▼ Book Review 2000.10

『最初の恋、最後の儀式』 イアン・マキューアン
『警官嫌い』 エド・マクベイン
『鉄の門』 マーガレット・ミラー
『キル・ミー・アゲイン』 テレンス・ファハティ
『アンダードッグス』 ロブ・ライアン
『マザーレス・ブルックリン』 ジョナサン・レセム
『囮弁護士』 スコット・トゥロー
『危険なやつら』 チャールズ・ウィルフォード

※(ごく主観的な)評価は★5段階。

『最初の恋、最後の儀式』 ★★★★
イアン・マキューアン/宮脇孝雄訳/早川書房
First Love, Last Rites/Ian McEwan(1975)

『セメント・ガーデン』(1978)『アムステルダム』(1998)などの英国作家イアン・マキューアンのデビュー短編集。収録作は「立体幾何学」「自家調達」「夏が終わるとき」「劇場の大将」「蝶々」「押入れ男は語る」「最初の恋、最後の儀式」「装い」。翻訳者の宮脇孝雄が的確に指摘しているとおり、この作品集に描かれる構図は第一長編『セメント・ガーデン』へほとんどそのままひきつがれている。思春期の性のめざめ、大人のいない共同生活、近親相姦、服装倒錯といった意匠たちは、どれもここですでに登場ずみ。頽廃に彩られた反道徳的な物語世界に、淡々とした退屈が充ちていたり滅びの影がしのびよっていたりする感覚も、だいたい共通している。『セメント・ガーデン』のほうがだいぶ洗練されているけれども(シミュレーション的な興趣もあったし)、これはこれで興味深かった。
■個人的には「夏が終わるとき」と「最初の恋、最後の儀式」が良かった。『セメント・ガーデン』の姉弟たちが母親の死体を文字どおり隠蔽して、いつか露顕することを予期しながらもなかば忘れたふりをしていたように、この二編でも、頽廃的で気ままな暮らしのかげで、家事や出産や子守などといった現実的(で母親的)な日常が、見て見ぬふりのまま隠蔽されつづけていたことが暴露されている。
■マキューアンの文章はなかなか独特でおもしろいのだけど、それは基本的に「欠落」のおもしろさであるような気がした。過剰に何かを抱え込むというのではなく、文章からわざと何かを欠落させているために、変な興味がつのってくるというような。たとえば、収録作のひとつ「蝶々」の書き出しはこんなふうになっている:

 私が初めて死体を見たのは木曜日のことだった。今日は日曜日で、何もすることがない。しかも、暑かった。(p.109)

ここでは文と文のあいだのつながりから、明らかにいろんなものが抜け落ちている。論理性とか、因果関係とか、時間の流れとか。このなんじゃこりゃ的な奇妙さが、淡々とした語り口にもかかわらず妙に惹きつけられてしまうひとつの要因だろう。この作家が一人称の叙述を好んで用いるのは、そこにまず客観性が「欠落」しているからではないかと思う。
■ほぼ全編にわたって性的な衝動を描きながら、それが決して充実感ある成功体験に結びつかないのも特筆すべきところ。ただむやみに露悪的でインモラルなわけではなくて、この作品はそういう奔放さの果てにある虚無感やみじめさみたいなものをシニカルな態度で見据えている。
(2000.10.30)


『警官嫌い』 ★★
エド・マクベイン/井上一夫訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
Cop Hater/Ed McBain(1956)

■いわゆる「八七分署」連作のひとつめ。実ははじめて読みました。正直なところ、この作品自体はいま読んでどうこうという出来ではないように思う。初登場の主人公スティーヴ・キャレラは別段ふつうのアメリカン・ヒーローみたいだし、そのキャレラと恋人が犯人の標的にされてしまう終盤の展開はかなりむりやり。アガサ・クリスティの某作みたいな犯行動機もちょっと勘弁してほしい。(この種の動機は実際いろんな作品で使いまわされているけど、よほどの必然性がないとただ単に安易としか思えない)
■本書の売りは、下級の刑事を主役に据えたこと、実務文書らしき書面をあちこちに挿入した臨場感、ちょっと文学的な香りのする文章表現などいろいろと挙げられるだろうけど、いちばん大きいと思ったのはテンポのいい会話と筋運び。読んでみると、台詞が短くて行をまたがずに終わることがえらく多いことに気づく。たとえばp.177からはじまる章なんかは聞き込みの場面で、ほとんどが台詞で構成されているのだけど、見開きのすべてが一行以内におさまっている箇所がいくつも見られる。このやたらさくさく進む軽快な会話のリズムが、スピード感あふれる筆致を成り立たせているんだろう。まあ、日本のライトノベル系なんかでもよくあることかもしれないけど。

(2000.10.29)


『鉄の門』 ★★★
マーガレット・ミラー/青木久恵訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
The Iron Gate/Margaret Millar(1945)

■マーガレット・ミラーのわりと初期の作品。さすがにまだこなれていないところはあるけれども、不安定な脆い精神に入り込む繊細で残酷な心理描写、崩壊しかけた家庭、超現実的な比喩を織りまぜた文章など、随所にミラーらしさをうかがわせる。この時代に精神医学的なものをここまでとりいれている作品もめずらしいのではないか(ついでにいえば、数年後に書かれるエラリイ・クイーンの『十日間の不思議』(1948)や『九尾の猫』(1949)にも通じるものを感じる。とくに後者か)。この作品を当時かなり褒めたらしい江戸川乱歩はやはり慧眼だと思う。各章題につけられている「狩り」のモチーフや、自分にない「幸福」を求めようとしたゆがんだ(しかし誰にもおぼえはありそうな)心理は、有名な『狙った獣』(1955)にもひきつがれている。
■隠された真相はかなり単純だし(実は、隠そうとしているのかもよくわからないのだけど)、第三部がごくふつうの事後的な謎解きの役割になってしまっているので、そのあたりはやや物足りない。のちの作品では、たとえば本作の第二部や幕切れみたいな異様な文体に託してあざやかに真相を提示してみせる、というような離れ業が披露されていたりするので。
■題名「鉄の門」は、第二部の舞台となる精神病院の門のこと。堅牢で不吉な「鉄の門」を安心のできる防護壁と感じる、彼岸の境地を描いていくのがミラーらしい。この精神病院の扱いは、のちの傑作『まるで天使のような』(1961)で登場する新興宗教のコミューンと似ている。家庭生活で安息を得られず、ようやくたどりついた安住の地。そんな別世界でも、やはり病んだ心には不安感しか募らない。
■某氏の例の理論ではないけれど、時代が戦時中なのは示唆されているし、冒頭では悲惨な列車事故が起きていたりもする。そういう「大量死」の存在が、物語全体に不吉な影を投げかけている。

(2000.10.28)


『キル・ミー・アゲイン』 ★★★★
テレンス・ファハティ/三川基好訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
Kill Me Again/Terence Faherty(1996)

「いいか、よく聞け。あんたみたいなタイプはもうすっかり時代遅れになってるよ。あんたみたいな類の私立探偵は、戦争前にもう流行遅れになってるんだ」(p.308)

■屈折した小生意気な探偵が、ひねくれた軽口をたたきながら事件の謎を追っていく。たしかにいまさら時代遅れの古風なハードボイルドなんだけど、さすがに作者もそのことは先刻承知。時代を過去にさかのぼり、それも戦後まもない「1947年のハリウッド」というレトロな雰囲気の舞台設定(まだレイモンド・チャンドラーも現役で書いていた時分だし)を選んだうえで、この主人公像を確信犯的に溶け込ませている。さらに登場人物がだいたい映画関係者のため、探偵との「気の利いた会話」を物語のお約束としてたのしんで積極的につきあってくれたりもする。ちょっと作為的にすぎる気もしないではないけど、やはり設定した者勝ちだろう。
■〈「カサブランカ」〉を模した映画の続編が事件の核心になっているだけでなく、いろいろと小ネタなんかも仕込まれていそうだけれども、あいにく僕にはよくわからない。この時代のハリウッドに関心のある人ならより興味深く読めるんだろう。「赤狩り旋風」前夜の時代情勢も、きちんと事件の展開に絡んでくる。
■謎解き的にはいくつか興味深いことをやろうとしてるんだけど、物語の雰囲気からはいささか浮いているようで残念。たとえば、p.443の主人公の台詞みたいな解説のしかたは、ちょっと格好悪すぎるんではないか。
■主人公が引揚兵のせいもあって、戦争の暗い影をひきずっているかんじが物語全体に漂っているのもなかなかいい。戦争が終われば世界はもっと良くなっていると思っていたんでしょう?というような意味のことを主人公が問われる場面は、そのままハードボイルド探偵論にもなっているのではないか、という気がした。

(2000.10.25)


『アンダードッグス』 ★★★
ロブ・ライアン/伏見威蕃訳/文春文庫
Underdogs/Rob Ryan(1999)

■シアトルの地下に眠る廃墟「アンダーワールド」(というのがあるらしい)で展開される追跡劇を、小気味良い現代風の筆致で描く。マイクロソフトやスターバックスなどの光(ついでにいえば、どちらも1980年代以降にのしてきた新しい企業ですね)の影に埋もれた暗い地下世界を探索する展開と、ヴェトナム戦争の地下戦闘をめぐる忌まわしい過去の記憶とが徐々に重ねあわされていく、という奥行きのある構成には工夫を感じられた。でも作者は英国人。
■実は後半、とくにクライマックスで展開される地下戦闘の情景が、読んでもいまいち像を結ばないままだった。序盤のコンビニ強盗の場面のほうが良かったような気がするくらい。この作家のアクション描写は、映画のカメラ的な叙述スタイルでばんばん視点を切り替えていく手法がめだつため(そういえば主人公格の人物の職業は一応カメラマンだ)、映像的に読めないままでいるとちょっときつい。現在と過去をつなぐ展開になかなか意外な仕掛けが用意されていて驚いたけれども、それが物語全体にもたらす意味はさほどでもなかった気がする。地下で次々と怪しい人物が登場してくるのはなかなか愉しかったけれども。ところで、『不思議の国のアリス』の意匠を登場人物の名前とかにちりばめてあるのは、遊び以外の意味があったんだろうか。(なにしろ本編をちゃんと読んでないもので……)
■しかし、まだ八歳なのにゴールキーパー専業でサッカーをプレイしている(しかもペーター・シュマイケルをリスペクトする)女の子ってどうなのよ?

(2000.10.19)


『マザーレス・ブルックリン』 ★★★
ジョナサン・レセム/佐々田雅子訳/ミステリアス・プレス文庫
Motherless Brooklyn/Jonathan Lethem(1999)

断言や一般論というのは、いうまでもなく、トゥーレットの変形だ。世界に触れ、つかみ、確かな言葉で説明する方法なのだ。(p.499)

■ううむ。まあ確かに「超個性派」なのは間違いないけれども、正直なところなんとも評価に窮してしまう小説。読みづらい文体に破れかぶれの展開のようでいて、もしかするとものすごく精緻に組みあげられていたんじゃないかという気もしてくる。探偵にあこがれる半人前の青年(しかも孤児院出身)が、恩人の死の真相を解き明かそうと奮闘する筋書きは、いちおう『シカゴ・ブルース』や『ストリート・キッズ』なんかの青春ハードボイルドものに近い。けれども主人公がしじゅう駄洒落めいた言語発作に見舞われる「トゥーレット症候群」の青年で、その言葉の奔流がつむいでいく物語世界は、やたら独特の感覚に彩られている(ちなみに、訳者あとがきも言及しているトゥーレット症候群の関連サイトはここのことかな)。佐々田雅子の翻訳はこの言語感覚を再現するためにずいぶん奮闘しているけれど、佐々田訳でもこのかんじなら、ちょっと日本語訳で読むのは厳しい小説だったのかもなあ、なんて思ってしまった。(あと頼むとしたら、『アメリカン・タブロイド』で駄洒落記事、『クライム・ウェイヴ』では頭韻短編と、神業的な特殊翻訳の腕前を披露してくれた田村義進くらいでしょうかね)
■作者ジョナサン・レセムの第一作『銃、ときどき音楽』(浅倉久志訳/早川書房)は、知性を持った動物たちがうろうろする奇妙な近未来管理社会を舞台に、ハードボイルド調の私立探偵がまじめに犬猫を尋問し、カンガルーの殺し屋と死闘を繰り広げる、というえらく風変わりなSFミステリで、冗談とも本気ともつかない作風がなかなか好きだった。私立探偵小説の枠組みを借りて何か変わったことをしてやろうというような方向性は、本作でもある程度共通しているところか。『銃、ときどき音楽』が比較的正気の語り手をおかしな世界に配したため(まあ、それだけじゃないけど)まともなはずの筋書きからどんどんずれていくのに対して、この『マザーレス・ブルックリン』ではそもそも語り手が風変わりなせいで話がまともに進んでくれない、というようなかんじになっている。そうはいっても物語世界のほうもいささか変で、なぜか「ゼンドー」(禅道?)なる日本風の新興宗教とか、怪しい日系の企業とかが次々と登場してきたりもするんだけど。(ついでに日本の風習に関する「誤った記述」まで堂々と披露していたので、ちょっと笑ってしまった。確信犯なんだろうか)
■そういえば『銃、ときどき音楽』も結構人を食ったような解決だったけれども(不敵なバカ伏線まで利かせていた)、本作の解決はさらにすごいことになっている……ような気がしないでもない。
■ところで、エドワード・ノートン(「真実の行方」「ファイト・クラブ」とか)主演で映画化らしいと聞くと、ついそれだけで筋書きに妙な先入観を抱いてしまうのは僕だけでしょうか。いや好きな俳優ではあるんですけどね。

(2000.10.15)

>>"強くなくても生きていける"主人公
>>新しいハードボイルド観を提示する
>>「話は歩きながらしろ」(法月綸太郎)


『囮弁護士』 ★★★★
スコット・トゥロー/二宮磬訳/文藝春秋
Personal Injuries/Scott Turow(1999)

「われわれはみんな舞台にあがっているんだ。それぞれの台詞をしゃべってる。そのとき自分がなろうとする人間を演じてるんだ。法律家を。配偶者を。ただ、誰でも頭のなかの奥のほうでは、人生ってのは、もっとでたらめで、もっとめちゃくちゃなものだと気づいているがね。わかるだろ?」(p.68)

■スコット・トゥロー五作目の長編小説。前作『われらが父たちの掟』がやや文学趣味に走りすぎていたから少し不安だったのだけど、さすがに期待を裏切らない傑作だった。裁判所に蔓延する汚職の摘発をもくろむ、連邦の大掛かりな囮捜査「ペトロス作戦」の顛末を語る。まるで諜報戦のような捜査の動きと、そこから生じる人間関係の妙を並行させてじっくりと物語を進めつつ、終盤には第一長編『推定無罪』以来とも思えるような逆転劇を仕掛けている。謎解き的な構造がこれまで物語られた人間関係を反転させる、というトゥローらしい周到な作劇を堪能。邦題の意味もなるほどと思わせる。なかなか尻尾をつかませない黒幕の大物判事を破れかぶれの策で追いつめていく終盤の展開は、ちょっと「アンタッチャブル」みたいな風味だった。
■トロイの木馬として「囮弁護士」の役を担わされる主人公ロビー・フェヴァーの人物像が秀逸。軽薄な態度の裏で悲壮な覚悟をかためてもいる、といった複雑な性格描写が奥行きを感じさせる。もと演劇志望で、人生は舞台の「プレイ」にすぎないとうそぶく彼の言葉は、作者トゥローのこれまで見せてきた作風を象徴しているようでもあった。トゥローの描く物語はどれもたいてい、法廷の正義(『推定無罪』)や円満な家族(『立証責任』)や職場の権威(『有罪答弁』)のような人生の大切な基盤が、なかば演じられた芝居にすぎなかったことを暴露していく展開になっていて、だから主人公の立場に切実さを感じながら読むことができる。本書はさらにそういう「芝居」の趣向を捜査の構図と自覚的に重ね合わせて、厚みのある物語を構築しているように思えた。ちなみに、ロビーには難病の妻がいて、身体の自由が利かない彼女は "l" の音を "r" としか発音できないという設定になっていたのだけど、ロビーの口癖 "play" をその彼女流に発音するなら "pray"(祈り)と聞こえるはずだ――というのは、おそらく作者も意図していた演出ではないかと思う。
■ただ特に序盤の訳文がかなり直訳調でこなれてないように思えてしまったのと、作戦を主導する連邦検察官スタン・セネットが旧作『立証責任』の登場人物で(主人公だったユダヤ人弁護士サンディ・スターンも終盤に顔を出す)、いくぶんかそのことに頼った話の進めかたになっていたような気がするのは、やや留保事項として残らないでもなかったので、少しだけ評点を落としておきます。でもよくできた物語だった。

(2000.10.8)

スコット・トゥローの最高傑作(wad)


『危険なやつら』 ★★★★
チャールズ・ウィルフォード/浜野アキオ訳/扶桑社文庫
The Shark-Infested Custard/Charles Willeford(1993)

「マイアミでいちばん簡単に女をひっかけられる場所は性病科の病院だよ」(p.21)

■チャールズ・ウィルフォードはジム・トンプスンらとならんで、1980年代になって再評価の波を受けたカルト系パルプ作家。本書はばらばらの作品を作者の死後ひとつにまとめたという、解説を読んでもいまいちよくわからない経緯をたどって発表されたものらしい。
■内容のほうもそんな異色の経緯にふさわしい、ポップでクールで、そして微妙に不条理なずれた雰囲気。マイアミを舞台にしたいちおう犯罪小説なのだろうけど、犯罪行為をさほど盛りあげて描写していくわけではない。主人公格の四人組の男がどれも、金にも女にもほとんど不自由なさそうなヤッピー野郎なのが特徴的(解説の滝本誠は『アメリカン・サイコ』の名前を挙げているけれど、まあたしかにそんな路線)。そういう「勝ち組」的な登場人物たちが、女をひっかけたりの日常的な悪ふざけの延長で、いつのまにか平然と殺しに手を染めていたりする。その巻き込まれかたもどこか奇妙で、事実関係が完全に破綻しているわけでもないのだけど、展開の無意味さかげんやアンチ・クライマックス風味が、どこか独特の不条理感をかもしだしている。そういう意味では純文学的といえるのかもしれない。
■随所で披露される軽快な人種/宗教/政治/下ネタが、過剰な饒舌ぶりですばらしい。ただ言いたい放題なだけでなく、やけに含蓄を感じさせたりもする。本筋よりむしろそういった細部のほうが印象に残るくらい。たとえば、銃器店で共和党の投票用紙を見せたらとたんに待遇が良くなった、なんてくだりには思わず吹き出してしまった。

(2000.10.7)


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