▼ Notes 2000.8

8/29 【それじゃエロゲーみたいだな】
『黒い犬』を読んだついでに少しイアン・マキューアンの情報を探してみたら、実は『セメント・ガーデン』は映画化されてたみたいですね。お姉さんをシャルロット・ゲンズブールが演じているらしい。こういう方面には疎いので全然知らなかった。ちなみに、こちらの論評でなかなか熱く語られているところによれば、出来も悪くないみたいなのでちょっと観てみたい。ただし邦題は、「ルナティック・ラブ〜禁断の姉弟〜」なんていう脱力するものになってるみたいだけど……
■ところで上に挙げたサイトでは『セメント・ガーデン』の隣で山本直樹の漫画が語られていて、それは妙に納得してしまった。


8/18 【ひまわり】
m@stervisionの最新で紹介されている 邦画「ひまわり」は、なかなか良さそう。紹介文からすると、トマス・H・クックの「記憶」もの(をポジティヴにした路線)や、スティーヴン・キングの『IT』みたいな風味があるのかな? いずれにしても、ミステリ読みとしては結構こころ惹かれる導入じゃないだろうか。製作陣も新進気鋭のようだし。
■ヒロイン役の麻生久美子は最近の注目株みたいだけど、NHKで放送しているドラマ「喪服のランデヴー」(もちろん原作はコーネル・ウールリッチ)にも出ていてとても可愛かったので、こちらも魅力的。でも「喪服」だから冒頭ですぐに死んでしまっていたけど(余談ながらヒロインの死については、学生運動時代のかつての仲間たちが山で……という、まんま『マークスの山』みたいな話に置き換えられていた。ちなみにドラマの脚本は野沢尚)。ただしこの映画、いまのところ新宿の単館上映みたいだけど。
■このm@stervisionはいまさらだけどとても力の入った映画評サイトで、観ている映画の数も文章のおもしろさも半端じゃないと思います。言いたい放題なんだけど、きちんと筋が通っているのが漢っぽくて素敵。読んでいて感心するのは、たとえばこの「ひまわり」にしても、好意的にとりあげながら満点をつけていないのはどうしてか、という点が具体的にきっちり読みとれること。僕のようなへなちょこ評者だと、こういうのは結構手抜きしてあいまいな書きかたでごまかしてしまったりするので(「構成はやや粗いが……」とか)、見習わないといけないなあ。


8/15 【舞踏会へ向かう三人の農夫】
■リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(柴田元幸訳/みすず書房)をようやく読了。決して難解でなく平易な文章のわりに、読み進めるのに時間のかかるタイプの本だと思う。まあ、こちらが途切れ途切れに読んでたせいもあるだろうけど。一枚の写真を出発点に、三つの物語軸を交錯させながら「二十世紀」全体を描きとってしまう小説で、さらに「歴史」と「個人」、あるいは「物語」と「読み手」の関係などについてもじっくりと考えさせる。題材は壮大だけれども変な力みとは無縁で、随所で発揮されるどこか英国風の上品なユーモア感覚が好ましい。日本であえて言うなら、奥泉光(『グランド・ミステリー』とか)あたりと通じるところがなくもないだろうか。
■純粋な意味で愉しめたかどうかはともかく、とりあえず柴田元幸の紹介文は的確だと思う。たとえば本書の「訳者あとがき」では、

これらの問いについて考えるために(答えるために、ではなく)、リチャード・パワーズは、もし彼らが五月一日、春の祭典に開かれる舞踏会へ行くところだったら、と想像してみた。(p.412)

と書かれているけれど、答えるのではなく「考える」という指摘がたぶん重要で、思えばこの小説はつねに読者を参加させて「考えさせる」ような構造になっている。だから冒頭に掲げられた問題の写真を適宜見返してみると、そのたびに違った物語的意味をまとって見えてくる。物語がはじまると見せかけて何もはじまらないまま終わる、という態度を仮にポストモダン的とするなら(いや、適当に書いているので全然違ってたらすいません)、パワーズはその地点からさらに一歩踏み出した、いわばポスト・ポストモダンの段階の作家ということになるのかもしれない。
■ついでに、「文学界」七月号の特集座談会「R・パワーズは第二のピンチョンか」も読んでみた。なかでは高橋源一郎の批評が興味深い。いくつか印象的な指摘を抜き出してみると、

つまり写真について語ることは、現代芸術について、ひいては現代について語ることになる。現代人は写真を見る、というか読むとき、古代や中世の人間がしてなかった認識をする。そういう認識をしている現代人の創っている芸術が小説だということも含めて、写真のことを語るだけで全て現代についても芸術についても理論的に語れるようになっている。これが非常にうまい。(p.170)

よく見ると、決定的な描写のところで科学的定義を使っているところが多いんですね。/これはなぜかと考えると、彼が用いる視差、あるいは不確定性理論を表現において突き詰めていくと、主観的な形容詞を使えないということになる。これは定義できない、と言った瞬間に何も書けなくなるから、ではそれを何で置換するかというと、結局科学用語になる。(p.179)

なのだそうです。なるほど。
■オートメーションや大量生産の普及した(さらに世界大戦も経験した)現代社会は、文学のなかではたいてい「個人」を踏みにじる時代として描かれることが多い。けれども本書の立場は、だからこそひとりひとりの個人に機会があるし物語が生まれるのだ、という思考に近くて、その精神は基本的にあたたかい。まあ、この小説自体にしてもたくさん複製されて本屋にならんでいるわけだしね。