られる。だから解明はさほど劇的なものにはなりえず、むしろこの時代ならではの小道具の選択や、実在の有名人を絡めた背景事情づくりの巧さ(この史実や人物の組み合わせも結構パズル的といえるかも)なんかのほうに感心した。事件の解明は「フランス女の降霊儀式」で語られる独特の形式なのだけれど(解明の提示にお祓い系の儀式を持ち込む手法は京極夏彦に継承された?)、その台詞がぜんぶ片仮名の表記なので、個人的には正直えらく読みにくかった。

ということで、特筆すべきはやはり終盤に明かされる全編の仕掛けになりそう。着想としてはたぶんアガサ・クリスティの某有名作を下敷きにしていると思うのだけど、個々の短編をきちんと成立させながらこの大胆な趣向を盛り込める業師ぶりにまず感心するし、さらにそれがこの時代背景ならではの物語の必然的な帰結にもなっている。メタ探偵小説的な興趣もあり、山風ミステリの代表作(のひとつ)と賞賛されるのも納得の充実ぶりだった。ただ贅沢を承知であえていえば、まだ遠くない明治の歴史を題材にしているせいか、たぶん多くの読者が山風に期待するだろう「奔放な奇想」からはいくぶん外れるような気もしないではないのだけれど。

明治と敗戦直後

ちなみに、山田風太郎がなぜ明治初期を舞台背景に選んだのかについては、この『明治断頭台』の冒頭の記述が興味深い。

 大戦争とか大革命とかが終わると、たいていの国に数年間、「空白の時代」が訪れるようだ。
 むろん、おびただしい流血のあとだから、勝利者の驕りと懲罰、敗北者の卑屈と怨恨の葛藤は平和時にまさって強烈に渦巻いているのだが、それにもかかわらず、あとでふり返ると、なぜか空白の時期の印象がある。太平洋戦争が終ってからの数年がそのいい例だ。
 そして、明治初年がまたその通りであった。
 太平洋戦争の敗北時ほど全国民的な虚脱感はなかったが、同時に、平和にひたる心からの安堵感もなかった。敗者はもとより勝者も、しばらくは何から手をつけていいのか、まったく昏迷におちいっていた点では、それ以上であったように思われる。(p.9)

つまり、明治初期の時代の雰囲気は「敗戦直後」の混乱と虚脱感に似ている。その重ね合わせを(「戦中派」の)作者は少なくとも念頭に置いていたようだ。

山風とミステリ的資質

本書『明治断頭台』の解説で日下三蔵氏は、山田風太郎の作家としての資質がミステリ的であることを論じて、次のような作者の言葉を引用している。

 いくら伝奇小説でも、限度を超えた歴史の勝手な変改や捏造は許されない。(中略)この戒律を守ったうえでの芸当でなくては面白みがなく、だいいちその限界を破っては、その小説そのものが無意味になる。
 実は私は、読者は失笑されるかもしれないが、以前に荒唐無稽な忍法小説なるものを書いていたころでも、自分としては極力この戒律を守っていたつもりなのである。
(中略)
 とにかく常識に叶いながら常識を破る、あるいは常識を破りながら常識に叶う、というのが私の念願であった。(p.440)

このような哲学がミステリの原理にかなっている、との指摘には同感。(このへんの意識はSFの読者にも共感を得られそうですね)

加えてもうひとつ、山田風太郎の「ミステリ的」な資質として見逃せないものを挙げておくと、それはたとえば忍法帖における過激な肉体改変・人体の武器化といった発想に象徴される、人間を「物体」「道具」とみなす冷徹な視線だ。このあたりの感覚はやはり医学生だった経歴から来ているところも大きいのだろうけど、結局その態度が、人物を犯罪や謎解きの「駒」として扱うミステリの文法と幸福な合致をみているように思える。名作『太陽黒点』やこの『明治断頭台』を貫いている「ある主題」も、その「人間を道具としてみなす」発想のそのまま延長上にあるとみることもできるだろう。(もちろんそれはいわゆる「人間を描く/描かない」といった次元の問題ではなく)

山風系リンク

にわかに山風特集みたいな様相を呈してきたけれど、ついでに山田風太郎関連で入門者の参考になりそうな記事を少し集めてみた。そんなに綿密に探したわけじゃないので、まだたくさんあるだろうと思うけど。

2001-08-12

Netscape 6.1

最新の正式版をようやくダウンロードして試用。

デザインは洗練されて格好いいし、デフォルトの文字表記が非ゴシック系なのも新機軸みたいで悪くない(Times系の字体がまともに表示されるようになったのも好印象)。ただページの読み込みが格段に遅く感じられて、快適な使用感とはいいがたいんだけど。実をいえば見た目はかなり気に入ったので、惜しいなあ。

とりあえず当サイトはそれなりに表示されたのでひと安心。

『イディオッツ』と『中国女』

ラース・フォン・トリアー監督の『イディオッツ』に関しては、ゴダールの『中国女』を引き合いに出している古谷利裕の偽日記(7/29, 30)の論評がなかなか的確そう。といっても僕は結局ゴダールを観てないからわからないんだけど。

2001-08-16

『ビッグ・トラブル』

デイヴ・バリー/東江一紀訳/新潮文庫[amazon] [bk1]
Big Trouble - by Dave Barry, 1999
★★

おふざけコラムニストの小説初挑戦作。マイアミを舞台にしたどたばた犯罪コメディということで、カール・ハイアセンみたいな作風を期待するむきが多そうだけど(実際、ハイアセン本人を出演させた『フロリダ殺人紀行』でもデイヴ・バリーの名前が登場していたはず)、べたな笑いとべたなロマンスの混ぜかたはTV番組レベルの想定というかんじ。作中でも、いい年したおっさんが『バフィー〜恋する十字架』を観ていたりと、TV関係の話題が多数盛り込まれている。

空港の描写など断片的におもしろい箇所もあるものの(これは作者の実際に知っていることをもとにしているからだろう)、本職がコラムニストのせいか、小説の叙述にしてはいささか説明をこらえなさすぎと思える箇所も少なくなかった。

まあ、翻訳が東江一紀なのでさくさく読めるのは確かだけれど。

ユニクロ風衣料店

だそうで。実はこの渦中の店舗は自宅の近くにあって、いちおう服を買ったこともある。たしかに似た外装ではあるのだけれど、「ユニクロの新業態の店かと錯覚してしまうほど」「このままでは消費者が混乱する」との言い分はさすがに無理があるような。街ではたとえば「スターバックス風の珈琲店」なんてのも普通によく見かけるし。

それにこの売場は、見たところそんなに売上をあげているとも思えないのだけど。まあ、ダイエーの店舗内にユニクロが一部出店している背景事情が、たぶん争いのもとなんだろうけど。

2001-08-17

Maxim Jakubowski Interview

吉野仁さんのCrime Novel Topics(2001/7/28)から、Maxim Jakubowski Interview。この人は英国のノワール系作家&編集者らしい。コーエン兄弟の犯罪映画を絶賛しているのが興味深かった。

『ブラッド・シンプル』はジム・トンプスンが書かずにおわったとびきりのジム・トンプスン映画だ。……そして『ミラーズ・クロッシング』は、ダシール・ハメットが書かずにおわったダシール・ハメットのたぶん最高傑作だろう。

『ブラッド・シンプル』はジム・トンプスンというよりむしろジェイムズ・M・ケインじゃないかと思うけれど(それにヒッチコック+『死霊のはらわた』風味といったところか)、この二作の作風を的確に伝えているおもしろい表現だと思う。『ブラッド・シンプル』と『ミラーズ・クロッシング』はここでも何度か言及しているように(2001/02/18など)、どちらも犯罪小説好きなら必見の傑作だ。

2001-08-18

『土曜を逃げろ』

チャールズ・ウィリアムズ/青木日出夫訳/文春文庫
The Long Saturday Night - by Charles Williams, 1962
★★★

先頃『絶海の訪問者』が訳されたチャールズ・ウィリアムズの、数少ない邦訳作品のひとつ。フランソワ・トリュフォー監督で映画化されているらしい。(邦題『日曜日が待ち遠しい!』)

ある日突然殺人容疑をかけられ、みずからの濡れ衣を晴らすために奔走する……という『幻の女』的な巻き込まれ型サスペンス。あまりひねらずあっさりと進んでいく古典的な筋書きで、悪く言うところもないけれどとりたてて秀でた作品とも思えなかった。終盤に張られた『スティング』系のひっかけも、ちょっと古くさいものであまりぴんとこない。

『絶海の訪問者』で個人的に注目していた「追い込まれた人物の試行錯誤の筋道を細かく描写する」というような特質は、この作品でも、とりわけ物語の前半ではそれなりに発揮されていたように思う。

『チューリップ熱』

デボラ・モガー/立石光子訳/白水社[amazon] [bk1]
Tulip Fever - by Deborah Moggach, 1999
★★★

17世紀の全盛期オランダを舞台にした英国の小説。スティーヴン・スピルバーグが映画化権を取得しているらしい。

時代ものだからもうちょっと重厚な筆致なのかと思ったけれど、作者はTVドラマの脚本を書いたこともある人らしく、これはかなり軽快(というか軽薄)な筋運びの小説だった。場面も視点人物も速いリズムでさくさくと入れ替わり、そのついでに一人称と三人称の叙述も入り混じる。(この点にはさすがに抵抗を感じた。しかも特に一人称の必然性があったようには思えないし)

登場人物の行動原理もみんなやたら身勝手かつ軽率で、それに「恋愛」が「肉欲」とほとんど等しく描かれているようなのはあれで良かったんだろうか。そういう記号的な人物たちの「勘違い」を連鎖させて物語を進める手法はきらいじゃないのだけれど(ガイ・リッチー監督のクライム・コメディ映画『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』などが思い浮かぶ)、物語の主軸になる「計画」のむりやりさをはじめ、あちこちにほころびが散見されてあまり感心しなかった。題名にもなっているチューリップ投機バブルの絡めかたもいまひとつ。

レンブラントなどの絵画が多くモチーフになっているようなので、そのあたりに造詣の深い人はまた別の角度から読めるかもしれない。

2001-08-19

『ショート・カッツ』

Short Cuts, 1993
★★★★

ロバート・アルトマン監督のLAを舞台にした群像劇。ほとんど何も特別な事件が起こらないまま、さまざまの人物の日常生活が並行してたらたらと進んでいくだけなのに、なぜかすごくおもしろい映画だった。複数人物の関係がパズル的に連鎖していく面白味(観客だけがすべてを知っている)だとか、どこか破局の予感を漂わせる冷徹な生活描写だとか、個別の論点はそれなりに挙げられるのだけど、要するにこれは編集の巧さなんだろうか、実はよくわからない。

『マグノリア』はこの『ショート・カッツ』を参照していたらしいのだけれど、ポール・トーマス・アンダーソンの鬱陶しい演出(登場人物たちをやたら泣き叫ばせる)とは、これはぜんぜん格が違いますね。

『ナイト・オン・ザ・プラネット』

Night on the Earth, 1991
★★

ジム・ジャームッシュ監督。「夜のタクシー」をお題にしたオムニバス映画。欧米五都市(LA、NY、パリ、ローマ、ヘルシンキ)を舞台にしたくらいで "on the earth" なんて称する無邪気さが鼻についたのはともかく、各話ともえらく退屈でおわりまで観る気になれず、ローマ編あたりで途中下車。

映画の意図としては、それぞれ異なる文化や価値観を背負った人物どうしが、たまたま接点を持ったゆえの面白味、といったところを描きたいのだろうけど、「素朴で世間知らずの田舎者」「神秘的な視覚障害者」など人物像がどれもやたら類型的で、したがってその筋書きもただ類型どうしをぶつけるだけの弛緩したものにしかならない。

NY編で「ファック野郎!」なる珍語を連発していた字幕の出来もひどかった。

『フルメタル・ジャケット』

Full Metal Jacket, 1987
★★★

スタンリー・キューブリック監督のヴェトナム戦争映画。

少なくとも退屈ではないから失敗作とは思わないものの、海兵隊の軍事教練を描く前半とヴェトナム行きの後半が、ほとんど別の話になっているのでちょっと評価しづらい。どちらかといえば人気がありそうなのはたぶん、パルプ・ノワール的な卑語や罵倒が機関銃のように連射される前半なのかな。たしかにここはおもしろいけれど、どうも『時計じかけのオレンジ』の再話みたいで個人的にはさほど新味を感じられなかった。

従軍記者の視点から戦場へ導いていく後半部分は、カメラマン出身のキューブリック監督としては、たぶんこういう切り口しかないのだろうなと思わせる。物語的なまとまりはさほどないし、『シン・レッド・ライン』みたいな先鋭さも感じないけれど、終盤の場面に漂う不吉な「死」のにおいは心に残る。

『タイムトラベラー きのうから来た恋人』

Blast from the Past, 1999
★★★

古典的な筋書きだけど安心して愉しめる佳作。エミール・クストリッツァの傑作『アンダーグラウンド』の設定を一部借りてきて、ウェルメイドな人情コメディに仕立て上げたようなかんじか。

主演のブレンダン・フレイザーはどうも古風というか、時代遅れの「さわやかハンサム・ボーイ」みたいな印象を免れないのだけど、この映画の「50年代的な環境の地下シェルターで育てられた好青年」という人物像は、その「現代とのずれ」までも含めて彼にうってつけの役柄。『トゥルーマン・ショー』におけるジム・キャリーみたいなもので、悪意さえ感じる的確な配役だと思う。

2001-08-21

『ロマン・ノワール』

J-P・シュヴァイアウゼール『ロマン・ノワール−フランスのハードボイルド』(平岡敦訳/白水社文庫クセジュ)[amazon] [bk1]を読む(原題は"Le roman noir francais")。米国のハードボイルド/犯罪小説の影響を受けたフランスの小説群「ロマン・ノワール」の流れを概括した評論本。このあたりの分野を体系的に紹介している訳本はたぶん少ないだろうから、資料的な意味はそれなりにありそう。ただし基本的に小説の題名を並べているだけで、作品の中身に突っ込んだ批評はほとんどないため、読書案内としてはだいぶ物足りない。少なくとも未読の作家・作品に興味を湧かせるような内容ではなかった。

個人的に興味深かった点が、これは映画の分野でも言われることだけれど、フランスではドイツ占領時代の言論統制の反動で、第二次大戦後「アメリカ的なもの」がやたら渇望されて熱心に輸入されたということ。それが結局「ロマン・ノワール」の興隆につながる下地になったらしい(たぶん映画界の「ヌーヴェルヴァーグ」にも似たようなことがいえるはず)。日本でも戦後似たような状況がないでもなかったろうと思うのだけれど、結局さかんに書かれたのは横溝正史などの「本格」探偵小説なわけで、まあ、いわば日本にはマルセル・デュアメル(「セリ・ノワール」叢書の編纂者)ではなく江戸川乱歩がいた、ということになるのかな。

『ΑΩ』と『寄生獣』

小林泰三 FAQの情報によると、

最近の漫画では荒木飛呂彦さんの『ジョジョの奇妙な冒険』、岩明均さんの『寄生獣』などが気に入っています。

なのだそうで、これはわりと納得した。この作家の新作 『ΑΩ』はどうも「超人」ネタばかりがもてはやされているみたいだけれど、明らかに『寄生獣』の設定を下敷きにしてもいるはず(そのあたりにふれた論評をあまり見かけないのはどうしてだろう)。ついでに『ジョジョ』からの引用らしき台詞も少しあったし。

このふたつの漫画はどちらも、主人公が単なる超人ではなく生身の人間で、限られた能力をどのように活かして闘うか、というような思考実験の筋道が論理的に描かれるのがおもしろい。そのあたりがSF/ミステリと通じるところで、僕もこの二作は両方好きです。

2001-08-22

『パパは出張中』

Otac N'a Sluzbenom Putu, 1985
★★★

エミール・クストリッツァ監督(『アンダーグラウンド』『黒猫・白猫』)の初期作品で、カンヌ受賞の出世作。ティトー政権初期のユーゴスラヴィアの社会情勢を少年の目線から描いている。

次作『ジプシーのとき』(1989)以降の奔放なクストリッツァ流ファンタジーはまだ発揮されておらず、「貧乏国の辛気くさい社会派フィルム」の典型にだいぶ近くなっている。ビデオの画像がだいぶ粗かったこともあり、正直いまひとつ話が把握できなかった。あと個人的に、少年のナレーションで語られる映画はどうもあまり好きになれない。

父親をめぐる挿話は『アンダーグラウンド』の「親友の裏切り」を想起させて、終盤の宴会で交わされる対話も同作品の終幕でふたたび語られるものと同じ。つまり『ジプシーのとき』『アリゾナ・ドリーム』のファンタジックな幻想をもって『パパは出張中』の地点へ戻ったところに、あの傑作『アンダーグラウンド』が生まれたということになるだろうか。

『暗殺の森』

Il Conformista, 1970
★★★

ベルナルド・ベルトルッチ監督。イタリアのファシスト党政権時代、秘密警察からの暗殺任務を帯びてパリへ派遣された人物を描く。

いわゆるヨーロッパ映画の典型というべきか、話はどうでもよくてひたすら壮麗な美しい映像がたれ流される系統の映画。こういう作風はどうもなじめなくて、だいたい話の流れをどうやって追えばいいのかよくわからない。たしかにそれぞれの場面は息を呑むような美しさで感心するのだけれど、この映画に関していえば、全般にそれは動く映像ではなくて、一枚絵の魅力にすぎなかったような気もする。

内容的にはもうちょっと非情なハードボイルド風の筋書きを予想していたのだけれど、およそ場面の八割くらいは女とべたつくロマンスに割かれていたような。どうせならこの映像の質感で、まともにクライム系の話を撮ってくれればなあ、なんて思わないでもない。(それを実践したのがコーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』なのかもしれないが)

『ホームドラマ』

Sitcom, 1998
★★

フランソワ・オゾン監督。題名のとおり家族団欒ドラマの形式を借りて、そこに下ネタの連発をぶちこんで解体していくブラック・コメディを意図しているみたいだ。理解できなくはないんだけど、いまさら特に斬新な試みとも思えないし、はじめから悪趣味路線の汚い撮りかたをしているので画面が見苦しい。似たような系統なら、『ハピネス』や『アメリカン・ビューティー』なんかの米国産映画のほうが、役者がまともで映像が綺麗なだけ、だいぶましな気分で観られると思うんだけど。

2001-08-24

『ジャンピング・ジェニイ』

アントニイ・バークリー/狩野一郎訳/国書刊行会[amazon] [bk1]
Jumping Jenny - by Anthony Berkeley, 1933
★★★★★

「こんな状況はとうてい小説には使えませんね。こういう露骨なものではなく、もっと現実の生活に即したものでなくてはらないんです」
「どういう意味?」
「偶然の一致が多すぎるんです。ここにその存在が何人かの人間にとって迷惑の種、いやおそらくは迷惑どころではない厄介事の原因になっている女性がいる。その理由もさまざまだ。そして、その人々の怒りが絶頂に達した、まさにそのときに、彼女はご親切にも、そしてまったく思いがけないことに自殺してしまう。こんなとんでもない偶然は、小説の中ではとても受け入れられないのは、あなただって認めるでしょう」(p.122-123)

黄金期の異色作家アントニイ・バークリーの作品。探偵小説の枠組みを解体するような、さすがにこの作家らしい先鋭的で興味深い創作だった。『トレント最後の事件』の系統に連なるアンチ名探偵ものの収穫でもある。

田舎屋敷の仮装パーティで死者が出る、といういかにもありがちな設定ながら、犯行人物をあっさり明かしてしまうのがまず異色の導入。だから読者は「真相」をあらかじめ知っているわけだけれど、探偵役の余計な介入が結果的に事態を混乱させ、探偵の推理の矛先のほうも本来の地点からどんどんずれていく。このあたりのひねり具合は絶妙で、さらに探偵自身は〈証言や証拠を捏造して、警察の捜査から事態を隠蔽しようと画策〉しはじめる始末。「事件を解決しない」探偵はそんなにめずらしくないけれど、探偵の行為そのものがこれだけ事件をねじまげてしまう小説というのは読んだことがない気がする。

ただしその中盤の先鋭ぶりにくらべて、隠し玉のような結末がどうもちゃちに感じられるのも確か。この終盤の構成は『トレント最後の事件』を思わせるけれど、ここで『トレント』みたいなパズル的完成が加わっていれば、きっと文句なしの傑作になりえただろう。(ついでにいえば、〈死んだやつがみんな悪い〉ことにして話をさっぱりさせる手口も『トレント最後の事件』に似ている)

「殺されて当然の迷惑な女」「証拠の捏造」「あべこべの裁判」といった要素は、この作家のたぶん最高傑作だろう『試行錯誤』(Trial & Error, 1937)[amazon] [bk1]に引き継がれている。いわばこれは『試行錯誤』の予行演習にあたる作品のようにも思えた。

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